第2話 差し伸べられた手は、救済か、策略か
王宮の廊下は、やけに静かだった。
さきほどまでの喧騒が嘘のように消え、
残っているのは重苦しい沈黙だけ。
わたくしは王家の紋章が刻まれた扉の前に立ち、
最後の書類に署名をした。
婚約破棄の正式承認。
ペン先が紙を滑る音が、やけに大きく感じられる。
「後悔は、なさらないのですか」
低い声が背後から届いた。
振り向かずともわかる。
帝国皇帝、カイゼル。
「後悔する理由がございませんわ」
わたくしは穏やかに答える。
「必要とされぬ場所に留まるほど、愚かではありません」
一瞬の沈黙。
「では、必要とされる場所へ来る気はあるか」
その言葉に、ようやく視線を向ける。
皇帝は真っ直ぐにこちらを見ていた。
試すような、しかし迷いのない目。
「帝国は、優秀な者を正当に評価する」
……なるほど。
救済ではない。
取引。
「わたくしを利用なさるおつもりで?」
「当然だ。無能な者に国は任せられぬ」
率直すぎて、笑いそうになる。
「ですが、私は断罪された女です」
「冤罪だと理解している」
即答。
「帳簿の流れ、交易の均衡、資金循環。あれは貴女の仕事だ。王子ではない」
見抜かれている。
これほど正確に。
「帝国へ来れば、貴女の才覚を縛る者はいない」
静かな誘惑。
わたくしは窓の外を見た。
城下ではすでに噂が広がっているだろう。
悪役令嬢、追放。
王子の英断。
けれど。
今頃、北方交易は完全停止。
三日後には食料価格が跳ね上がる。
一週間で貴族たちが騒ぎ出す。
王子は理解するだろう。
自分が切り捨てたものの重さを。
「条件がございます」
皇帝の瞳が細められる。
「申し上げよ」
「わたくしの侍女と、忠誠を誓う部下の安全を保証していただきたい」
「承知した」
迷いがない。
この男は、決断が速い。
「もう一つ」
わたくしは微笑んだ。
「わたくしを“哀れな女”として扱わぬこと」
一瞬、皇帝の口元がわずかに動く。
「貴女を哀れむほど、私は愚かではない」
その言葉は、真実だった。
皇帝は手を差し出す。
「来るか、セラフィーナ」
名前を呼ばれたのは、初めてだ。
王子はいつも
「公爵令嬢」としか呼ばなかった。
わたくしはその手を見つめる。
追放ではない。
選択。
そして。
——これは、復讐ではない。
正当な評価への移動。
ゆっくりと、その手を取った。
「お供いたします、陛下」
廊下の奥で、慌てた足音が響く。
「で、殿下が……! 国庫の凍結が解除されません!」
王国の歯車が、軋み始めている。
皇帝はわたくしを伴い、歩き出す。
「歓迎しよう、我が帝国へ」
背後で崩れゆく王国を、振り返ることなく。




