教室の扉
教室の扉の前に、立っている。
目の前にあるのは、木製の2枚引戸だ。
取手の部分だけは金属製で、窪んでいる。
廊下を挟んだ壁面に一列に並んだ窓から陽が差し込み、そこだけ発光したように輝いていて、眩しい。
おそらく、朝の光だろう。
透き通っているが、静かに力を秘めたような気配がある。
扉には、明かり窓などは無く、人声も届いて来ないので、室内の様子は一切分からなかった。
なんにせよ、扉を開けること以外に選択肢は無いのだが。
指先を取っ手に掛け、扉をスライドさせると音も無く開き、室内の様子が一望出来た。
多少意外だったのは、そこには誰も居なかったことだ。
今までには、こんなことは無かった。
机と椅子のセットが、生徒数の分だけ数式に従ったように整然と並んでいるだけだ。教室とは、どこも似たような風景をしているものだなと思う。
無意識に室内に進み出て辿り着いたのは、窓際の最後列だった。高校生の頃に、一年と三年の時に、その席だったことを思い出す。そこに立ち尽くして、しばらく周囲を眺める。
前方は一段高くなっていて、壁には黒板がある。その脇には時間割が貼られているのだが、今日は何曜日なのだろう。黒板は真っ新だし、カレンダーや時計も見当たらない。
誰も来ないのだろうか。
窓越しに校庭を眺めて見るが、壁に掛かった絵画のように変化は無かった。
雲は浮かんでいるが、漂っていない。そこに貼り付けられたように固定されているだけのようだ。
やはり、いつもの夢なのだろう。
時折、教室の夢を見ることがある。
それが、いつの頃からだったのかは覚えていない。大抵は、体調を崩したり、寝込んだ時に現れたのだ。
最初は、小学生の頃に大病をして長期間入院したことがあったので、その時に学校を思い出して夢に見たことがあったので、同じように病気で寝込んだ際にその夢を思い出したのかと考えたのだが、違うようなのだ。
何故なら、夢を見る度に教室に変化があったからだ。
場所も、時間も、季節も、毎回異なっていた。
学生時代の思い出の教室もあったが、全く見知らない場所の時もある。
知っている人が混じっている時もあるが、大抵は見知らぬ人達が多い。
同じ場所や、人が、再び現れたことは無かったはずだ。
教室という舞台設定が同じなだけなのだ。
だから最初の頃は、夢特有の脈絡も意味も無いものだと思っていたのだが、繰り返されるうちに、教室という共通点に気が付いたのだ。
毎回、教室の扉の前に立っているところから夢は始まった。
扉を開けた先は、小学校の頃の教室の時も、大学の講堂の時もあったが、舞台が教室ということだけは一定していた。
そのうちに、夢を見た際、教室の扉を開けなかったら、どうなるのか試したことがあった。
廊下を抜け出して階段を降り、または登り、外部への扉を見つけ出す。ノブに手を掛けドアを開け、通り抜ける。
しかし、そこは再び教室の扉の前なのだ。
なので、この夢には、教室の扉を開ける以外の選択肢は無いようなのだ。
だからといって、教室のなかで不愉快な出来事があるわけでは無かった。
大抵は授業中の退屈な風景や、休み時間の他愛も無い盛り上があるに過ぎないし、目覚めた時には既に思い出せない程だ。
けれど、教室の夢を見たということだけは微かながらも確実に記憶の奥底に残り、確実に積み重なっているのだ。
しばらく外の風景を眺めていたが飽きて来たので椅子に座り込み、再び、誰もいない教室をぼんやりと見回していたら、前方の扉に、一瞬、光が差し込んで来た。
誰かが、入って来たようだ。
そのまま近くの席に着くのかと思っていたのだが、後方まで歩いて来る。
それも、真隣の席に着席した。
こちらには気付いていないのか、それが平常の態度なのか、通学鞄から眼鏡ケースと一緒に文庫本らしき本を取り出すと、鞄は机脇のフックに掛け、読書を始めた。
女子生徒だ。
ショートカットだが、若干俯いた姿勢なので髪に覆われ、顔は見えなかった。
時折、ページを捲る音だけがする。
この夢の世界では、どうやら時間が静止しているようだが、読書によって積み重ねられたページは、やがては本の最後まで辿り着くのだろうか。それとも、同じページが繰り返されるだけなのだろうか。
彼女の手元を注視するのも迷惑かと思ったので、視線を屋外へと戻す。
快晴で、日中だということが判明するだけだ。学生時代に勉強に熱を入れていたら、もう少し景色からでも情報を得られたのだろうが。
「おはよう。今日は早いんだね」
突然、隣から声を掛けられた。
「あ。うん。お、おはよう」
若干遅れたが、どうにか返答をする。彼女に認識されていたようだ。隣の席なので半ば確信はあったのだが。
「ねぇ、体調が悪いのかな?」
こちらを見つめるように顔を向けてくる。初めて表情が見えた。懐かしいような気もするが、誰だかは思い出せない。
「いや、そんなことは」
もしかしたら、本当に体調を崩して見ている夢なのかもしれないけれど、言っても話が拗れるだけだろう。
「なら、良いけれど。いつもの元気が無いような気がしたから。それに、反応が遅かったし」
「いや、こちらに気付いていないのかと思ってさ」
「あ、ごめんね。小説があと少しで、お終いだったから。それに、眼鏡をしていないと良く見えないの。寝起きの眼鏡は頭痛がするから嫌なのよ」
「ねぇ、どんな本を読んでいたの? あ、言いたくなければ無視していいけれど」
「ううん、有名な本だし、とっても面白かったから構わないよ」
その本の題名を彼女は告げたが、知らないタイトルの本だった。
「残念ね、もし読んでいたら話が出来たのに。この話の前は映画になっていて、それを観て、その続きが気になったから本も読み出したんだから」
「そんなに凄いんだ」
「そう、他にもたくさん本を出しているんだから。えっとね、書いた人は、」
彼女が本のページを最初まで戻して作者名を告げたのだが、その先の言葉以降の夢の内容は覚えていなかった。それ程、その言葉が衝撃的だったからだ。
目覚めた時、全身が、だるかった。やはり、あの夢は、体調を崩したせいで見たようだ。近頃、残業が続き、昨日の帰りの電車のなかで既に身体の異変を感じていたのを思い出す。這うようにして布団を抜け出して押し入れに這い寄る。奥の方からダンボールの箱を探し出す。なかからノートパソコンを取り出して、床置きのまま電源を入れた。
モニターに応答はない。ケーブルの抜き差しを何度か試してみるが、電源は入らない。壊れていたのか、壊れてしまったのか、どちらにせよ、新しく買い直す方が早いかもしれない。
いままで何度も教室の夢を見たが、全ては過去の出来事だった。ならば、今日の夢も、既に過去のことになってしまった夢のなかだけの出来事なのだと思ってしまったのだ。
あの時、彼女の言った小説の作者名は、僕が学生時代に書いていた物語のペンネームだったからだ。小説家を目指していたのだが上手く行かなかった。就職してからも執筆は出来ると思っていたのだが、日々の生活をこなすだけで、長い時間が過ぎてしまっていた。
あの夢は、小説家になることが、既に、夢に見るような過去になってしまっていて、その願望を夢のなかだけで叶えたたのだということを告げていると思ってしまったからだ。