ゼリーと忘却と彼のこと
この国では、失恋すると「失恋休暇」を取得することが義務付けられていた。
3日休むと「軽傷」
1週間休むと「中等度」
2週間以上は「重度失恋症」と診断され、カウンセリングと記憶消去の補助金が支給される。
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ミナという女性は、1年付き合った恋人に突然フラれた。
「……これ、マニュアル通りに“私の嫌いなとこ3つ”をLINEで送ってくるやつ?」
「それ、別れ専用テンプレじゃん……」
涙も出なかった。
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ミナは会社に「失恋休暇申請」を出した。
上司は、AIシステムによって既読2.3秒で承認した。
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休暇中、彼女の食事は、政府指定の「失恋用栄養ゼリー」に置き換えられた。
無味、無色、だが必要な成分は完璧。
3食それを摂るだけで、体調は崩さず、涙腺は徐々に抑えられていく。
「味もなくて、記憶も消せて、泣かずに済むって……もう全部、自動で回復するのか」
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10日目。彼女のもとに、医療局から通知が届いた。
【重度失恋症の可能性があるため、記憶消去プランをおすすめします】
・削除対象:失恋に関する記憶一式
・副作用:少しだけ、甘いものが苦手になるかもしれません
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ミナは悩んだ。
「忘れたい。けど、忘れたくない。
いや……でも、忘れればきっと楽なんだよね?」
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そして、記憶消去手続きを申し込んだ。
処置は15分で終わった。
その後、ミナは医師から栄養ゼリーを1本渡された。
「これは、処置後の味覚テストです。どうぞ」
彼女は一口、飲んだ。
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「……あっ、甘い」
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それは、ほんのりとしたバニラ味だった。
どこか懐かしくて、優しくて、
涙が出るほど。
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「変ですね。味がするなんて。通常、記憶を消した方は“無味”にしか感じないんですが」
医師が首をかしげた。
ミナは黙って、
ゼリーを見つめていた。
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たぶんもう、名前も顔も思い出せない。
でもこの味だけは、なぜか心に残っている。
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それからというもの、
ミナは毎朝、同じバニラ味のゼリーを買っている。
理由はわからないけど、
それが“自分をつなぎとめている何か”のような気がして。
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今もどこかで、誰かが失恋して、
ゼリーを飲んで、何かを忘れようとしている。
でも、忘れきれるものなんて、きっと本当はなかったんだ。