巻き戻された世界
ある朝、世界が一斉に震えた。
すべての人間が、目覚めた瞬間に気づいたのだ。
**「10年前に戻っている。そして、10年分の記憶がある」**と。
企業の社長は株を買い占め、学生は試験問題をすべて暗記していた。
殺人者は犯行を回避し、失恋した者は告白のタイミングを変えた。
誰もが、“やり直し”の機会に歓喜した。
だが、次第に歯車が狂いはじめた。
過去の成功は、ひとつしかない。
1人が株で儲けようとした瞬間、他の100人も同じ行動をとる。
株価は暴騰どころか大暴落。
スポーツの試合は全員が「正しいプレイ」を選ぶせいで動きがかぶり、試合にならない。
大学の合格者は、定員の数十倍。
流行語は先に出したもの勝ちだが、同時に何百人もが叫んだせいで、意味を失った。
世界は過去を再現するための戦場と化した。
やがて「記憶がある者」を危険視する動きが現れた。
政治家も軍人も、10年前には想定していなかった未来を知っている。
それは、国家にとっても危機だった。
記憶を封じる薬が開発された。希望者は少なかったが、強制接種が進められた。
最後に笑ったのは、ただの一般人だった。
彼は10年前、どこにでもいる平凡な会社員だった。
未来を知った彼は、何もしなかった。株も買わず、告白もせず、ただ静かに働いた。
なぜなら、彼の記憶にはたったひとつの真実があったのだ。
「10年後、全人類が記憶を持って過去に戻る」という未来。
つまり、何をしても、また元に戻るということ。
それを知っていた彼は、ただ一人、落ち着いて10年間を過ごし、そして――
その日、また世界が震えた。
すべての人間が、10年前に戻った。
記憶を持ったまま。
彼は目を覚まし、また静かに微笑んだ。
「よし、何もしないぞ」