辺境伯閣下のお飾り妻(物理)になりました
「これはこれはウルフスタン閣下、遠路はるばるようこそおいでくださりました」
「いやいや、こちらこそ私のような田舎者をお招きいただき、身に余る光栄です」
今日はワインバーグ侯爵家が主催する、夜会当日。
ワインバーグ家の嫡男であるダリル様の婚約者として、私もホストの役割を果たすべく、お客様たちを一人一人出迎えていた。
今いらしたジャスティン・ウルフスタン辺境伯閣下は、僅か21歳で辺境伯の爵位を継がれた後、たった2年で領土の農作物生産量を40%もアップさせた敏腕。
小麦色に日焼けした肌と、豪奢な服の上からでもわかる厚い胸板が、その逞しさを雄弁に物語っている。
「ところでダリル殿はどちらに? 是非ご挨拶をさせていただきたいのですが」
「あ、ええ、それが……、ダリルは現在席を外しておりまして……」
「そうでしたか。ではご挨拶はまた後ほど」
本当にもう……、どこに行ってしまわれたのかしらダリル様は……。
主催者としての自覚が、あまりにも足りなすぎるわ。
「申し訳ございません」
「いえいえ、あなた様が謝ることではありませんよ」
ウルフスタン閣下は太陽みたいな屈託のない笑顔で手を振る。
ふふ、噂には聞いていたけれど、何て気っ風がいい方なのかしら。
「先に何か飲まれませんか? 各種ご用意してございますので」
ウルフスタン閣下を飲み物のコーナーへ案内する。
「おお! こんなに選り取り見取りとは! どれにするか迷ってしまいますね」
閣下は子どもみたいに瞳をキラキラ輝かせている。
ふふ、可愛いお方ね。
「赤ワインでしたら、こちらのエクフラ産の20年モノがお勧めです。一口飲むだけで芳香な香りとコクが、口いっぱいに広がりますよ」
「ほうほう、それはそれは」
「白ワインでしたら、こちらのニャッポリート産の10年モノが人気ですね。口当たりも爽やかで飲みやすいので、食前酒としても最適です」
「なるほど」
「ビールがご所望でしたら、こちらが最近発売された――」
「あー、もしかして、ここにある品、全部の解説を暗記されているのですか?」
「え? ああ、はい、そうですが」
飲み物だけではない。
全ての料理に対する解説も、頭に叩き込んである。
それくらいのこと、ホストとして当然だもの。
「なるほど、それはそれは……」
「?」
ウルフスタン閣下は太い腕を組みながら、うんうんと深く頷かれている。
はて?
私何か、変なこと言ったかしら?
「おお、アナベル、こんなところにいたのか!」
「「――!」」
その時だった。
ドカドカと足音を立てながら、鼻息荒くダリル様が現れた。
こんなところにって……!?
私はあなた様の代わりに、お客様をもてなしていたのですよ……!
「?」
よく見るとダリル様の傍らには、男爵令嬢のキャシー嬢がちょこんと立っている。
何故、キャシー嬢がそこに……?
「アナベル、ただ今をもって、僕は君との婚約を破棄する!」
「「「――!!」」」
なっ!?
ダリル様は人差し指を私に向けながら、声高にそう宣言した。
そ、そんな――!
あまりの出来事に、来賓の方々の視線が私たちに集中する。
私の横に立たれているウルフスタン閣下も、無言で目を見開いている。
「ど、どういうことでしょうかダリル様……。お客様たちの前で、悪いご冗談はおやめください」
「もちろん冗談などではないさ。もう僕は君みたいな、真面目なだけで何の面白味もない女にはウンザリなんだ」
「……!」
『何の面白味もない女』という言葉が、私の心臓を深く抉った。
面白味のない女……。
……確かにそうかもしれない。
将来ワインバーグ家に嫁ぐ身として、幼い頃からただひたすらに教養とマナーを学ぶだけの人生だった。
それこそが、貴族令嬢として自分に課せられた使命だと思っていたから……。
でもダリル様の目には、『何の面白味もない女』という風にしか映っていなかったということなのね――。
「だから今この時から僕は、このキャシーを新たな婚約者とする! キャシーはアナベルの百倍は、面白い女だからな!」
「わぁい、私とっても嬉しいです、ダリル様ぁ」
ダリル様はキャシー嬢の肩を、グイと強く引き寄せた。
あ、あぁ……。
「そういうことだ。別に構わないよな、アナベル? なあに、心配するな、慰謝料はたっぷり払ってやるさ」
「あ……、はい」
我が家より家格が圧倒的に上のワインバーグ家からこう言われてしまっては、最早私に拒否権はない。
これは実質命令なのだ……。
「ご来賓の皆様、どうもお騒がせいたしました。今夜は僕とキャシーの新たな婚約を祝うパーティーだと思って、存分に楽しんでいってください!」
「くださぁい!」
ダリル様とキャシー嬢は高笑いを上げながら、仲睦まじくこの場から離れて行った。
私の視界が水の膜で歪む。
何だったのだろう、私の人生は――。
必死で身に付けた教養もマナーも、全部無駄だったのだ――。
もういっそのこと、死んでしまいたい……。
「……どうかこちらをお使いください」
「……!」
その時だった。
花の刺繡がされた可愛らしいハンカチが、目の前に差し出された。
ハンカチが載った太い腕の主は、他でもないウルフスタン閣下その人だった。
「あ、こ、これは……。お見苦しいところをお見せしてしまいまして……」
「いえいえ、どうかお気になさらないでください。――あなた様は何も悪くはございません。絶対に、ご自分を責めてはなりませんよ」
「ウルフスタン閣下……」
ウルフスタン閣下の太陽みたいな朗らかな笑みを見ていると、谷底まで沈んだドス黒い心に光が射し、こんな私でも、まだ生きていていいのだという気持ちが湧き上がってきた。
「ありがとうございます……。ありがとうございます……!」
私はウルフスタン閣下からお借りしたハンカチで、目元を何度も拭った。
そんな私を、閣下は包み込むような笑顔で見守っていてくださったのだった――。
「……ハァ」
あの悪夢のような婚約破棄劇から1ヶ月。
ウルフスタン閣下のお陰で何とか自死の危機からは脱したものの、依然として私の人生は今の窓の外の天気のように、黒く厚い雲に覆われていた。
それもそのはず。
理由はどうあれ、私は婚約を破棄された身なのだ。
どんなに私が自分には非がないと弁明しても、世間は私にも何かしらの瑕疵があったのだと判断する。
そんな問題のある令嬢に、新たな婚約者など見付かるはずもない。
このまま一生独り身で家に迷惑を掛けるくらいなら、自分から修道院に行くしかないかもしれないわね……。
「アナベル! お、お前の結婚相手が見付かったぞ!」
「――!」
その時だった。
お父様が大層興奮しながら、私の部屋の扉を開けた。
そんな――!?
「ほ、本当ですかお父様!?」
しかも今お父様は、『婚約相手』ではなく、『結婚相手』と仰ったわよね?
婚約期間すら設けずに、こんな傷物の私を妻として迎えてくださるなんて、どこの聖人なのかしら……。
「ああ、本当だとも。――しかもお相手はあの、ジャスティン・ウルフスタン辺境伯閣下だ」
「――!!」
お父様の言葉の意味を理解するのに、私は数秒の時を要した。
あのウルフスタン閣下が、私を妻に……?
こんな三流のロマンス小説みたいなご都合展開、とても現実とは思えない……。
「な、何かの間違いではありませんかお父様? こんな上手い話、にわかには信じられません」
「うん、お前の言うことももっともだ。――もちろんこの話には裏がある」
「……」
ああ、やっぱりそうなのですね。
「ウルフスタン閣下は、お前にお飾り妻になってほしいとのことなのだ」
「……お飾り妻、ですか」
なるほど、得心が行ったわ。
それなら辻褄が合う。
まだお若いとはいえ、爵位を継いだ以上、世間体を守るためにも閣下は妻を娶る必要がある。
とはいえ、本音ではまだ結婚はしたくなかった閣下は、お飾り妻を娶ることにした。
その相手として、傷物の私は都合がよかったというわけね。
「どうだアナベル? お前がどうしても嫌だというなら、無理にとは――」
「いえ、お父様、このお話、喜んでお受けいたします」
「おお、そうか!」
ここを逃せば、二度とこんなチャンスは巡ってこないだろう。
お飾り妻だろうが何だろうが、私は自分の役割を果たすだけ。
なってやろうじゃない、一流のお飾り妻に――!
ふと窓の外に目を向けると、厚い雲の谷間から、一筋の光が射し込んでいた。
「おお、遠路はるばる、こんな田舎までよく来てくれた! 今日からよろしくな、アナベル」
「はい、こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします、ジャスティン様」
結婚が決まってからは早かった。
とんとん拍子に話が進み、あの日から僅か1ヶ月で、私はこうして辺境のウルフスタン家に単身嫁いで来たのである。
「……話は聞いているとは思うが、私は君に、お飾り妻になってもらおうと思っている。いいだろうか?」
言っている内容に反して、ジャスティン様のお顔は真剣そのもので、そのギャップに思わず口角が上がる。
「はい、もちろんでございます。このアナベル、お飾り妻としての役割、必ずや果たしてご覧に入れます」
私は今までの人生で何万回と繰り返してきたカーテシーを、今日から戸籍上は旦那様になる方に披露する。
「うむ! ――では早速」
「?」
その時だった。
ジャスティン様はおもむろに、母親が赤ん坊を抱く時に使う、抱っこ紐を一回り大きくしたようなものを取り出した。
ジャスティン様……?
「失礼するぞ」
「ジャ、ジャスティン様!?」
ジャスティン様は抱っこ紐で私の身体を包み、そのまま紐をヒョイと自分の肩に掛けたのである。
完全に赤ん坊を抱く母親の構図になってしまった。
んんんんんんんん!?!?
「よし、では行くか」
「ど、どこにですかッ!?」
まさかこんな恥ずかしい格好で、人前に出るおつもりですかジャスティン様ッ!?
「ん? だって君はお飾り妻だろう? だからこうして、私の飾りになってもらってるんじゃないか」
「――!?」
お飾り妻って、そういう意味だったんですか????
「おお、これはジャスティン様、ひょっとしてそちらが噂のお飾り妻様でいらっしゃいますか?」
「まあ、何てお綺麗なお方なのかしら!」
ジャスティン様に抱えられたまま、領内の市場までやって来た私たち。
そこで私たちは瞬く間に、市場の方々から取り囲まれた。
「ああ、私の大事なお飾り妻のアナベルだ。どうか末永く、みんなもよろしくな」
「はい、こちらこそ!」
「アナベル様! このリンゴ、どうぞ持っていってくださいませ!」
「あ、ありがとう、ございます……」
果物屋さんの女店主さんから、袋いっぱいに詰まったリンゴを手渡される私。
みなさん私がお飾り妻(物理)になっていることに対して、まったく疑問を抱いている様子はない。
むしろ私たちの他にも何人か、奥様と思われる方を抱っこ紐で抱いている男性がちらほらいる。
なるほど、これがカルチャーショックというやつか。
きっとこのウルフスタン領では、これが普通のことなのだ。
自分の愛する人をお飾り妻(物理)とすることこそが、最大の愛情表現なのだろう。
その証拠に、お飾り妻(物理)になっている夫婦は皆、一様に幸せに満ち溢れた顔をしている。
で、でも、ということは……。
「フッ、どうだ? お飾り妻としては、やっていけそうかい?」
「――!」
抱かれている関係上、私とジャスティン様のお顔は、常に目と鼻の先にある。
そんなジャスティン様が超至近距離で、凛々しく慈愛に満ちたお顔で私を見てくるので、私の胸はまるで自分のものじゃないみたいにドクドクと早鐘を打ち始めた。
あわわわわわ……!
ど、どうしちゃったのかしら、私……!
これじゃまるで、思春期の乙女みたいじゃない!
「は、はい……、やっていけそう、です……」
「フフ、そうかそうか」
ジャスティン様が太陽みたいな満面の笑みを向けてくるので、危うく私の心は蕩ける寸前だった――。
「アナベル、実は君に、大事な話がある」
「だ、大事な話、ですか」
あれから1ヶ月。
すっかりお飾り妻(物理)が板に付いてきた私は、今日もジャスティン様に抱かれながら、街中を散歩していた。
朗らかな陽の光が心地よく、心まで暖かくなるようだ。
「……君の元婚約者であるダリル殿から、来週末に我が家に挨拶に来たいという申し出があったんだ」
「ダリル様から!?」
何故、ダリル様が……。
「この近くに用事があるのでついでに挨拶がしたいとのことだったが、今までワインバーグ家からそんな申し出は一度もなかった。十中八九、今の君の処遇が気になっているから様子を見てみたいというのが本音だと思う」
「……」
なるほど、いかにもダリル様らしい。
自分が捨てた女が、今どんな人生を送っているのか、気になって仕方ないのだろう。
ひょっとしたら私がお飾り妻になっているという噂を、どこからか聞きつけたのかもしれない。
お飾り妻として惨めな目に遭っている私を見て安心したいというのが、目的に違いない。
「どうする? 君が嫌だと言うなら、断っても全然構わんのだが」
「――いえ、私はまったく問題ございません。私はジャスティン様のお飾り妻としての役割に、誇りを持っております。何も後ろめたいものはございませんもの」
「……フッ、そうか。君ならそう言ってくれると思っていたよ」
ジャスティン様がいつもの太陽みたいな笑みで私を見つめる。
嗚呼、あなた様はまさしく私の太陽ですジャスティン様。
あなた様の飾りにしていただけるなら、私は何も怖いものはございませんわ――。
「これはこれはダリル殿。遠路はるばる、こんな田舎までよくぞお越しくださいました」
「「――!?」」
そして迎えた、ダリル様の訪問日。
いつも通り私をお飾り妻(物理)にしたままダリル様を出迎えたところ、ダリル様とその隣のキャシー嬢は、あまりの光景に絶句していた。
ふふ、まあ、無理もないわよね。
「お久しぶりでございます、ダリル様。今の私は見ての通りお飾り妻でございますので、こんな姿で失礼いたします」
「え? あ? え? お、お飾り妻? お飾り妻って、そう、いう……?」
頭の上に、百個くらい疑問符が浮かんでいるダリル様。
「ええ、我が領では昔から、こうして愛する妻を物理的にお飾り妻とするのが慣わしなのです。やはり男たるもの、物理的にも妻を支えられてこそ、一人前ですからなあ。そうは思いませんか、ダリル殿?」
「――! お、仰る通りです、ね」
明らかに腑には落ちていない様子だけれど、ジャスティン様からこう言われてしまった以上、否定するわけにもいかないですよね、ダリル様?
「おお、そうだ! ちょうどここに、予備のお飾り紐がございます。よろしければダリル殿も、愛する婚約者殿をお飾りにされてはいかがでしょうか?」
「え!? ぼ、僕もですか!?」
「私も、それに!?」
あまりの展開に、激しく目を泳がせる二人。
ふふふ、これは面白くなってきたわ。
「おやおや? まさかできないとでも? あの名門ワインバーグ家の嫡男ともあろうお方が、華奢な女性一人飾れないとあれば、沽券に関わりますぞ?」
「なっ……!?」
ジャスティン様からの露骨な煽りに、青筋を立てて真っ赤になるダリル様。
あらあら、相変わらず精神年齢が低いんだから。
「わ、わかったよ! やってやろうじゃないですかッ! 僕のワインバーグ家嫡男としての意地、見せてやりますよッ!」
ダリル様はジャスティン様から、乱暴にお飾り紐をぶん取った。
さあて、どうなることやら。
「ダリル様、だ、大丈夫ですか……? 実は私、最近スイーツの食べすぎで、少しだけ太っちゃって……」
「そのくらい問題ないに決まっているだろうッ!? 僕を誰だと思ってるんだ!? さあ、いくぞ、キャシー!」
「は、はい……!」
キャシー嬢をお飾り紐で包み、紐を自らの肩に掛けるダリル様。
「ふぬおおおおおおお……!!!」
そしてマヌケな声を上げながら、一思いにキャシー嬢を抱き上げた。
――が。
「うごあああああッッ!?!?」
「きゃあああッ!?!? ダリル様あああッ!!!」
ゴギリという鈍い音を立てながら、ダリル様はその場に崩れ落ちた。
「こ、腰があああああッ!!!! 僕の腰があああああああッッ!!!!」
「ダリル様ああああッッ!!!!」
潰れたカエルみたいにもがき苦しんでいるダリル様の上で、どうしていいかわからず慌てふためいているキャシー嬢。
ふふ、ある意味お似合いのお二人ね。
「ハッハッハ! だらしないですなあ、ダリル殿。そんなことでは、ワインバーグ家嫡男の名が泣きますぞ」
豪快に笑いながら、そっと私にウィンクを投げるジャスティン様。
まあ、まさかこうなることまで計算してらっしゃったんですね?
本当に……、可愛い人。
「腰があああああッ!!!! 僕のこここここ腰があああああああッッ!!!!」
「ダリル様ああああッッ!!!!」
「……愛しているよ、アナベル」
「……はい、私も愛しております、ジャスティン様」
二人が絶叫している横で、私とジャスティン様は、甘いキスを交わしたのであった。