第一話
キビジュ帝国は北地中海(現実ではバルト海)を挟んでクークスの国イェンツェ=カルマール同盟と向かい合っています。モデルはかつて北海ーバルト海交易を支配したドイツ系都市同盟ハンザです。
ー皇統元紀四二四年 二月二四日 キビシュ帝都ケフィアー
この寒い冬の日も、琥珀通りは賑やかで、活気にあふれていた。東西交易路とエドゥル河の交差地点に位置する帝都に点在する、市。黒い煉瓦造りの家々と羊毛フェルトの庇が連なり、色とりどりの布や食糧などが所狭しと並んでいる。都市の外に延々と広がる草原があるためか、帝都を貫く大通りである朱通りとエドゥル河の船着場を除いて、区画整理はされていない。
琥珀通りは、ケフィアの数ある通りの中でも活発な通りの一つである。その一角、レシィ町が、ヨアンの住んでいる町だ。
町と呼ばれるのは、数家族からなる小規模共同体のことである。旧帝国時代から存在し、今尚その体制が引き継がれている。都市は同じ氏族の町で構成されることが多いが、ケフィアのような国際都市では様々な氏族が入り乱れており、町同士の独立性はかなり高い。
「ヨアンちゃん早く!」「待って!」
今日は朱通りでパレードが行われるのだ。レシィ町の子供達は大通りまで見に行くことにした。様々な色どりと人混みに呑まれ、ヨアンはなかなか進めない。人々の間をすり抜けてゆく友人たちに対し、内気な彼女はそんな勇気が出せず、大人たちの間でオロオロとしている。大人たちは、他の町の子供には寛容だが無関心だ。
特に仲が良く同い年のメイが、人の群れの向こうからヨアンを呼ぶ声が聞こえる。人々の活気で、叫び返した声が届いているかわからない。とにかく進まなければ、見失ってしまう。この帝都で迷子になれば、すぐには帰れない。大人たちは寛容で無関心なのだ。
風変わりな格好をしている人がいる。黄色い旅装束で、編笠を被り、靴も周りとは違う。黒い髪をしている。東の方の人だとわかった。交易路の拠点であるケフィアでは行商をする者がよく見かけられる。乾燥した草原と砂漠を歩き、東と西をつなぐのだ。
数十秒後、やっとの事でメイと再会できた。人混みの中から見つけ出してくれたのだった。自分より少し小柄な、茶髪の少女がヨアンの手を引く。町の他の子供達も一緒だ。沢山の人の海を泳ぎ切り、メインストリートにたどり着いた。パレードはまだ始まっていない。
ヨアンは人々の雰囲気の不自然さを感じた。行商人や旅人で騒々しい朱通りだが、パレードの前の雰囲気ではない。無関心だろうか・・・?
一二歳の幼いヨアンがその違和感を感じたまま、パレードは始まった。遠くから器楽隊の音楽が聞こえ、だんだん近づいてくる。大きな竪琴やラッパ、縦笛、太鼓の音がする。やがて、帝都近衛歩兵が、通りの向こうから行進してきた。赫い軍服、紅い生地に皇家の紋が入った軍旗、革製の軍靴の揃った音。伝統的な氏族騎兵ではない、皇帝直轄の近代軍である。
訓練の行き届いた歩兵達。通りの人々が注目する。否、国内の住民は、白けたような目でその行進を眺めている。
その冷たさは、他氏族への無関心の類ではない。それならば、そもそも目も向けないからだ。
紅い軍服を纏う歩兵達が、目の前を通り過ぎて行く。最後尾が見えた時、軽快なエンジン音に気が付いた。しばらくして、金属の浮遊体が列をなしてこちらへ向かって来た。戦闘航空艇、鉄製のガスタンクに細長い船体を吊り下げ、船体中央に五cm砲を乗せ、前方、砲の左右、後方に同じく紅い軍服を着た兵士が搭乗している。軽快なエンジン音は、砲の後方下から発せられていた。
その新しい兵器にも、人々は好奇心を見せない。
ヨアンは、流石に怪訝に思った。
何が、戦争で起こっているのか。父の行った戦争で。
ーー父さんの行った戦争で? そうだ、父さんは、今、どうなって・・・ーー
父は、近代軍の兵士として徴兵された。近代軍がどんな風に見られているのか考えれると、どこか不安になってくる。
子供達は、パレードを楽しめているようで、とりあえずよかった。皆、ちゃんと言うことを聞いてくれるから、迷子も出していない。
メイは、安心して、パレードを眺めた。比較的新しい兵器である戦闘航空艇に、少なからず心躍らせる。大空を、隊列をなして飛ぶ航空艇の姿を想像すると、楽しい。
ただ、心配なのは、ヨアンの様子だ。
来てからずっと、楽しそうにしていない。昨日、パレードを見に行くことに乗り気でなかったのは、興味がないのだと思っていたけれど、もしかしたら、何か思うところがあるのかも知れない。そう思って、声を掛けてみた。
「ねえ、あれが空を飛んでるとこを想像してみてよ」
唐突に、声を掛けられる。隣に立っているメイだ。右を見ると、笑顔でこちらを見ている。彼女の視線が、航空艇の列にちらりと戻る。
「航空艇。高い空を、鳥のように飛んでいるところを」
「・・・うん」
「乗って見たいって思わない?」
ーーでも、それに乗って、戦争へ行くんでしょ?ーー
そう考えたが、口には出さなかった。本人は気づいていないかも知れないが、メイの輝く目に向かって、否定的なことは言い出せなかった。だから、代わりにこう言った。
「僕は、いつも飛んでるような船に乗りたいかな。落ちそうで怖いよ」
メイは、その言葉を受けて、顔を戻した。目は未だに輝きを失っていない。
「自由に空を、飛んでみたいんだよ」と、つぶやく。
「どこにでも飛んで行ける」
「メイは、どこか別の所へ行きたいの?」
メイは、また振り返って、困ったように笑って言う。
「そううことじゃなくて・・・ただ、旅はしてみたい。いつか、母のようにね」
「そっか」と、ヨアンも笑ってみせる。
そんなことを思っていたなんて、知らなかった。けれど、いつもの夢見るような目を思い出すと、不思議はなかった。そう考えてから、また父のことを思い出した。
ーー戦争。ーー
ヨアンの顔を覗き見ると、また曇っている。やはり、思うとこがあるに違いないのだ、と考えた。
「帰ろっか」
「どうして?」
「みんな、飽きてきたみたい」
「そうだね」
メイが子供達に声を掛けて、帰路につく。人の海を再び泳ぎ切って、家に帰るのだ。この都市で生まれてからずっと過ごしてきた身には、難しいことではなかった。
後ろから聞こえていた器楽隊の軍歌は、いつしか群衆の騒々しさに紛れて、聞こえなくなっていた。
琥珀通りは、春に向かう冬の帝都の昼前の、賑やかさだった。
ー皇統元紀四二四年 三月一日 帝都ケフィアー
四日間考えたけれど分からなかったから、母のテニィズに聞いてみる事にした。父の行った戦争はどうなっているのか、と。夜、寝床でそう聞くと、茶色い髪の母は自分の寝床に腰を下ろして言った。
「ケレメクに海戦のことを聞かなかった? 艦隊は港に逃げ帰ったって」
「ううん、聞いてない」
帝国の劣勢をこの時初めて知った。謎が解けたようだった。帝国はパレードを戦意高揚の手段の一つとして使っていたが、帝都の住人は、自国の劣勢を知っていて、不満を募らせているのだ。
「私たちには詳しいことはわからないけど、・・・戦争に負けているのね」
彼女は声を潜めてそう言った。そう言えるということは、噂程度ではなく本当に戦況は深刻になっているという事だ。
「父さんは、どうなってるの?」
思わず不安になってヨアンはそう聞いたが、彼女は少し寂しそうな顔をしてこう言った。
「分からない。遠すぎるから、何もね。・・・さ、もう寝ましょう」
そう言って布団に潜り込む彼女を、ヨアンはその碧い目でじっと見た。
「うん、おやすみ」
一人足りない家で、二人は眠りについた。いつものような冬の寒い夜だった。
ー皇統元紀四二四年 三月二日 帝都ケフィアー
この日も琥珀通りは活気に溢れている。その色彩は鮮やかだが混沌としており、交易都市の様相を如実に表していた。ヨアンは、メイの母であるケレメクの手伝いをしていた。商人のキビジュ人の子供たちの間では当然の仕事だ。
「ヨアン! そこの赤い布を持ってきて!」
「はい!」
「ありがとう。……例えばこんなのはどうでしょう? 極東から来たもので、龍が描いてあります。……」
ケレメクは西から来た人を相手に取引をしようとしている。彼らにとって異国情緒のあるものはよく売れるのだ。メイは、昨日仕入れて来た新しい布の荷ほどきをしている。綿布を包む白い麻布の縄をほどき、麻布を外し、作業台の上に置く。色彩豊かな極東の布だ。ヨアンは手を空かせると、ちらとメイを見た。メイもちらと目をやって、くすりと笑いあった。
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取引が成立したらしい。クークスの男が握手しようとするが、ケレメクが断っていた。他の商人がその商人を窘める。
「Kibiju-folk skakar inte hand(キビジュ人は握手しないよ)」
突然大きなバリバリバリ、という音がする。この交易都市に住み、また訪れるほとんどの人は慣れているようで、通りの活気は変わらない。やがて、家々の茅葺の屋根の上から、徐に船が飛びたした。商用の輸送航空船が、ここからさほど離れていない船着場から離陸した。船は、通りの上空を飛び抜け、ゆっくりと北西へ船首を向けて、飛んで行った。この船はこの後、イェンツェ=カルマール同盟の中継都市ノヴゴロドへ向かい、その商品は西クークスやコロンボ大陸へ運ばれて行く。ケレメクから布を買った白い肌の商人たちも、イェンツェ=カルマール同盟の商人で、彼らも母国へ航空船で商品を送るのだ。
ヨアンとメイは店の外に出て、空を飛んでゆく輸送船を見上げた。二人の顔が雲ひとつ無い空の、強い陽に照らされると、すぐに船の影が落ち、やがてまた陽が射す。
「あの船、どこに行くの?」
メイがヨアンに聞く。
「僕も知らない」
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この日、秋津王国陸軍第三軍により路順軍港が占領される。帝国近代軍陸軍は、撤退を開始した。