序話
初投稿です。
史実では、南ロシアからモンゴル高原までのステップ地帯で、ソヴィエト連邦に「文明化」される以前の数千年間を活躍した遊牧民の世界のお話です。日露戦争〜第一次大戦くらいの年代の物語になります。
西洋とも東洋とも異なる遊牧民と商人の世界に、しばしの間、付き合って頂ければ幸いです。
誰かに抱き締められている、暖かさと息苦しさ。
その誰かは、名残惜しそうに我が子を放し、彼らしいぎこちなさで微笑む。
口を開いて何かを言い、手を振って背を向けて、人の海の中に消えていく。
その姿を目で追ったが、すぐに見えなくなった。
「ーーー!」
いつの間にか人の海も消えて、そこは地面も空も果てしなく白い何処か。痛い程の静寂。
朧げな意識の中で、失ったその姿を探し求めて歩く。
「父さん!」
白く冷たい地面に、気配を発するものがあった。
路。ここから始まり、細く伸びた路。
父の元に導くかのような。
ーー路に在れ。ーー
幼い彼女は、その路を歩き始めた。その先に何があるかも知らないままに。
ー皇統元紀四二四年 三月一四日 キビジュ帝国 帝都ケフィア レシィ町ー
寝床の上で、ヨアンは目を覚ました。手を突いて起き上がると、目の前にあるのは黒い煉瓦の壁。
「父さん?」
隣の寝床の母は、まだ寝ている。窓の外も、夜の暗闇に包まれている。通り過ぎる荷馬車の、ガラガラという音が、町表の通りに響く。
「帰ってくるよね、父さん?」
―皇統元紀四二四年 三月一四日 キビジュ帝国 旻州地方・遠春近郊―
四二四年のキビジュ帝国地図
部分拡大(上図中央アラルサライとクチャの間の地域)
(白地図 : 白地図専門店さんより)
キビジュ帝国と秋津王国による旻州地方をめぐる戦争は、先手を打った秋津王国が優位に進めていた。極東の新興国であるこの王国を過小評価していたキビジュ帝国は、開戦初期の海戦で惨敗。秋津王国軍は、路順軍港に上陸し、同地を占領した。
その後、帝国近代軍は極東オリエントでの海軍力を喪失し、陸上戦力の二割を失い潰走した。対する秋津王国軍は、敗走する帝国軍を追い内陸旻州地方へ進撃、キビジュ帝国の東西鉄道を確保した。
旻州地方における最終防衛ラインに後退したキビジュ帝国近代軍は、反攻を企図し、中継都市遠春に集結したが、早くも秋津王国軍に追いつかれ、会戦となった。三月十四日の払暁、のちに《遠春攻防戦》と呼ばれる、今次戦争における最大の陸戦の火蓋が、切って落とされた。
秋津王国軍の目的は、遠春陥落。
キビジュ帝国軍の目的は、都市防衛と反攻。
秋津王国陸軍は、都市南周に敷かれた地雷啓開のため四隻の軽量巡空艦を進出させ、爆撃した。払暁から三時間にもわたる野戦砲の準備砲撃も行われた。その末に、開かれた進撃路に陸上部隊が吶喊。一方の帝国軍も、軽巡四隻からなる極東第二航空艦隊を進出させ、敵艦群を迎撃した。
航空艦とは、両舷の巨大なタンクに浮遊ガスを詰めた空飛ぶ艦艇のことである。近代工業の発達によって発見された浮遊ガスは、空気ガス中で莫大な浮力を発生させ、研究開発の結果、空に船を浮かせることに成功した。汽車、自動車に次ぐ、近代文明の生んだ革新的な輸送手段となった。
戦闘開始から一時間後、敵軽巡との砲撃戦で満身創痍となった帝国近代空軍第二航空艦隊、敵本拠へ進路を定め、その先頭を飛ぶ旗艦の船体、下部後方にある艦橋。旗艦「朝霧」艦長パティヤ中佐は、秋津王国の本気を見せつけられたと痛感していた。敵軍の進出させた四隻の軽巡は、練度が高く強敵だった。先の戦争での獲得領を奪われたことをかなり悔しく思っているらしい。秋津王国はその後急激な軍艦建造を進め、帝国との戦争に備えていたが、帝国はそうでは無かった。
ーー東公都の怠慢だったろうか。内政に注力しすぎたか。西翼出の私がこんな東に配属された意味は…ーー
帝都の思惑を改めて感じ、苦笑する。こんな時に考えることではない。
突然、緊迫した伝声管からの声が艦橋に響く。
『不明船発見! 不明船発見!』
パティヤ中佐は艦長席から離れ、艦橋の窓に張り付いた。そして目にしたのは、進路の先の地平線から現れる艦のマストだった。帝国軍極東管区に残された航空艦は、満身創痍の第二航空艦隊の軽巡四隻のみ。新たな敵艦の発見は、敵軍がそれを上回る戦力を投入していることを決定的に示唆していた。
艦内は騒然としている。パティヤ中佐が今回の戦争で何度も積んだ戦闘経験。その経験が、迅速な対応を引き出す。
「司令部へ電信! 発、第二航空艦隊旗艦「朝霧」、宛、合同司令部、我新たに複数の大型艦影確認、進路北!」
通信兵達が我に返り、突然もたらされた入力に急いで旧式通信機をカタカタと鳴らし始めた。
>>
満身創痍の第二航空艦隊は回頭を完了し、新たな敵艦群から十キロメートル離れての並走を始めた。その時には既に敵艦群が重巡、格上であることに気が付いていた。搭載主砲口径は約二倍、基数は「朝霧」の四基に勝る六基、シールド付き。あまりにも兵装の差が開きすぎている。その上第二航空艦隊は満身創痍である。
勝ち目は無い、と言えたが、彼らはその劣勢の下、陸戦の要たる自軍の砲兵部隊を死守するため、格上に喰い付かなければならなかった。
敵艦に狙われている帝国軍野戦砲陣地には、しかし、混乱を避けるため、その情報は入ってこなかった。
砲兵の一人、イマール少尉は、戦場の喧騒、砲の嘶きを聞きながら、その中で黙々と作業を続けていた。額に汗を浮かべた彼は、帝都に家族である妻と幼い娘を残して、早春のオリエントの大地の戦場に立っていた。寡黙な彼の耳は、遠くかすかに、唸るような重低音を捉えた。
しかし砂埃が、さぁ、と音を立てて舞い上がり、それをかき消した。彼の意識には空気を破る砲声のみが残った。
「全砲門斉射、開始!」
砲雷長のがなる声が伝声管に響く。同時に艦のすべての主砲が火を吹き、一瞬遅れて煙を吐き出す。弾道観測の数十秒、艦内は異様な緊張感に包まれる。
斉射から六十二秒後。
「着弾まで十秒。九、八、」九、八、七、と誰もが心の中で唱える。艦隊の火線が入り交じりると、敵艦が瞬くように光った。
「敵艦発砲!」「命中二、僅差十五、左遠一!」の報告が、同時に聞こえた。
ふい、と天を仰ぐ。イマールは、碧い眼のその視界の中に小さく黒い点を見た。
ーー極東にはあんな飛び方の鳥もいるのだな。ーー
そして、すぐに自分の指揮下にある砲に目を戻した。
偵察・着弾観測用の小型航空艇からは帝国軍砲陣地がよく見えた。大きな遠距離用無線機のスイッチを入れ、つまみを回す。
「現刻をもって無線封鎖を解除する。電信、『砲陣地を確認。砲撃を開始されたし。位置は貴艦より北十いち…』」
電信が終わるとしばらくして。ーー了解ーーと短く電信が返った。
>>
敵艦から放たれた砲弾が赤黒く尾を引いて飛来。三秒ほどあって砲声が届く。中佐が叫ぶ。「転針五度!」
損害軽微で遊弋する敵艦隊を目に、ボロボロの自艦隊は、全力での回避行動をせざるを得ない。そうしている間にも、敵艦はさらに上昇。自艦隊、帝国極東管区軍第二航空艦隊の射程から難なく逃れた。敵艦隊は、その射程内に帝国軍砲陣地を捉えた。敵艦は、またしても発砲。しかし、その火線は、第二航空艦隊へは飛んで来なかった。
北へ、何十本もの火線が伸びてゆく。「あぁ・・・」
『砲陣地を放棄し、退避せよ』
伝令の持って走るけたたましいサイレン音の中、帝国軍砲陣地では速やかな退避が行われていた。
「少尉殿、行きますよ」「ああ」
何人もの砲兵たちが、一時退避用の壕に滑り込んでゆく。前を走る部下も続いた。
ー轟音を立てて飛び込んでくる赫黒い完全な円。
イマールも滑り込もうと、短く草の生える地面に手をつき、
ー砲弾が、ずらりと並ぶ砲の一つをめがけて、着弾。砲と砲弾の破片が飛び散る。細かく破砕されたうちの数十個が、軍服を、身体を、赤く染めて引き裂いた。
彼の意識は、その死を自認する前にこと切れた。壕にその身体が落ちる。
ーー少尉殿!ーー
部下の慟哭も、彼には聞こえなかった。
第1章での登場人物紹介
※キビジュ人は、町の名前・年長の方の親の名前・自分の名前 の順でいいます。
レシィ・イマールチャ・ヨアン
主人公/皇統元紀四一二年(命暦1893年)、キビジュ帝国帝都ケフィア生まれの少女/父イマールを旻州戦争で亡くす/内気で無口、無表情
レシィ・ケレメクチャ・メイリムディ(メイ)
ヨアンのいとこで同い年、幼馴染の少女/母ケレメクに似て明るくしっかり者、何事にも真剣
レシィ・ボルティチャ・ケレメク
三八八年生まれ/メイの母/レシィ町で布店を営む
レシィ・ボルティチャ・テニィズ
三九二年生まれ/ヨアンの母/ケレメクの妹/内気でおっとり、昔はあがり症だった
レシィ・セキルチャ・イマール
三八九年生まれ/ヨアンの父/旻州戦争で戦死する/無口、昔は不思議っ子だった
パティヤ・アンテン
三八〇年生まれ/北方のアルキカ族出身の職業軍人、旻州戦争では極東第二航空艦隊旗艦「朝霧」艦長、艦隊司令/理性的で冷静
泉竜 仁夏
四〇五年生まれ/極東のキタウ族 商人の家である泉竜家の出身/旻州戦争をイマールの部下として戦う
レシィ・ケレメクチャ・ケカスパン(ケク)
四〇六年生まれ/メイの兄/旅をしている(詳細は後述)/明るくしっかり者、お調子者だが根は真面目
ルドゥ・テーミンチャ・オリハ
三八九年生まれ/ケレメクの青年時代からの旧友/ポードロジュ商業氏族の輸送隊所属/明るいお調子者