死霊魔術師Ⅲ
※
「まいったな……」
思わず出てしまった独り言は、六畳一間に染み広がる。
時刻は深夜零時を回っていた。あれから自室に引き籠り、暇を持て余して、以前にワンコチャンから無理やり押し付けられて積んでいた学園恋愛モノの少女漫画を音読して胸やけ起こすのにも飽きてきた頃合いである。
変な時間に昼飯を食ったせいで、腹の虫がさっきから何度も咆哮している。残念ながら冷蔵庫の中はミネラルウォーターのみ。昨日、ワンコチャンが最後のポテチの袋を開けて齧りながらホラゲしてワーギャー叫んでいたので、取り置きの間食の類もすでに切らしていた。
このままでは誰かに殺される前に飢餓で死んでしまうかもしれない、なんて大げさなことは言わないが。そもそも何かお腹に入れないことには今日は眠れそうにない、なんてこの状況で眠る気満々な俺ではあった。だって寝不足はお肌とモテ度の天敵だってワンコチャンも言ってるし、さすがに寝てるときに襲ってくるような空気読めないやつはいねえだろ、とか勝手に思ったりしているのだ。いや、俺がもし敵の立場だったら、まっさきに寝てる時間を狙うけどさ。
ぐう、ぎゅるるる。
溜息する。
我ながら本格的に何かを口にした方がいい段階ではあるね。じゃないと、もしバトル展開になったときに、こんな間抜けな音が鳴ったとしたら嫌すぎる。恥ずかしくて自分で自分の首をくくって自害しちゃうレベルだ。そうならないためにも仕方ねえ。この時間に開いているコンビニは、少し歩いた場所にしかないが、そこまで深夜徘徊するしかない。
起き上がると、俺の腹の上で寝息たてていた物体が転げ落ちた。ソレは見た目だけなら黒髪の幼女。まるで意思のない人形のようにコロンとその辺に転がると、ちゃぶ台の足に額を打ってうっかり覚醒したみたい。芋虫のようにのろのろと蠢き始め、たちまち怒気を孕んだ魔力が六畳一間に拡散した。眠りを妨げられたのがそんなに気に食わないのか。ソレは黄金の瞳を持つ両眼を眠そうに半分開けて、こっちに無言の圧力をかけて見上げてくる。
はん。他人を勝手に湯たんぽ代わりにする方が悪い。
おかげでこっちの身体は痺れやら痛みやらで最悪な気分だ。
しばらく伸びをしつつ、足に噛みついてくる黒髪幼女を回避しつつ、ささっとパーカーを上に着こむと、軽い財布を持って、えっちらおっちら自室から這い出して外気に身を曝す。
さて、季節的には春と夏の間くらいだが、夜はまだわりと寒いらしい。
パーカーのフードを被って、ポケットに手をつっこむ不審者スタイルで体温低下を防ぎつつ幽霊団地を後にする。国道に出るまでの道を足早に進んでいると、鼻がむずむずしてきた。等間隔に並んだ街灯が何とも不気味チックでやな感じである。
もちろん、この時間、この地方都市で、しかもその中でもわりと郊外にある、半数以上が空き部屋になってる市営団地に続く道なんて、人通りがあるわけがない。こうなってくると、心配しなきゃいけないのは、オカルトではなくホラーの方だ。
「げっ」
案の定と言うべきか。
ふと、もうすぐ国道に出るという曲がり角を曲がった所で、進行方向に見過ごせねえものが目に入ってきたのだ。足を止めて、よくよく確認してみると、間違いない。時折、点滅する街灯の頼りない光に照らされているのは、人間のようなカタチをした何か。
歳はワンコチャンと同じか、ちょっと下くらい。生まれてこのかたずっと虐待うけて育ってきたかのような光ない荒みきった眼つきが特徴の、見るからにこの国の人間じゃねえとわかる銀色の長い髪の毛をボサボサにしている薄汚れた少女モドキが突っ立っていた。
目がばっちり合う。
やだなあ。墓穴だよなあ、アレ。
この業界、人間の形をしているからって一般ピーポーだった試しがねえからなあ。
だいたい、こんな夜中に、こんな場所に、そんな年ごろの女の子が一人で、亡霊のように存在しているわけがない。おまけに、むこうの服はもう何日も洗ってなさそうな、ボロ切れと言っても過言ではないキャミワンピ。昔の奴隷だってもっとマシなもん着ている。薄着にも程があるぞ。ワンコチャンに匹敵するスタイルの良さが遠目でもバレバレだ。どうぞ襲ってくださいと言っているようなもんであるが、悲しいかな。たぶんきっと、襲われるのは俺のほうだと思われる今日この頃、いかがお過ごしだろうか。
「一応、聞いとくけど。俺に何か用か?」
本当に、一応、ワンチャン一般人の可能性もあったんで聞いてみる。ほら、瞳が人外みたいに深紅に染まってたとしても、今はカラコンってファッショナブルなものもあるしね。すると、どうだ。銀髪の少女はゆっくりと頭を下げて、ぺこりとお辞儀したではないか。
「こんばんわ。お初にお目にかかります。イクスはイクスと申します」
…………はい、こんばんは。
感情がない声音ではあったが、予想外にも、イクスと名乗った少女は、まず日本語でちゃんと挨拶してくれたので、期待値がわずかに上昇する。これは、俺の杞憂だったか? だったらこれから行くべきは、コンビニではなく交番ってことになるんだけどな。
でもなあ、もしあの子を迷子として届けたら、そのまま誘拐犯として逮捕されないか心配ではあるね。街をうろついているだけでよく国家権力から職質されちゃう社会的弱者であるため、お巡りさんにはなるべく関わりたくないのである。どうしよ。そわそわしていると、挨拶が終わってから、こちらをじーっと黙って見つめていた銀髪の少女が、再び口を開けた。
「イクスはお前を殺せと主様に命令されました。お前には何の恨みもありませんが、どうか死んでくださいませんか」
機械的に淡々としゃべる少女の言葉に、ほっと安堵する。
よかった。どうやら交番には、行かなくてすむようだ。
敵だ、コイツ。
「おーけー。そういうことなら話は早い。悪いが、俺はまだ死にたくはないんで、それなりに抵抗させてもらうけど? それでもいいって言うなら、どうぞ。遠慮なくかかってくればいい。返り討ちにしてやる」
精一杯のハッタリかまして強者ぶってみる。これで相手が怖気づいて不戦勝になってくれたら儲けもんだもの。ところが荒ぶる鷹のポーズする俺に目もくれず、銀髪少女は先の言葉を繰り返す。
「イクスは、お前を殺せと、命令されました。でも……」
でも?
それに続く銀髪少女の返答は予想の斜め上を通り過ぎ、成層圏突破して状況をさらに複雑にするものだった。
「イクスは、誰も、殺したくないです。でも、お前は、自分で死んではくれないみたいです。でも、主様の命令は守らなければなりません。でも、イクスは、誰も、殺したくは、イクスは……、イクスは……」
えっと。
壊れたラジオみたいで怖いんですけど。
銀髪少女は空虚な紅い瞳でこちらをじっと見続けている。
「イクスは、どうすればいいですか?」
いや、どうすればいいって言われても。
「自分の行動くらい自分で考えたらいいんじゃない?」
我思う故に我あり。人生で一度はドヤ顔で言ってみたい格言だよね。
「……自分で、考える。考えるとは、どうすればいいのですか?」
そんなこと言われたって。
ちょっとお兄さん俗世間に疎いうえに頭悪いんで、そんな哲学的な質問されても困っちゃうんですけど。
ぐぅ、ぎゅるるるるぅ。
ここに来て唐突に空気読めずに鳴り響いたのは、俺が発したお腹の音ではない。
銀髪の少女は自らのお腹を抱えてうずくまる。
「お腹が、減りました。イクスは、もう動けません」
あー。
そんな何を考えてるのかわからねえ無表情をこっちに向けないでもらえる?
「……一つ提案なんだけど。これから俺、コンビニでメシ買ってくるから。あんたここで少し待ってな。戻ってきたら、俺んち行って、風呂入ってその臭そうな服を着替えて、飯食って一息ついて。それから、どうするか、じっくり考えたらいいんじゃない?」
我ながら敵に塩を送る提案だったが、さすがに寒そうな恰好してお腹を空かせた女の子をぶん殴れるほど非道を極めてはいない。それに、俺の提案は、すんなり受け入れられたようだし話し合いで解決するならそっちの方が面倒なくて済む。こくりと小さく頷いて許諾を示した銀髪少女に、俺は肩をすくめてゆっくり近づく。相手が男だったら、ここで油断したところを一気呵成に畳みかけてボコボコにしてやるところではあるが、なにぶん相手は薄幸そうな美少女である。無表情ではあるが、手足が小刻みに震えていることに気付く。仕方ない。うずくまる彼女の頭にグーパンではなく、自分が着ていたパーカーを脱いでかぶせてやる。これでしばらく寒さは凌げるかもね。俺の方はTシャツ姿になっちまって、すっげー寒いけど。
身震いしてから、しばしの暖をとるためにコンビニまでランニングすることにした。