no01
首元へ滑るように食い込ませたナイフの刃先が、あなたの頸動脈を呆気なく切り裂いた。
悲鳴も断末魔も、既に意識すらも置き去りにして、赤黒い血飛沫だけが静かに上がる。
飛び散ったその血が、私のパーカーにも疎らに染み込む。だけど、元から真紅だったその色は殆ど変わらない。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――
他者の血を浴びる瞬間にのみ、自分の身体を巡る血と命を自覚する。生きるとは、私にとってはそういうものだ。
だけど、皆は違う。
きっと、あなたにとっても違ったのだろう。
だから、謝るしかない。誠心誠意、事切れたあなたに向かって頭を下げるしかない。
あなたは怒るだろう。謝るのならば何故殺したのだと。
至極もっとも。正しく、正統性があり、正鵠を射ている。
だから私はその問いに対し、歪んで、誤って、不躾な返答を寄こすのだ。
私が死神、だから。
理由なんて、それだけだ。
「さようなら。天国もきっと、いいところよ」
冷たい路面に力なく横たわる今日の犠牲者に、最後の言葉をかけてあげる。
あなたが辿り着く天国こそが、万人にとって安らげる楽園であることを本心から願いながら。
『68秒後に代理治官が到着します。それまで現地に留まり、状況の説明を行いましょう』
突然、頭の中へ男とも女ともつかない抑揚のない声が響いた。
明瞭で透き通るような声は、静かに諭すように告げる。その肌触りの良い言葉に従えば、必ず正しい方へと導いてくれるのだと嫌でも確信させられる。だけど、従う気なんて更々ない。
「邪魔しないで」
返答なんて、求められていない上に記録すらされていないけれど。それでも、思わず言葉が口を突いて出た。
なんだか無性に気が立っている。このままここに残れば、“声”が告知した時間と1秒の狂いもなく勤勉な代理治官が現れるだろう。彼か彼女は、致死量の血を流す人間と共に到着を出迎えた私を、無条件で被害者として労わりながら病院までの同行を促すだろう。そうなれば、そいつまで感情に任せて殺してしまうような気がした。
「…………」
むしゃくしゃと沸き立つやり場のない衝動を、髪を揺すって振るい落とし、深紅のパーカーのフードを深く被る。
自分のものではない血の匂いがした。
目が覚めるほどに濃く。
そして、私は闇深い街の外縁部に向かって歩き出す。
その場に、あなただけを残して――
◆◆◆
両親共に7年前に他界。死因は出血多量によるショック死。他殺証明済。
双子の弟は同日に失踪。生死不明。検索不可。
その日は、私が人間を辞めた日。
そして、本当の意味で生まれた日。
◆◆◆
昼下がりの街外れの人通りはさして多くない。目の前の、幹線道路に接続する大通りには最近流行りの年代物が疎らに走っているだけで、歩道をゆく人々も、急ぐ様子もなく時折挨拶を交わしたりしながら思い思いの目的地へ向かっていく。
そよ風に街路樹の枝葉が揺られて路面に斑な影を落とし、枝先に留まっている小鳥の番の囀りが聞こえる。街路樹の根元では太った野犬が日向ぼっこをしていた。
いつもと変わらない、穏やかそのものといった光景。
「お待たせしました。いつものです」
ふと、近くから声がして大通りから視線を外すと、すぐ隣に盆を片手に載せた長身長髪のウェイターが立っていた。
目が合うと、ウェイターははにかんで会釈してきた。この上なく気障ったらしくてわざとらしい仕草だけど、そんな態度が似合ってしまうほどに整った顔立ちをしているのが毎度のことだが腹立たしい。
「どうも」
身体より一回り以上も大きな紅色のパーカーにホットパンツ。毛先が藍色がかった黒髪を肩口で切り揃えた面白みのない髪型のまま。私はいつもと寸分変わらず、落ち着いた喫茶店に不釣り合いな格好で、いつもと変わらない遅めの朝食が慣れた手付きで机に並べられていくのを眺めた。
最初に置かれた、純白に磨き上げられた皿は出来立てのパンケーキに占拠されていて、その上にはバニラアイスとホイップクリームが添えられている。皿の傍にはメープルシロップの入った小瓶が並べられた。
続いて、ウェイターが盆から手に取ったのはコーヒーカップ。中身はブラック。シロップの甘い香りとブラックの苦みを感じさせる香りが混ざり合って、ささくれだった私に僅かな安らぎを与えてくれる。
朝食というよりは昼過ぎの軽食というメニューだが、いつからか何も言わずとも机に並べられるようになったそれを一瞥し、私は深い溜め息を吐いた。この店は客が少ない上に趣味が良くて気に入っているのだけど、1つだけ気に入らないものがある。
「あなたって、いつも暇なのね」
当たり前のように目の前の席に腰掛ける、とぼけ顔のウェイターにそう言ってやる。
こんなにいい店をこんな無神経な男が運営しているだなんて今でも信じられない。きっと客が少ないのだって、この顔面しか取り柄のない店長兼ウェイターのせいなんだろう。
「常連様のお話し相手になるのも、私の仕事の一環だと心得ていますので」
彼は事もなげにそんなことを宣う。そして盆に残されていたコーヒーカップを机に置いた。息を吐くよりも当然といった様子で、自分の目の前に。
「そんなサービス、頼んだ覚えは全くないんだけど」
ナイフを手に取り、ウェイターには全く関係のない日頃の鬱憤まで込めた嫌味を呟いてやったけど、彼は爽やかな表情で快活に微笑みながら、いつも通り全く意に介した風もなく、教えた記憶もない私の名前を呼んだ。
「亜利寿さんは自分に正直ではありませんね。私だって一応は店の主なんです。お客様に本気で嫌がられるようなことは決してしませんよ」
「本気で止めてほしいんだけど」
「ははは。では、次から止めましょうか」
いっそ鮮やかとでも言っていいほどの即答。この、客を客だと思っていないウェイターは、注文以外で私の言うことを碌に聞いた試しがない。
なめられているのか遊ばれているのか、毎度のことながら良い気持ちにはなれない。それでも毎日来てしまうほどには、ここのパンケーキとコーヒーは口に合う。
そういうところをこのお喋りなウェイターに見透かされているのかもしれないけれど。それでも、両者を天秤に掛けてみるとパンケーキ1枚分ほどの重量差でウェイターの戯言に付き合う方に傾いてしまった。
「そこまで言って座ったからには、何か面白い話題でも提供しなさいよ」
私はそう言いながら、手元のナイフとフォークでホットケーキを切り分けていく。視線はテーブルに釘付けのまま。ウェイターの表情豊かなご尊顔は努めて無視する。
「えぇ、勿論ですとも。ではでは、こういうお話はどうでしょうか? 亜利寿さんが好きそうな、仕入れたての都市伝説です」
「私が好きそうな?」
私の趣向をあなたに開陳した覚えはないんだけど。続けようとしたその言葉は、ホットケーキの1口目と共に飲み込んで中和した。
目の前ではウェイターが、ミルクと角砂糖を飽和ぎりぎりまでカップに突っ込んでいた。いつものことだけど、自分で淹れたコーヒーを自分で駄目にしている光景には何とも居た堪れない感傷を呼び起こされてしまう。
私のそんな葛藤など知らずに、ウェイターは最早コーヒーではなくなってしまった甘ったるく茶色い液体を美味しそうに啜った。
「“救いを与える死神”。ご存知ですか?」
「いいえ」
首を横に振ると、ウェイターはこの話が使えることに安堵したのか、ほっとしたように小さく息を吐いて前置きを続ける。
「神様による統一統治が始まり早3000年、世の中は平穏平和そのものです。それこそ、犯罪が起これば、それが都市伝説のような扱いを受けるほどに」
小さな喫茶店の店内に、食器とフォークが触れる音と、ウェイターの艶のある声だけが響く。私はナイフとフォークを握った手を緩慢に動かしながら、その声に耳を傾けた。
「この世界は間違いようもなく、楽園です。当事者である私たちにとっては自覚はできても実感はできない話ではありますが、先史時代の記録に度々接続していらっしゃる亜利寿さんならある程度は理解していただけるかと思います。ただ、元来、楽園とはそれ1つで意味を成す概念ではありません。それは私たちが現実や地獄といった概念を捉え比較することによって、初めて生じる抽象的なものでしょう。比較対象を失った楽園は、ただの行き止まりと言い換えることもできるのではないでしょうか」
「えぇ……」
曖昧な相槌しか打てなかった。
楽園はどこまでいっても楽園なんじゃないのだろうか。そこが平和と愛と余裕に塗れ、人々に分け隔てなく分配されている限り。だけど、それは私には縁遠い感情だった。当然、理解できる訳もない。
「近年、この世界を楽園だと感じられない人間が急増しているそうです。変わらない未来を嘆き、平和そのものを憎み、何もかもに関心を持たなくなる……。停滞の中でゆっくりと淀んでいく水のように、緩慢に死にたがり、大した動機もなくこの世界から消えてしまいたいと願う人間が」
ふと、窓の外の大通りの情景を見つめた。ウェイターも、私の視線を追って言葉を発するのを止めて大通りを眺めだした。
時折、人が通り過ぎる、緩やかな風景。誰もが満ち足りたような表情を湛えながら、ゆったりと歩いていく光景。それは当たり前に続く私たちの世界そのものであり、今後変わる予定はないものだ。明日も、明後日も、明々後日も、同じように繰り返されていくのだろう。この光景のどこに、そのような薄っぺらい絶望が映っているというのか。
だけど、絶望は水面からは見えないだけで、実は遥か昔から深く暗い水底に堆積し続けているのかもしれない。
一瞬、ありもしない希望的観測に縋った幻想を抱いてしまい、私は自嘲げに口の端を歪めることしかできなかった。
私が先を促して微笑んだとでも思ったのか、ウェイターは窓の外を眺めながら途切れたままだった言葉を継いだ。
「そんな人間たちを殺して回るのが、死神なのだそうです。複数なのか単独なのか、さらには人間なのかすら、未だ定かではありませんが、敢えて単独であると仮定するのならば、その者は神様に察知されることなく、毎夜、死にたがりを求めて世界中の街を彷徨い、彼らに死という救いを、この楽園から立ち去る権利を与えているのだそうです」
「なるほどね」
呆れるほどにありきたりな集団虚言だった。
そこに事実が入り混じっている意味など誰にとってもないだろうに。
それでも、多くの少数派はこれで満足するのだろう。
この世界は素晴らしい。だけれども息苦しい。そう思っているのは自分1人じゃないと、もしかしたら、この完全に健全な楽園の崩壊も近いのではないかと夢想したいのだ。
だが、私に言わせれば、そんなものは絶望でも何でもない。停滞の中で刺激を求めるただの中毒反応だ。事実、こういった話に耳聡い“異端者”と呼ばれる者たちの殆どは、この件にスリルしか求めていないのだろう。彼らは異端を自認するだけで、その先の境界線は決して越えようとはしないのだ。
「どうですか? 昨今頻発していると噂されている連続傷害事件によく絡めてあるでしょう? そして、代理治官の公開報告書に接続すればさらなる奇妙な符号が……」
「下らないわね」
古臭い探偵小説でも読まされているような気分になって、言葉を遮った。
盛り上がってきたようだったので、てっきり一言二言何か食い下がられるかと思っていたけど、その後ウェイターは一言も発さず、店内は急に静まり返った。何口分かを切り取られたパンケーキの上に乗っているアイスクリームは既に溶け始めていて、純白の皿の上に濁った混じり物だらけの白色をぶちまけていた。
視線を上げると、こっちを真っ直ぐに見据えるウェイターの視線とぶつかった。彼は、その端正な顔を柔らかな笑みで装飾している。その顔を見ていると、彼がたった1つだけ話の中に混ぜた自身の見解が気に掛かった。
「死神を単独犯だと仮定する根拠はなに? そんな大それたことをするならある程度の意志共有を為した組織じゃないと実行できないんじゃないの?」
ウェイターが笑みを深めた。気味が悪いほどに。
「おや、亜利寿さんともあろう方が愚かな質問をしますね。ここ500年、“組織的犯罪”というものが1件でも発生したことがありますか?」
彼がこめかみを叩いた指を上に突き立てた。公的記憶に接続しろというジェスチャーだ。接続する以前に、その確信しきった仕草が何よりの証拠だった。
そういえば、日々流動する弱干渉領域に何度か潜った経験からも、同様の印象を得ていたことを思い出す。その場にいるだけで満足しているような連中は、どこにいようが比較的群れる傾向にあったけれど、犯罪に走る類の心的類型を持つような人間は大概が1人だった。勿論、私を含めて。
「面白そうな話、してるね?」
不意に、耳元で知らない声が聞こえた。
視線を滑らせた先にいたのは、灰色の髪を短く刈り込んだ童顔の少年だった。薄青色の虹彩と耳元に飾られた漆黒のイヤリングが、店内の照明を反射して鈍く煌いていた。
至極当然のように喋りかけてきたので知り合いかとも思ったのだけど、これほど特徴のある外見をしているくせに私の記憶には一切残っていない。
「どちら様?」
「ここの昼の常連さ。会うのは初めてだね、朝の常連さん」
つまりは初対面。
なのに、初めて会った人間に向けるべきではないほどの無防備な笑顔を彼は晒す。年齢は私よりも少し上だろうか。でも、体格の割には挙動が大振りで実に子供っぽかった。結局どちらとも判別が付かない。
「それよりも酷いじゃないか、店長。俺が昨日話したばかりのとっておきを、もう他の人に話してしまうだなんて」
やはり大仰な仕草で、言葉とは裏腹に心底嬉しそうに少年は言う。
この灰色の髪の人間は、明らかにウェイターの風貌で店にいるこの男のことを店長だと知っている程度には常連なのだなと、私はどうでもいいことを考えた。
「それは申し訳ありません。面白い話を聞くと、どうしても人に聞かせたくなる性分でして」
ウェイターはきざったらしく片目を瞑って肩を竦めてみせた。
「全く困った人だね」
それを見て少年が呆れたように笑みを零す。
なんだこの茶番は。
私を間に挟み、人気俳優もかくやと言わんばかりの芝居がかったやり取りが楽しげに交わされている。
それは猛烈に眩暈を誘う光景だった。やはり、この喫茶店は出すモノだけは良いが、それを凌いで有り余るほどの諸問題があるのだろう。私は今までウェイター1人にその責を負わせてきたのだけど、どうやら客の方にも責任の一端があるらしい。
だとすれば、普段は常識人で通してあるはずの私も、既にこの愉快な劇団の仲間入りを果たしているということか。おぞまし過ぎて、ついさっき飲んだばかりのコーヒーの仄かな余韻すら跡形もなく吹き飛んでいた。
「ねぇ、君はどう思う?」
哀しい事実を前に呆然としていると、少年が表情豊かに灰色の眉を動かしながら、こちらを覗き込んできた。隣の机から椅子を引っ張ってきて腰掛ける。座っても良いかとは聞かれもしなかった。
「どう思うって、何が? 死神って呼ばれている犯罪者についての印象?」
無礼な人間に礼は要らない。
敬語で話す気にもなれなくて、自分でも驚くほどに突き放すような言い方になった。
「近いけど違うね。死神の行動原理も含めて、この都市伝説が流布する下地を作った社会病魔、とでも言うのかな……、まぁ、端的に言い換えれば死神と異端者との思想の共通項についてだよ」
少年はぺらぺらと流暢に、詮無いことを喋った。
「この都市伝説は死神そのものが生み出したものではなく、単なる流行のようなものだと仮定した上で?」
「そうそう。君はとても話が早いね。この都市伝説で語られている死神は、自然発生的に生まれ続けている異端者の新種に過ぎないんじゃないのかな? もしそうだとすれば、現状は突飛な展開でも何でもない。明らかに既定路線なんだ。だからこそ、神様が直接介入でもしない限り、異端者の中から後続の死神が生まれ続けるとは考えられないかな?」
「ここから、楽園の終焉が始まると?」
「そうそう、そうだよ。皆内心ではこんな退屈な世界にうんざりしているんだ。それが行為として表出し始めた今、もう誰にも止めることはできない。神様が創り出す環境そのものを肯定することが前提となっていたこの社会において、人間が是とする価値観の転換が起きてしまえば神様はあっという間に求心力を失う。そうなれば実際的な統治力のない神様は脆いよ」
少年は柔らかな頬を紅潮させて私の反応をしきりに窺った。いつの間にか同族認定されているみたいなので、意味ありげに微笑みかけてやった。
「お子様の妄想ね」
そして、慈悲深い心で一刀両断する。
目の前では灰色の髪の少年が裏切られたような悲壮な表情を浮かべている。出会ったばかりの上に仲間になった覚えなんてないんだけど……。深い溜め息が零れた。
「そんなことで崩壊するようなら、この社会は3000年も続いていないわ」
そういう話がしたければ、こんな場末の寂れた喫茶店ではなく、平々凡々な異端者共がうようよいる弱干渉領域にでも行けばいいのに。
「でもさ、今回は……」
「同じよ。あなたがさっき肯定した通り、これはただの流行に過ぎない。無意味に意味を見出そうとする消費者に絞り尽くされて、どうせ半月もしないうちに存在すら忘れ去られるわ。楽しむだけ楽しんだら、皆自分の生活に戻るのよ」
分かり切ってることだ。
如何に息苦しかろうが、行き止まりだろうが、結局のところこの世界の本質は素晴らしく心地良いのだ。それを手放すことがどれほど愚かなことなのか、皆、無意識のうちに理解してしまっている。だから枠内に収まろうとする。円周に接する馬鹿たちは自分の深層心理に殊更鈍いだけだ。
「それじゃあ面白くも何ともないじゃないか」
少年が天井を仰ぎ両手で頭を抑えながら嘆く。
やっぱり、あなたもスリルを求めているだけじゃない。
そう思った。
そして意識を別のものに移し替えようとしたその瞬間、唐突にあることに気付き、鳥肌が立つほどの悪寒が全身を駆け抜けた。
こいつは、演技臭い。
だけど、それはどこからどこまでだ?
咄嗟に少年へと視線を移すと、目が合った。薄青色の虹彩が私の眼球を真っ直ぐに覗き込んでいた。
「君は、本当にそう思っているのかな?」
少年が微笑む。
その笑顔は私の動揺を誘った。私の全てを見透かしていた、たった1人の同類の面影と重なってしまったから。
「私は子どもじゃないわ」
慌てて否定する。
私の根幹が揺らぐ、その前に。
少年から目を逸らし、食事の続きに戻ろうとして机の上を見ると、私の皿がなくなっていた。
まさかと思って顔を上げると、流麗な手付きでナイフとフォークを操るウェイターがパンケーキの最後の一欠片を口に放り込む瞬間だった。
彼がゆっくりと咀嚼をしている間中、私はさっきまでの会話とほぼ同等の衝撃に襲われて、ただ唖然としていた。
喉を鳴らしたウェイターは音もたてずにナイフとフォークを皿の上に置くと、さもそれが紳士の心得であるかのように言った。
「お客様同士の楽しいご歓談は拝聴している私としても嬉しい限りではありますが、その間にパンケーキが冷めてしまったようです。今から新しいものを作り直しますので、少々お待ちください」
席を立って一礼する。
その手には、自分で平らげた客に出したはずの皿を持って。
身を翻そうとしたウェイターを私は片手で制止する。
恐ろしく興が削がれた。
これ以上ここにいると、耐性のない感染症にでもあてられて数日間寝込んでしまいそうだった。
「もう帰るわ。ごちそうさま」
「いつものように、ゆっくりしていかれないのですか?」
ウェイターは眉尻を下げて、至極残念そうな表情を作った。
横に座る少年も同じような表情をしながら、私の退路を作る為に椅子を少し横へとずらした。表情豊かな人間というものは、総じて眉を動かすのがお上手らしい。
あまり視線を交わす必要も感じなかったのだけど、別れ際に無視を決め込むのも気が引けたので少年に向けて目礼だけを送った。少年は嬉しそうに眼をしばたかせた。
「明日もこの時間に来れば、君に会えるかな?」
「たぶんね」
会ってどうするのか聞く気も起きず、気の抜けた返答をする。
ここでのやり取りは茶番でしかないと、この少年は理解しているのだろうか。舞台を降りる覚悟もない役者がだらだらと無気力な芝居を続けているだけだと。それすらも劇作家の演出であると知る為には、全てを捨てて舞台を降りるしかないというのに。
ここでは何も変わりはしない。
この社会は不変で在り続ける。
故に、この世界には生などない。
だったら喫茶店で空虚な時間を過ごすのも良いんじゃないかと、僅かにでもそう思ってしまう私も、やはり立派な役者なんだろうと思うけれど。
◆◆◆
夜は神様が管理する。
昼は人間の管理に神様が啓示を与えるのだが、夜になると殆どの人間は活動しない。そうなると必然的に神様が直接管理する。神が人に啓示を与えることはあっても、その逆は決してないからだ。これは先史以前からの常識だろう。
夜は昼とは比べ物にならないほど厳格に統治される世界になる。勿論人間に対する強制力なんてものはないのだけど、街全体から神様の意志のようなものを強烈に感じるのだ。弱干渉領域は消え去り、危険や疲労を理由に、行動している人間に対する干渉も増す。
当然のように異端者はおろか犯罪者さえも出歩かない。夜の闇は神様の手中なのだ。先史時代とは異なり、本当に危ない出来事は昼間にこそ転がっている。
なのに、私はいつも夜に行動する。
別に神様に見せつけたい訳でも、代理治官に捕まりたい訳でもない。ただ、人が少ない方がやり易いからだ。私の衝動は誰かと共有するようなものではないから。
巨大な農業集積工場へと続く、4車線道路の両脇に歩道を備えた、単身居宅が何軒も入りそうな幅の広い橋を歩いていた。歩を進める毎に前方の街灯が点灯していく。
立ち止まり、背後を振り返れば、さっきまで私を照らしていた街灯は既に消えていた。灯火は人間の居る場所しか照らさない。私にはそれが、私を特定し続ける神様の眼のように思える。
『落下の危険があります。欄干から降りましょう』
神様の啓示には無視を決め込んで、錆止めの為に真っ赤に塗装された欄干に、道路側を背にして腰を掛けた。一瞬強まった海風が身体を揺らして、重心が川面の見えない橋の外に少しずれる。ひやりとして、無意識のうちに欄干を握る手の力が強まる。
馬鹿みたいだ。
思わず笑ってしまいそうになった。
こんなことでしか、私は自分が生きているんだと実感できない。
正しく生きることを辞めて、道を踏み外して、その当たり前の帰結として死にかけて、そして私は生を実感する。
本物の馬鹿だ。
私は自分を嘲笑う。
何で私がこんな風になってしまったのか、自分でも説明は付かなかった。分からない。理解できない。他の人間が私の公的記憶に接続すれば、原因として必ず挙げるであろう記憶はある。でも、それは原因じゃない。ただの結果だ。私は生まれたその瞬間からおかしかったんだ。
こんなにも自由で、恵まれていて、満ち足りた世界で、何で私はこんなことをしているんだろう? この素晴らしい新世界に、どうして私は適合できなかったのだろう? 何で、私はちゃんとした人間になれなかったのだろうか……?
その問いに答えてくれる人間は、もういない。
南の方角を見つめると、黒に塗りつぶされた空と海が見える。街灯りは視界の隅へ遠のき、周囲の明かりは私を照らすばかりだ。
さらに遥か遠くからは波の音が聞こえてくるような気がした。その音を感じながら目を瞑っているだけで、世界から離れていける感覚がした。
『落下の危険があります。欄干から降りましょう』
いつもは街中を徘徊しているだけなのに、今日は街を離れたくなった理由が今やっと分かった。
喫茶店でのやり取りのせいだ。ウェイターが語った都市伝説や、少年が口にした死神の虚像が耳にこびり付いて離れない。
街で過ごす普通の人間になんて会いたくない。
私は死神に会いたい。
死神はきっとあなただから。あなたしかいないから。
どうしても、もう1度会いたかった。
その結果、殺されるのだとしても、殺すのだとしても。
あの日から、私は1人ぼっちだったから。
『落下の危険があります。欄干から降りましょう』
◆◆◆
亜利寿と名付けられた女の子は、平穏で幸せな家庭の元に生まれた。両親は仲睦まじく愛し合い、標準に漏れない何不自由ない生活がそこにはあった。
有らん限りの愛を注がれて育った女の子は、いつだって健全に満たされていた。
そして、そんな家庭にはもう1人、総互という名の男の子がいた。総互は亜利寿の双子の弟だった。
総互はとても頭のいい男の子で、亜利寿よりもずっと要領が良くて、だけど亜利寿よりも友達を作るのが下手だった。双子は似ても似つかなかったけれど、そのせいなのか波長が合った。亜利寿が喋り、総互が頷く。総互が説明し、亜利寿が理解する。2人の間柄はいつからか姉弟すらも越えていた。互いの全てを理解しているのだと姉弟は断言して憚らなかった。
きっと、ずっと、この2人は死ぬまで手を取り合って生きていくのだろうと、周囲の誰もが口を揃えたほどに。
『周遊ラインがあと3分で到着します』
その日は、神様の啓示がやけに多かったことを覚えている。今思えば当然だけれど、神様は全てを知っていたのだろう。真実は何も語らず、私を総互から遠ざけようとしていた。だけど、私は神様の言うことを真面目に聞かない子どもだった。
楽だけど遠回りになる周遊ラインを使わずに、家までの道のりを自分の足で歩いて帰った。
昼と夕暮れの境目。
太陽が普段より大きく見えて、世界が茜色に染め上げられる少し前だった。空気は冷たくて、そのせいで辺りはどこか張り詰めたように綺麗に見えた。
自宅が見えてきて、私は帰った後のことを考え始めた。手に持った上品な手提げ袋の中には、家族皆で食べようと思って買ってきたケーキが入っている。今日は総互の誕生日なのだ。去年は父さんも母さんも同じようなケーキを買ってきたから被ってしまったことを、ケーキを買ってから思い出した。だから今回も被ってしまうのだろうと半ば確信していたけど、それでも悪くはないかなんて思っていた。
認証を受け玄関の扉が開かれると、不意に凄まじい異臭がした。嗅いだことのない匂いが鼻腔に押し寄せてくる。咄嗟に手で鼻を覆ったが、その匂いは目や耳からも伝わってくるかのように私の中に押し入ってきた。
私は混乱した。明らかに尋常ではなかった。脳内で神様が何かを言っていた。神様がこんなにも矢継ぎ早に啓示を飛ばしてくることなんて、今までに1度もなかった。でも明確な指針であるはずの言葉の羅列は私の脳の表層を撫でるだけで意味を成さない。
私は手に提げていたケーキを玄関の外に置いた。この異臭が染み付いては食べれなくなってしまうだろうと、どこか他人事のように思ったからだ。
私は震える手で壁を伝いながら、ゆっくりと家の中へと入っていく。
屋内はいつものように埃すらなく清潔で、そして嘘のように静まり返っていた。
私はそう在るべくして動くように、異臭の先へと歩みを進めていった。
居間へと通じる扉が、僅かに開いていた。匂いはその先から流れ込んでくる。カーテンが開け放たれているらしく、暗い廊下に外の陽射しが差し込んでいた。
迷いは感じていなかったと思う。
ゆっくりと扉を押し開けた。
差し込んできた西日に目を細めると、その瞬間、匂いがなくなったような気がした。
居間の中央にいたのは、総互。彼は私の帰宅に気付いて振り返り、優しく微笑んだ。
私はその笑顔を見て安心した。
総互は私を見つけた時、何も言わずにただ微笑むことが多かったから。
その笑みはいつも私を安堵させ、そして言い様もない微かな不安も抱かせた。
いつも通りの総互で、いつも通りの居間だった。その瞬間はそう見えた。差し込む西日だけがいつもよりも強くて、総互の表情だけがよく見えなかった。
総互の足元に広がる血の海が、西日を乱反射させていたせいで。
大きな肉塊が、2つ。
総互の足元に転がっていた。
それは常日頃、“父さん”“母さん”と呼んでいた物体。身体は見るに堪えないほどにめった刺しにされていて、至るところから血が溢れ出した跡と肉が抉り返された跡が残っていた。瞼は閉じられておらず、光を永久に失った双眸が私を無言で出迎えた。
不思議と、私はそれを一目見ただけで父さんと母さんだと認識した。彼らがまだ動いている時から、その中には今目の前にぶちまけられている血や肉や臓物がぎゅうぎゅうに詰め込まれていることを誰に言われずとも理解していたから。
それは意志喪失して肉体の大部分を損壊してさえも、私の父さんであり母さんで在り続けていた。ただ、余りにも惨たらしく事切れているだけで。
「おかえり」
言葉を失った私に向けて、総互が微笑む。
立ち尽くす私にゆっくりと近づいた総互は、手にしていた包丁の切っ先を向けた。
一瞬身が竦んだ。身体に鮮烈な痛みが走る幻覚まで感じた。でも、総互は意志を感じさせない微笑みを私に向けたままだった。
「先に行く」
どこへ……?
力なく虚空を掴んだ私の掌に、血と油に塗れて使い物にならなくなった包丁の柄を乗せると、総互は暗い廊下の先へゆっくりと歩き去っていった。振り返りもせずに。
喉からは掠れた息が漏れるだけで声にはならず、思考が混濁して総互の背を負うことすらままならず、彼の足音だけが遠くに消えていく。
私は自らの手の内に収まった包丁を握り締めた。
自分のものではない血の匂いがした。
目が覚めるほどに濃く。
それから数秒ともせずに、どかどかと家に土足で上がり込んでくる足音が聞こえ、私の視界の端に純白の制服に身を包んだ男女の代理治官が映り込んできた。
そして彼らは、そうしろと予め神様に言い含められていたかのように、ちょうど5秒間絶句し、その後丸々10秒かけて自らの表情に嫌悪と悲壮を徐々に注入させていった。傍に立っていた女の代理治官が私の目の前で制服が血で汚れることも厭わずに跪き、思わず眠気すら誘うほどの安楽さを催す暖かな抱擁で私を包んだ。
私は特に抵抗することもなく、為すがままになった。
『もう大丈夫。大丈夫よ』
その言葉を聞いた瞬間、今更、手の震えが止まらなくなって、包丁が床に落ちて鈍い音を立てた。
呼吸が上手くできなかった。私は代理治官の柔らかな腕の中でようやく現実を取り戻し過呼吸に陥った。意識が乱れる。
『恐かったでしょう。辛かったでしょう。でももう大丈夫よ』
温かな抱擁を受けながら、私は身体を震わせた。寒くて寒くて仕方がなかった。
遂に1人ぼっちでこの世界に残されてしまったのだと、心の底から理解できてしまったから。
いつかこんな日が来てしまうのではないかと思っていた。
でも、それと同じぐらいにこんな日は決して訪れないのだとも思っていた。
私と総互は双子だった。
総互のことなら何だって分かっていた。
総互も私のことなら何だって分かっていた。
だから、ずっと、手を取り合って生きていけると思っていた。
本当に、今この瞬間まで。
なんでなんでなんでなんでな――
狂おうとしても狂うことすらできないほどに。
振り払った瞬間に再び答えは明確な像を結び直す。
それは当然すぎる答えだった。
違ったんだ。
私と総互は。
私たちは、在るべき形から逸脱していた。
胴体を抑え付けられたまま足掻く蟻を握り潰す時の快感が忘れられない。
地面に押し付けられ、それでも黒く塗れた瞳を向けてくる小鳥の羽をもぎ取る瞬間の悦楽が消えない。
血を滴らせながら、か弱く鳴く野良犬を殴り殺す一瞬の昂揚が抑えられない。
いつかは、人間を。
それが赤の他人だろうが実の親だろうが、特に感慨は抱かないだろうと確信していた。生命を蹂躙しているその瞬間だけが確かに生きているのだと思えた。それだけが私たちの求めるものだった。それだけが私たちの生だった。
私と総互は同類だった。
互いに互いの思想を確かめ合ったことはないし、そのことについて言葉を交わした記憶もない。だけど、物心が付いた時から、互いに気付いていたんだと思う。だからこそ私と総互は誰よりも通じ合えたのだ。
私たちは、決して晒すことの許されない衝動をその胸に留めながら生きていかねばならなかった。私たちを社会は認めないし、人間としてもまた認めないだろう。だから、私たちは生きる為に人間にならないといけなかった。
私は総互となら人間になれると思っていた。隣に人の皮を被った化物がいれば、人間になろうとしている非人間がいれば。鏡の虚像を捉えることによって自己を認識し特定し続けるように。
だけど、そう思っていたのは私だけだったらしい。
総互はこんなにも唐突に、当然のように、神様が定める境界線を越えていった。
元々、人間になるつもりなんて無かったんだ。
人間になりたかったのは私だけなんだ。
そう悟らざるを得なかった。
人間になれない私を置いて、総互は境界線を越えていった。
『病院に行って休みましょう。そして忘れてしまうのよ』
代理治官の声がした。
神様は、記憶除去をして総互を知らない私になれと言った。そうすれば人間になれるのだと言われたような気がした。
私はそれを拒絶する。
代理治官が困ったように眉をひそめる。
『では、休んでから、もう1度考えましょう』
神様は私に言った。
私はその日、人間を辞めた。
そして、死神になった。
◆◆◆
農業集積工場の方角から抜けてきた海風がなびき、耳に掛かった髪を揺らした。
風が収まるのを待って私は目を開けた。前髪が入り込んだ視界の先では街灯が点灯していた。
そこには1人の少年がいる。短く刈り込んだ灰色の髪に、少女のように丸みを帯びた童顔。薄青色の虹彩と耳元に飾られた漆黒のイヤリングが幼げな印象を必死に中和しようとしているみたいだった。
何も持っていない、昼前に出会ったままの姿の少年が、灯りと共にゆっくりと近づいてくる。
ほんの一瞬だけ、私の中に躊躇いが生じた。
今までに見知った人間を手に掛けたことは全くなかったから。
別に罪悪感が湧く訳ではない。ただ、私にとってその行為はどうしようもなく総互を想起させるのだ。決してもう届かないものを。
それでも、辞める気は起きなかった。
もう、あいつでいい。
そう思った。
喫茶店で嬉々として死神について語っていたあなたは、いざ死神と対面すればどんな顔をするんだろうか。私が死神本人だと知ればどんなことを思うんだろうか。
そんなこと、どうでもいいか……。
私はこれから行う蹂躙に対して、自身の胸が高鳴っていくのを自覚する。
あなたもこちらの存在に気付いたようだった。軽く手を掲げ、私に愛想を送ってくる。私は何にも反応しない。ただ確実に真っ直ぐ歩を進める。
人間っていうのは、善良な生物だ。
体制に疑念を抱く異端者ですらそれは変わらない。人間という種族の到達点は盲目なほどの善性なのだ。何十世紀もの時間をかけて、神様にそう在るべしと教え育てられ守られてきた。
だから、人間は本物の悪意というものを知らない。自分も善人であり、他人もまた善人だと意識の根底で確信しているのだ。
だから、脆い。私がだぼついたパーカーの袖口からナイフを手の内に滑らせ一瞥をくれてやるだけで、あなたたちは動くことすらできなくなる。
肉体的な損害を受ける前に、純粋な害意が己に向けられることを理解した段階で人間は機能停止する。それはあまりにも耐性のない過負荷だから。
最早慣れ切った動作でパーカーの袖口に隠していたナイフを手に取った。
今日の犠牲者に致死性の一瞥をくれてやるべく視線を上げた。
そこに立っていたのは、灰色の髪色をした少年だった。
静かに、笑っていた。
私は咄嗟に自分の手元を見返した。
そこには鋭利なナイフが収まっている。切っ先は僅かに少年の方に向いている。
なのに、なんで……?
あなたは思考停止していない。そこには怯懦も逃避も無理解もない。
初めてだった。
とある弱干渉領域で名のある異端者を手に掛けた時すら、こんなことにはならなかったのに。
私は踏み込むべきか迷った。
「来ないの?」
少年の言葉が空虚な橋の上に響き渡る。
私は硬直した。
彼の手には、いつの間にか重厚そうな鉈が握られていた。
「じゃあ、俺から行くよ」
鉈の歪曲した刃先を私の心臓に向けて、彼は言った。
視線が交錯する。
その表情は、無感情の上に無理やり恍惚を塗り付けたみたいだった。
「総互……?」
静かに笑っていた。
あの日の、父さんと母さんをぐちゃぐちゃに刺し殺し、その血の海に立っていた私の大好きだった弟のように。
あなたが私に向かって駆け出す。
ようやく総互に追いつけたような、不意にそんな感慨がした。
街灯が明滅する。追い縋る灯火を嘲笑うような速度で眼前に迫ったあなたは、その勢いのままに私の首筋めがけて大振りの横薙ぎを放った。私の細いナイフで受け止められるような一撃ではない。身を屈めて何とか避ける。頭の直上の空気を分厚い刃先が切り裂いていく。
だけど、大振りだからこそ直後に隙ができる。その隙を突こうとナイフの柄を握り直した瞬間、私の身体はふわりと宙を舞った。
私の頭上を薙いだ鉈はパーカーのフードを捉えていたのだ。フードに引き摺られて力のままに吹き飛ばされた私は欄干に背中から激突した。
鈍い痛みを知覚する。呼吸ができない。追撃。
私のすぐ傍であなたの鉈と欄干が擦れ合い微かに火花を上げた。その間には、逃げ遅れた私の右人差し指と右中指と右薬指があった。
「ああっ……?!」
先程とは比べ物にならない激痛の端緒が脳に押し寄せる。だが、それはすぐに消え失せる。平坦を保つべく身体機能を維持する防衛機構。基準値を超過した痛覚刺激の検出によって右手全体の感覚が緊急切断した。
感覚を失った右手は袖口から滑らせた2本目のナイフを掴み取ることすらできず、路面に落ちた凶器は鈍い金属音を響かせた。
あなたの更なる追撃が私の左肩口を力任せに抉った。激痛。緊急切断。平坦。左腕全体の感覚が失われる。
左の袖口に隠していた大小様々な凶器がじゃらじゃらと零れて路面を叩いた。私の血の匂いがした。私は必死の思いでどうにか距離を取ると、感覚の全くしない右手を背中に回して1本の包丁を取り出した。酸化し切った血と脂によって錆び付き、まるで生物の表皮のような汚らしさを見せるその刃には、到底殺傷能力があるとは思えなかった。
それは総互から受け取った、私たちの両親を殺した包丁。そして、総互が私に残した、たった1つの残滓。だけど、この包丁を持ち続ける意味など最早ないことを私は悟っていた。
だから使った。力の限りに投げる。頸動脈のある、あなたの首筋に向けて。
私の最後の一撃は、あなたの鉈の一振りによって呆気なく無に帰した。
相手の息の根を止める術は全て底をつき、ぶかぶかのパーカーに暗器の如く隠していた刃物は全部失われてしまった。すごく身軽になった気分だった。同時に私は直感した。私が今までに、意味もなく悦楽の赴くままに殺してきた数え切れないほどの昆虫や鳥や犬や人間の命。私は遂に彼らの側に回ったのだと。私は名も知らない誰か(あなた)の悦楽の為に無意味に命を散らすのだと。
抵抗もせずに呆然としていた私は、腹に遠慮容赦のない蹴りを放たれて口から血と吐瀉物を吐き散らしながら無様に路面を転がった。辺りには私の血の匂いが充満していた。
起き上がろうとした瞬間、私の喉元に鉈の刃が突き付けられる。あなたは月が輝く夜空を背負いながら、ぼろ雑巾のようになった私を薄青色の瞳で見つめていた。
「俺は本当に殺すよ。ここに駆け付けた代理治官が一目で手遅れだと判断するぐらいに容赦なく、ね。君には理解できないかもしれないけれど、それが俺の本質なんだ」
そのまま何かを考える暇もなく嬲られ続けるか、止めを刺されるだろうと思っていたのに、あなたはまるで今再会したばかりのように口を開いた。
そして、その内容に私は愕然とするしかなかった。戦闘で昂っていたはずの私の感情は、一気に零下まで冷え切った。
「何それ、当てつけ……?」
やってられない……。
荒い呼吸を繰り返す口の端から投げやりな笑みが零れた。
私が決して境界線を越えられないのを、どいつもこいつも見透かしていやがるんだ。
「君は人間を殺したことがない。頸動脈を1本切ったぐらいじゃあ人間は死なないのは、君だって知った上でやっていたんだろう?」
「もちろん……」
知っているとも。
意識そのものの緊急切断は考えようによっては臨死体験だし、その記憶によって深刻な心的外傷を負う可能性は極めて高いけれども。
けれども、それだけだ。
生きたまま代理治官に保護されて神様の手中に収まれば全ては復元される。傷跡も痕跡も残らない。本人が求めれば襲われた記憶すら書き換えられるだろう。そして、大部分の人間は、何も考えずにそう啓示されてそうするだろう。
だから本当に殺したいのならば、もっと容赦なく切り刻まないといけなかった。
父さんと母さんをその手に掛けたあなたのように。
そしてきっと、今目の前にいるあなたのように。
でも、私はそうしなかった。
いや、できなかった。
意味なんかなかった。
意味なんて見出せなかった。
私の行動には、何にも。
「もういい。さっさとけりを付けてよ……」
私は境界線を越えられなかった。
人間にはなれないのに、枠内に留まり続ける。
異端者のように自分を騙し満たす術を見つけ出すことも叶わないまま、私は枠内の秩序を闇雲に乱すだけ。
私は1人だ。
総互に置いていかれる前から。
ずっと、半端に生きてきたから。
「俺たちは、この世界では生きていけない」
だというのに、あなたは私の感傷なんかまるっきり無視して言葉を紡ぐ。私の喉元に刃を突き立てながら、目をらんらんと幼子のように輝かせて。
「元より、同種族の殺害を自己正当化しうる因子を持つ個体というものは、明らかに種そのものの敗残だ。そんなものを生かす種族に先はない。だけれど、先史以前には俺たちのような個体にも生きる術はあったんだよ」
脳裏に先史時代の膨大な記録の断片が過った。
確かに私たちに類似している個体は、どのような時代にも記録には残されていた。
「もちろん野放図に好き勝手やれていた訳じゃない。捕まりもすれば処刑もされていた。だけど、個体数そのものは今よりもずっと多かったはずだ」
「人間が統治していたから」
「そうだよ、その通り。人間の統治には明確な指針がなかった。今のように在るべき形の共有は行われていなかった。確固たる正解はなく、全ては人間自身の揺らぐ価値観を根底に、際限なく議論をすることによって定められていた。そこには俺たちが存在しうる余地があったんだよ」
あなたはまるで喫茶店での続きを始めるかのように、楽しげに忙しなく喋った。
「それがどうしたの? 先史時代に生まれていたのなら、自分が肯定されていたとでも言いたい訳?」
口を開いて喉を上下させただけで、鉈の切っ先に皮膚が触れて裂けた。
死を、終わりを、明確に意識し、私はいつもより少しだけ正直になっていたのかもしれない。そう思っているだけかもしれないけれど。
「まさかぁ!」
あなたは心底驚いたように口を大きく開けて言った。
「俺はいつどこで生きていようが、排除されるべき犯罪者さ。俺は自分の性を理解してるし、最早、隠す気も偽る気もない。酔っているつもりなんてないけど、己の性質に殉死しても構わないとも感じているんだ」
「それを酔っているって言うんじゃないの……?」
「まぁ、そうなのかもしれないけど」
あなたは目を細めて妖艶に笑った。
「とにかく、俺はこの世界じゃなければ、もっと早くに捕えられて殺されていたと思うよ。時と場所によれば、殺人鬼とか英雄とかの呼び名を貰って歴史に名を残していたかもしれないけれどさ」
『75秒後に代理治官が現地に到着します。それまで決して体を動かさず、落ち着いて、待機しましょう』
「で、今その話をしたのは、あなたの妄想が生み出した自慢話を聞かせたかっただけ?」
もう時間がなかった。
ここまで来ておいて、有耶無耶にされたくはなかった。
こんなにぼろぼろになって初めて、私は境界線を越える覚悟を手に入れることができたのに。神様に捕まってしまえば、全てが元通りに修復されてしまう。
あなたは初めて私の意を汲んだのか、短く言葉を吐いた。
「違うよ」
不意にあなたの中から、芝居臭さが消えた。
「俺はこんなだけど、君は案外上手くやれたんじゃないのかなって思ってさ。君自身を間違いだと断ずる世界じゃなければ……いや、君を理解しようとする人間が1人でもいれば、君はそれだけで、ちゃんと生きていけたんじゃないのかな……ってね」
私は暫し、あなたの目を見据えて言葉を失った。
その瞳から感じ取れたのは、悔しいことに理解と共感と同情だけだった。
私は血の混じった溜息を吐いた。
左腕は言うことを聞かなかったから、感覚が麻痺したままの右腕を動かし、あなたが私に突き付けている鉈の刃をどうにか手で握りしめた。
壊れんばかりに掌を刃に食い込ませていく。感覚のしない掌から血が滴り私の頬を濡らした。
「ごめん、踏み込み過ぎたみたいだね」
あなたの表情からはもう、心情は読み取れなかった。
私の目の前で、総互が淡く微笑んでいた。
あの時のあなたの気持ちが、今になって少しだけ分かったような気がする。
「無駄話も、たまには必要ね」
「そうだね」
あなたが何かに気が付いたように振り返った。倒れ伏して碌に身体も動かない私にはあなたが何を見たのか分からない。でも、ここに来るべき者は決まっているから。
神様が告げる。
『間もなく代理治官が到着します』
「俺ももう長くはない」
あなたは振り返って言った。
街灯が私たちを特定し続けるように、この場所だけを照らしている。
「最近さ、神様が俺に声を掛けてくるようになったんだ。あの優しい声で俺の名前を呼ぶようになったんだ。だから、俺はもうすぐこの世界から退場するんだろうね」
私は笑った。
あなたの口調から、そうして欲しそうな感情を感じ取ったから。私は残されるあなたの痛みがよく理解できるから。
それでも、月夜に照らされたあなたの童顔は妖艶で美しかった。
あの日、ただ惚けていた私なんかとは違って。
「最期に君に会えてよかった。君はどうだか知らないけれど」
「まぁ、悪くはなかったわ」
あなたは笑う。
私が戯言に隠した真意を見透かして。
全く、嫌になることばかりの生だった。
「先に、行くわね」
私は鉈を握った右手に有らん限りの力を込めて、一直線に下へと引き落とした。
そして、襲い来る。
激痛。強制遮断。平坦。
歓喜。安堵。混濁。
激痛。強制遮断。平坦。
歓喜。安堵。混濁。
激痛。強制遮断。平坦。
歓喜。安堵。混濁。
視界が朧げに、あなたの顔がぼやけ、意識が白で埋め尽くされ。
私は、総互の背を追って駆け出して。
あぁ――
これで――
世界はまた1つ、完成された真円へと近づく。