両親
俺の家は、1階の前半分が店になっている。
いわゆる店舗兼住宅というやつだ。
「グリルフクシマ」といえば、おわかりいただけるだろうか。
名前はちょっとこじゃれているが、親子丼からオムライス、スパゲティー、カツカレーに唐揚げ定食にエビフライ定食、日替わり定食まで、何でもござれの大衆食堂である。
基本は両親で営み、忙しい時間帯だけパートの女性を雇って切り盛りしている。
四人掛けのテーブル席が6席の小さな店だ。
食材の仕入れや調理、出前をするのは父で、接客や皿洗いなどのその他すべてを母がやっている。
地元の企業の従業員さんが主なお客で、おかげさまでいつもランチタイムは入りきれないほどの盛況ぶりになるのだが、パートのおばさんがなかなかのやり手で、愛想よく相席をお願いして上手に詰め込む。
夜は普通なら両親でこと足りるのだが、まれに異常にお客が入り、両親では回らなくなる時がある。
そんなときは、俺が投入される。
宿題をしていようとネットをしていようと、下から声がかかると、すぐに身支度をして出陣する。
いい子ぶるつもりはないが、面倒だと思ったことはない。
もともと、子どものころから家の手伝いは嫌いでないし、大好きなカツカレーを始めとして、うまい洋食が毎日のように食べられるのは店のおかげだし。
マウンドに向かうリリーフピッチャーよろしく、さっそうと袖をめくりながら階段を降り、厨房の流しの前に立つ。
そして、マシーンと化して皿を洗い続けるのである。
そんなグリルフクシマに、昨年の秋、突然にテレビ局から店の紹介の依頼が来た。
地方のローカル番組のなのだが、県民に知らない人はいないと言っていいほどの人気番組で、主に県内の様々な分野の人気店を紹介する番組だ。
そのときのタイトルは「町の洋食屋さん特集」。
番組からの電話に父が承諾すると、その数日後、約束した日時に3人の製作スタッフが打ち合わせに来店した。
俺は学校にいる時間だったので詳しいことは知らないが、とても気さくな方々だったらしい。
忙しい時間を避けた時間を指定してくれたおかげで、ゆっくりと世間話も交えたいろいろな話ができ、当日の流れを確認し、打ち合わせは終わった。
その後、スタッフは各自が違う料理を注文し、互いに交換し合いながら食べていたとのこと。
これも情報収集なのだろう。
クリームソーダをサービスすると、とても喜んでくれ、食べ終えるときっちりと代金を払って帰ったと聞いた。
それからしばらくの母は、思っていることがとてもわかりやすく、やけに機嫌がよかった。
撮影の日は土曜日で、俺も立ち会うことができたが、もちろん映ると学校で何かと面倒なので、陰からの観察に徹した。
当日の母は、いつもにない気合の入ったメイクを整え、準備万端だった。
パートのおばさんも、この人誰?と思うほどに決めていた。
撮影が始まり、関係者へのインタビューなども、つつがなく進行し、無事に撮影は終了した。
その後の母の機嫌も上り調子であった。
そして、皆で期待に胸を膨らませ、首を長くして待った番組の放映日がやっと来た。
その夜は、家族3人でテレビの前で正座してとまではいかなくても、夕食を食べながら番組の始まりを、今か今かと待ちわびていた。
長いコマーシャルの後、やっと番組が始まった。
「町の洋食屋さん特集」のテロップに
「ワーッ!」と子どものように母が歓声を上げた。
テンションマックスだ。
最初に紹介された店は、駅にほど近いうちより少し大きな店。
父が、「あ~、グリル○○か~。ここはな、・・・・」と、誰も聞いていない解説をのたまう。
次は、商店街の中にあるうちくらいの店。
子どものころ、何度か連れて行ってもらったことがある。
中学校の同級生の女の子の親がやっている店だった。
そして満を持して、グリルフクシマの登場だ。
皆が、身を乗り出す。
母も目が輝く。
店の所在地、外観や店内の様子、繁忙時間の店の雰囲気や提供される料理、そして父へのインタビュー。
次は、そろそろ、と心が舞い上がっている誰かに無情にも、映像は次の店の紹介に移った。
唯一関係者の中で出演した父が、お勧めの料理を尋ねられ、「オリエンタル風オムライスです」と、愛想のいいどや顔でふわとろの卵の掛かったオムライスを自慢気に見せるシーンが締めだった。
トータルで5分ほど。
えっ、これで全て?
当日の様子を、かなりの誇張もあるだろうけれど、何度も聞かされていた俺は信じられず、言葉も出なかった。
後ろ姿さえ映らなかった母は、しばらく放心状態だった。
その後は、「インタビューも受けたのに」、と落ち込みようはかなりのもので、結構な間、思い出しては悔しそうに文句を言っていた。
満足していたのは父だけ。
満面の笑みで、テレビデビューした自分に酔っていた。
晩酌のビールの進みようも早かった。
母に負けず劣らず、番組の放映を心待ちにしていたパートのおばさんだが、放映の翌日に出勤したときは、平静を装いながらもあきらかに元気も笑顔もなかったらしい。
彼女はワンシーンであるが料理を運ぶシーンが撮影されていた。
明るい彼女は、きっと家族に手振り身振り、嬉し恥ずかしで撮影の日のことを話し、ご主人も中学生の姉妹もワクワクしながら一緒に番組を見たことは容易に想像がつく。
だとしたら、これはショックだわ。
お気持ち、お察しします。
店が繁盛しているのに加えて、運がいいことに、通信教育や模擬試験で全国展開している教育産業の会社の本社が店からほど近い場所にあり、毎日大量に出前を取ってくれている。
特に全国模試のあった後は、夜にも遅くまで働く社員がたくさんおり、連日連夜、出前を取ってくれた。
先日、建設が始まった「コーポフクシマ」は、その会社のおかげで建てられたとよく父が口にしている。
車の免許を持っていない父は、スーパーカブの後ろの荷台に、三段のおかもち2個がぴったり入る木枠を特注して取り付け、何度も店と会社を往復して料理を運んでいる。
仕入れに仕込み、調理に出前、店が終わったら売り上げの経理。
休んでいるのは、店が終わって、晩御飯を食べながら晩酌している数時間か?と思うくらいに、いつ見ても仕事をしている仕事が生き甲斐のような父だ。
父は、淡路島の生まれ育ちで、高校を卒業後、最初は島内のせんべい屋に就職したらしい。
ところが、毎日配達ばかりやらされ、せんべい作りをなかなか教えてもらえず、しびれをきらして辞めたと腹立たしげに言っていたのを聞いたことがある。
その後の経緯はよく知らないが、神戸に出て料理人としての修業を始めた。
その後は、自分の店を開くまで職人として勤めており、最後は、県内でも有名なレストランのチーフコックだったそうだ。
だが、調理の修業に就いた頃は昭和30年ごろで、調理の専門学校などなく、丁稚奉公のような待遇が当たり前の時代だった。
最初は皿洗いや客が帰った後の下膳しかやらせてもらえなかったが、父は下げる皿を洗い場に戻すまでの途中に、密かに皿に残ったドビソースやドレッシング、カレーのルーを指ですくって舐め、味を覚えた。
やがて、包丁を握らせてもらえるようになっても、ことあるごとに怒鳴られ、尻を蹴り上げられることも普通にあったという。
その頃はそれがあたりまえの時代だったらしいが、その後、時代が変わっても、しみついた悪しき体質がよく顔を出してしまっていたらしい。
チーフコックになってからのことであるが、他店から移ってきた職人がキャベツの千切りを幅広く切ったのに腹を立てて、「こんなものは牛のエサや!」と言って、皿ごとゴミ箱に放り捨てたら、その人は翌日から出勤しなかったそうだ。
その話を俺にしてくれたとき、あれはやりすぎたな、と反省していたが、後悔先に立たずである。
父は、息子の俺から見て、一言でいうと頑固者である。
一度言い出したら、そうなるまで人の意見を聞かない。
こと、仕事に関してはそうで、自分にも厳しい。
では、生真面目なだけの父親かというと、さにあらずである。
最初の子が女の子であったが、元気に生まれて育ってくれたことに感謝しつつも、二人目は男の子が欲しいと切実に思っていたらしい。
生物の時間に習ったが、ヒトの性決定様式は雄ヘテロで、卵はすべて同じで、子どもの性は、雄側の射精した精子のX精子とY精子のどちらが先に卵と受精するかで決まるので、女性は性決定に関わることができない。
だが、古い人間の父は、残念ながら、子どもの性別は女性のお腹の側で決まるという江戸時代のような認識を持っていた。
なので、女の子ばかり生まれる家に対して「あの嫁は女腹だから」などと、聞くに堪えられない言葉を平気で発していた。
その反動でか、俺が生まれたときには、男の子を生んだ母を褒め称え、「よく男の子を生んでくれた」と涙ぐんで母の手を握って喜んだらしい。
だからといって、俺は甘やかされて育ったわけではない。
悪いことをすると厳しくしかられたが、父は昭和10年代生まれの威厳を保ちつつ、俺を可愛がって育ててくれた。
今でもよく覚えているのが、父が勤め人だったころは、休日が土曜だけだったにもかかわらず、俺が土曜日の授業を終えて小学校から帰ると、少しの間キャッチボールの相手をしてくれた。
当時の俺は、小学校のソフトボールのチームに所属していた。
5番でショート。
俺が全力で投げる球を受ける父は、満足そうだった。
そしてその後は、決まって近くの食堂に連れて行ってくれて、一緒に昼ご飯を食べた。
俺が食べるのは、決まってカツカレー。
ボリュームが売りの店で、小学生の俺にもおとなと同じ盛りだったが、俺がぺろりとたいらげるのを見て、いつも店主も隣で食べていたお客さんも驚いていていたものだ。
総じて、厳しさと優しさの加減のバランスがとれたいい父親だと思う。
「自分の尻は自分で拭け」の方針で子育てをしているので、うるさく言われないが、その分だけ自分に責任があるので、そう羽目を外せない。
これが難しいんだな。本当に。
母親はというと、とにかく元気なおばちゃんで、自称「グリルフクシマの看板おばさん」だ。
50代半ばで高一の息子がいるというと、晩婚だったのかと思われそうだが、実はその真反対。
俺の上に娘がいるのだ。
俺よりも20歳上の姉である。
母は、愛媛の今治の生まれだ。
今治と言えばタオルと造船の町で、それを象徴するように、母の実家は三姉妹の末の妹が婿養子を迎えて継ぎ、叔父は造船所に勤め、叔母はタオル工場で責任のある仕事をしている。
母は今でも豪快であるが、若いころはかなり荒れていたらしい。
昔でいうスケバン、今でいうヤンキーだ。
高校を中退し、家出や喧嘩、暴走など警察沙汰も相当あったらしいが、何かのきっかけで父と出会って更生し、互いに引き合うようになり、1年を経ず結婚したらしい。
そのあたりは、詳しくは親が話さないので俺も敢えて聞かない。
ただ、何があったとしても、十代で母親になり、仕事をしながら姉をしっかりと育てた母を立派だと思う。
母は子どもが好きで、本当は、子どもを3人は欲しいと思っていたと聞いたことがある。
ところが、姉を産んだ後は、励めども励めども、なかできないままに何年も過ぎて行った。
もちろん、姉ができているので、どちらも不妊体質ではないのはわかっている。
月日はどんどん流れ、一人娘の高校の卒業、就職、結婚、そして妊娠。
そのころには、当の本人も、半ばあきらめていたらしい。
だが、娘から妊娠の報告を聞いたとき、消えかけていた胸の炎がゴーッと音を立てて大きくなった。
せめて、もう一人でいい、子どもが欲しい。
そして、今の自分は、年齢的にそれができる最後だろう。
ただ、父になかなか思いを打ち明けられず、半年ほどが経ってしまった。
だが、姉のお腹が目立ってきたのに後押しされ、今でないとと、母は思い切って父に打ち明けた。
実は、父にも、もう一人、できれば男の子が欲しいという思いはずっとくすぶり続けていた。
母の切実な言葉に応えた父の言葉は、思いのほか軽く「俺たちまだ若いし、もう一人作って育ててみるか!」というノリだったらしい。
そして、俺作りが始まった。
その日からほどなくして、あっけないほどに俺は母に宿った。
その時のことを父は、「あれは、何年もゴルフを止めていた人が、久しぶりにコースに出て打ってみたら、ホールインワンしたって感じだったな」などと、俺に行ったことがある。
こんなな感じで、我が家は性に明るい。
たまに会う姉も、結構きわどいことをサラッというところがあり、確かにこの環境で育ったんだなと思わせられることがよくある。
俺はまだまだだが。
そして、姉が出産した半年後、俺はこの世に現れた。
学年は同じだが、俺は早生まれなので、生まれた年でいうと1歳違うことになる。
初めての子育てが不安な姉は、毎日のように実家に母子でやって来たらしい。
そうして、俺と俺より大きな姪は、姉弟のように育てられた。