魔王は 胃を 痛めた!
魔王としての務めはそれほど多くない。なぜなら魔界の行政は未だ発展途上にあるからだ。
人界に比べ識字率が著しく低く、徴税が可能な民も少ない。故に、書類仕事も少なくなる。
識字率を上げるため学問所を増やすことから始めてはいるが、教師の確保や学習内容など問題は未だ山積みだ。
だが、私にできることは最後の確認や許可を出すことがほとんどで、大概は魔素を安定させるため東奔西走している。
魔素は魔界を構成する重要な成分であるが、多すぎると支障をきたす危険なものでもある。よって、魔素濃度を安定させることは魔王の最重要任務のひとつなのだ。
今日も今日とて西方の魔素濃度に異常が出たため、魔素濃度の希釈と狂暴化した魔物、魔獣退治に赴いていたのである。
仕事内容はそれほど難しくない。魔素を体内に吸収し、魔力と成しそれを体外へ放出するだけだ。ついでに魔王軍でも手に余る魔物、魔獣の退治をする。なんとも簡単な仕事だ。私ももう少し魔界の発展に寄与できればいいのだが。
アルバンは人界から取り寄せた本を基に料理の研究や、料理人の育成をしてくれているし、マルガもそれに協力してくれている。
バルタザールも人界の文化に興味を持ち、幅広く研究をして新たな発明を次々にしている。
この間試作品を作っていた空飛ぶ馬車はもうすぐ実用化できそうだと言っていたし、外壁の外を開墾して畑を作り、植物の研究にも着手すると言っていた。毎日目の下に隈を作りながらも充実した日々を過ごしているようだが、体を壊しやしないかと心配になる。
リオネッサについては言うまでもない。
彼女は毎朝早起きをし、食事を毎日作ってくれている。最近はゼーノが味見役をしてくれているそうで温室の手入れを二人でできるようになった。習い事や畑仕事も増えて大変だろうに、食事は変わらず美味しい。
彼女のおかげで魔王城は変わりつつある。
いつでも美味しい料理がとれる様になり、彼女を怖がらせない様小競り合いが無くなったせいで、城の修繕費も格段に抑えられている。今まで放置ぎみになっていた政策も彼女を窓口として人界に興味を持った者達が本気で検討を始めた。懸命に自分にできることを、と働く彼女の姿に力が弱くともできることがあるのではないかと末端の臣下達にもやる気がでてきた。
魔界は実力主義であり、生まれながらの能力に人生を左右されるものが多い。
戦闘能力が無いからと日々を絶望的な気分で過ごしていた者達の意識改革は私には決してできなかった事のひとつだろう。
彼女の偉業に比べれば、私のしてきた事など些細な事ばかりだ。
私はこの世で一番の幸せ者だと胸を張って言える。リオネッサの様な女性を妻に迎える事が出来たのだから。
帰れば笑顔で出迎えてくれる。面白味に欠けるだろう私の話を熱心に聞いてくれる。私の顔は怖いだろうに、震えていても涙を瞳一杯に溜めていても傍にいてくれる。
本当に、本当に私はこの上にない幸運に見舞われた。
今日も城に帰ればその幸運が私に笑いかけてくれる。そう思うと口角が自然に上がってしまった。
アルバンが面白がる様な顔をしていたので、咳払いして真面目な表情を作る。
「別に取り繕う必要はございませんよ」
「ム。魔王としての威厳がないのは……」
「魔王様の威厳が少しくらいなくなっても治世に問題はありません。むしろその方がリオネッサ様を怖がらせずに済むかもしれませんよ」
「…………」
幼い頃からの付き合いであるアルバンには全く敵う気がしない。
少しばかり気分が沈んでしまったが、これくらいならリオネッサの笑顔をみればすぐに浮上するので問題ない。
そう思って魔王城に帰還したのだが。
「……リオネッサが行方不明?」
脳が理解を拒み、聞いた言葉をそのまま復唱する。
行方不明。行方がわからないこと。
「申し訳ございませんでした。魔王様、罰は如何様にもお受けします」
ホルガ―が跪いてリオネッサが消える前の状況を説明してくれるが頭の中を通り過ぎるだけで、なかなか理解できない。
「外壁の外で畑仕事をしていたのですが、多数の魔物が休憩場所へ接近している事を感知し、リオネッサ様をその場に残し迎撃に向かいました。
六頭全てを仕留め、リオネッサ様の元に戻ったのですがその時にはすでにリオネッサ様のお姿はなく……。
バルタザール様とゼーノ様は今も探索していらっしゃいます」
ホルガ―は変身能力はあっても、戦闘はあまり得意ではない。なのに夜の森を探し回ったのだろう。薄くはない血の臭いがした。
「ご苦労だった。ホルガ―。よく休んで傷を癒してくれ」
「魔王様…!」
ホルガ―の瞳は罰してくれと訴えていた。
しかし、リオネッサが消えたのはホルガ―のせいではない。護衛対象から目を離したのは問題だが、バルタザールとゼーノがついているからと護衛人数を誤ったのは私の責任だ。次からは人数を増やそう。
「ホルガ―。今はきちんと休んでくれ。リオネッサが帰ってきた時に心配する」
「…はい」
項垂れるホルガ―の目元に涙が見えたのは気のせいではないだろう。
弱ければ死んでも仕方ないというのが魔界の考え方だ。それを彼女が変えていく。たぶん、それはとても素晴らしい事だ。
その考えとは別に、焦りと不安はどんどん私の心を蝕んでいく。
「アルバン。出てくる」
「はい。お気をつけて。後の事はお任せください」
リオネッサ。リオネッサ。リオネッサ。どうか無事でいてくれ。
魔界人は祈る対象を持たない。自分の力で打破していくしかないからだ。だが今は、神に祈るという人界人の気持ちがわかる気がした。
捜し易くするため、満月の明かりを遮る雲と霧を吹き飛ばす。
今宵の満月は青。魔王さまの色と少し似ていますね、と彼女が言ったのは昨日の事だ。
次の満月には色が変わり水色になると教えれば、今度は魔王さまの瞳の色になるんですね、と笑っていたのに。
「どこだ。どこにいる。リオネッサ…!」
風の中に彼女の匂いが僅かに混ざっていた。
速度を上げる。幽鬼や飛竜を弾き飛ばした気もするが、そんなのはどうでもいい。
果たして、リオネッサは無事だった。五体満足で木々の上を軽やかに跳躍していた。その軽やかな動きが突然途切れる。彼女を包んでいた魔力も消えた。
私は効果速度を限界まで速める。
魔界の植物はとにかく硬い。彼女の柔らかな体にそれらが突き刺さる光景など見たくない。
今までの様々な失敗を省みて彼女の身を守るための魔術を発動させる。私は力の微調整が不得意で、これまで何度もリオネッサを危険に晒してきた。行方不明になってから心細い体験をしてきたであろうことは彼女についた細かな傷や服の破損具合でわかる。これ以上負担をかけるわけにはいかない。
試みは上手くいった。これ以上の怪我をさせる事無く彼女を抱き留めることができて、安堵した。
何と声をかけるべきか迷ったが、私は約束通りただいまを言う。だが彼女からの返事はなく、大きな瞳からは涙が溢れるばかり。力なく私を呼ぶ声に間抜けにもただいまとしか返せなかった私を全力で殴りたかった。よほど怖かったのだろう、拭っても拭っても彼女の涙は私の指先を濡らすだけだ。
安心させるために抱きしめるべきなのだろうとは思うものの、まだ抱き潰してしまいそうで怖くてできなかった。そんな私の心を読んだかのようにリオネッサは無理矢理に流れていた涙を止めて微笑む。
「おかりなさい、魔王さま」
彼女の言葉に愚鈍な私はやはりただいまとしか返せなかった。
彼女を腕に抱えて魔王城に帰りながら真剣に夫らしさについて考えた。
まずはバルタザールに胃薬を貰おうと思う。