後
次の日会社に行くと、既に後輩の元山君がパソコンを前に唸っていた。いつもは僕よりもはるかに遅く来る元山君は、僕に気づくや、「あれ、井下さん、今日は遅いっすね」と声をかけてきた。元山君が早いだけだよ、と言ってやると、「いや、今日は取引先でプレゼンがあって」と頭を掻いた。
でも、元山君が時計を見るなり、げ、と声を上げた。時計の針は七時を少し回ったところだ。
「ホントだ。すげえ早い! え、ってか井下さん、毎日こんな時間に会社来てるんですか」
「ああ、まあ」
「ああ、井下さん、残業しないなと思ったらそういうことなんですね、はあ、すごいな」
すごいことなんて何もない。
というのも、小説の仕事をしているときにはあまり残業をしたくないので、朝早く来て仕事をするようにしているのだ。朝早く起きて小説を書いて、始業の二時間前に出社して仕事に手を付けて一日仕事をして定時に近い時間に家に帰って小説を書く。事情を知らない部長には、「残業もしないなんて、井下は随分楽そうに仕事をしている」と思われている節もあるけれども、その辺はシカトを決め込んでいる。
はあ、と感嘆の声を上げながらもPCのブラインドタッチを止めない元山君に、僕は言った。
「いや、僕は元山君のほうがすごいと思うけどな」
「え、そうっすか」
「ああ、出来る子だからね、君は」
これは皮肉でもなんでもない。事実だ。
元山君は僕の二歳年下の後輩だけれども、たぶん僕より仕事ができる。まだまだポカをやらかすこともあるし傍から見ていても危なっかしいこともあるけれど、彼は持ち前の人当たりの良さでその辺をカバーできる。元山君の姿を見て、仕事っていうのは人柄でやるもんなんだなあ、という当たり前のことに気づいたくらいだった。彼は愛され系の営業マンなのだ。翻って僕はといえば、元々がヘンテコ人間で周りとのいさかいが絶えなくて、意思の疎通さえも時間がかかってしまう。きっと、先輩方から見ても不気味な後輩だろう。そんなわけで、僕は『使えない井下君』だ。
まんざらでもなさそうに笑う元山君。きっと、こうして笑うことができるのが、彼の愛され系たるゆえんなんだろう。
と、そんな元山君の口から、そういえば、という前置きが飛び出した。
「井下さん、渡さんのこと、どう思ってるんですか」
「は?」
「は、じゃないですよ。ほら、受付の渡さん」
「どうってどういうことだよ」
「いや、なんだか仲良さそうだなって思って。たぶん、お似合いだと思いますよ」
「何言ってんだ」僕は笑った。「僕はダメだよ」
「いや、結構いい線行ってると思うんだけどなあ。井下さん、押してみたらいいんですよ。そうしたら、渡さんの一人や二人簡単に落ちますって」
「お前なあ、渡さんは犬猫じゃないんだから」
「はは、同期の女子の扱いなんてそんなもんです」
元山君は短く笑った。元山君と渡さんは同期だ。
「でも、井下さん」
不意に、元山君の声のギアが変わった。さっきまでのへらへらした口調から、少し真面目なトーンへと。
「なんか井下さんはすごく卑怯な気がしますよ、正直」
「え」
「井下さんって、人当たりがまあまあいいくせに、ある一線は絶対に譲らないんですよね。ある一線から向こうは隠しちゃう、っていうか。まあ、僕なんかはそれでいいんですよ。先輩後輩の関係ならそんなもんでも。でも、女の子からしたらたまったもんじゃないんじゃないかなあ。――井下さん、これまで女の子に『あなたのことが分からなくなった』って言われて別れたことあるでしょ」
いくらキモい系男子であるところの僕だって、学生時代は何度か女の子と付き合ったことがある。でも、毎回決まって、『あなたのことが分からない』と女の子が切り出してきて、僕がそれに答えることができずに恋が終わった。
何も答えないのを答えと取ったのか、元山君は続ける。
「後輩がこんなこと言うのはなんですけど、もっと井下さんは肩の力抜いていいんじゃないですかね」
「……ああ、そうだね」
すると、元山君は、ひゅう、と口笛を吹いた。
「また一線を引いた」
心の中を見透かされたようで恥ずかしかった。
だから、僕は少しだけ本音を口にした。
「時間がないんだよ」
新進気鋭の小説家・山家浩。この名前はただ息を吸って吐いているだけでは成り立たない名前だ。アホのように時間を使って小説を書いて、そしてその何十倍もの時間をいろんな本を読むことに費やして、初めて名乗ることのできる名前だ。井下としての生活を終え、山家浩として生活できる時間はひどく短い。だから、僕は会社以外の生活のほとんどすべてを『山家浩』のために費やしている。結果、時間がない。
元山君は小首を傾げた。
「時間は作るもんですよ」
分かってる。と僕は答えた。
んなことは分かってる。
でも、せっかく手に入れた『山家浩』の名前を、手放すことなんかできやしない。
その日の夕方、また給湯室で渡さんに呼び止められた。
「あ、井下さん」
家に帰れば小説の仕事がある。でも、渡さんの笑顔にほだされて、家に向かう足を無理矢理給湯室の床に押し付けた。
どうしたの? と声をかけると、渡さんは言いにくそうに頬の辺りを指で掻いた。
「あのう、お勧めの本ってないですか。最近全然読みたい本がなくって」
「あ、分かった。じゃあ探しておくね」
そそくさと給湯室を後にしようとすると、渡さんにまた呼び止められた。
「あのう、井下さんって休日は何をしてるんですか」
「へ?」
「あ、いや」渡さんは言い訳っぽく言葉を重ねた。「なんだか井下さん、最近忙しそうだなーって思って」
まさか、会社の中で『休みの日は小説を書いてそれを出版してます』とは言えない。
だから、僕はごまかしの手を打った。
「まあ、その、いろいろ」
「いろいろ、って」
答えるのが億劫だった。いつもの僕だったら適当に嘘でごまかすこともできたんだろう。でも、朝の元山君の言葉が頭をかすめて、なんとなく気分が悪くなったこともあったかもしれない。……いや、元山君のせいにしてはいけない。ただ単に、僕の虫の居所が悪かっただけだろう。
「ごめん、今日は急ぐんだ」
会話を僕の側で打ち切った。
すると、渡さんの瞳に影が差した。
「……すいません、呼び止めちゃって」
「ご、ごめん」
口先だけで謝って、僕は気づいた。ああ、僕は今、一線を引いちゃったんだな、と。
いたたまれない空気から逃げるようにして、僕は給湯室を後にした。
会社の時間が終われば、会社員・井下ではなくて、新進気鋭の小説家・山家浩としての時間が始まる。
家に帰って適当に造ったサラダをかっ込んでからPCに向かい、ワードを立ち上げる。今日の朝の『山家浩』が紡いだ世界が僕の前に現れる。
いつもなら、すぐに『山家浩』の作った世界に飛び込めるはずだった。なのに、今日に限って『井下』が邪魔をする。
後悔なんて、してないだろ。
僕は『井下』に言い聞かせる。
ずっと、僕は誰からも相手にされない人間だった。この広すぎる世間の中にあってはどうしようもないくらい無個性な、ただの一塵芥だった。それどころか、社交性なんてゼロ、可愛げなんかもまるでない、話せることといえばアニメか小説の話題くらいしかない。だからだろうか、僕はいつからか「分からない人にわざわざ自分のことを話す必要はない」と線を引いていた。
それは、僕の書く小説にも表れている。
僕の小説はお世辞にもユーザーにやさしい作りではない。それが評論家先生のおめがねにかなったきっかけなんだから世の中捨てたもんじゃないとは思うけれど、世間一般からすると「訳の分からない小説」らしい。たぶん僕は、「分からない奴には分からなくてもいい」と線を引いて、小説を作っている。
そして僕は、そうやって小説を書いている『山家浩』のことが、本当に大好きだ。
でも――。
この心の渇きはなんだろう。
目の前のワードテキストはいつまで経っても埋まらない。
ワードの空白に、僕の声にならない声が詰まっていく。そのせいで、目に見える言葉がいつまで経っても打ち込めない。
何やってるんだ!
僕は『山家浩』に怒鳴り掛ける。
小説家になるのはお前の夢だっただろう。その夢のためには、人生だって賭けるんだって決めたんだろう。ダメ人間の井下なんてどうでもいいじゃないか。僕は山家浩として生きていければそれでいいじゃないか。だからそのために頑張るんだろう?
僕は、山家浩だ。井下じゃない。山家でありつづけるために、僕は井下を捨ててやる、そう決めたんじゃないか。
でも――。
僕の中の『井下』が叫ぶ。それでいいのか、と。
諦めたんじゃないか。もう。
僕は、小説家の山家浩なんだ。井下は、そのおまけなんだ。
ふいに、渡さんの顔が脳裏に浮かんだ。いつもの笑顔じゃなくて、こんな時に限って、今日、僕が曇らせてしまった、影の差した瞳をたたえた表情だった。
僕は、何をしてるんだろう。
そんな呟きが口をついて出る。でも、その呟きの主語である僕が、『山家浩』のものなのか、それとも『井下』のものなのかすらも今一つはっきりとしなかった。
結局この日はまったく文章が書けないまま、PC画面を見つめ続けていた。
「おはよう井下君」
会社で声を掛けられた。振り返ると、そこには頭を掻きながらあくびをこく南原課長の姿があった。おはようございます、と返すと、南原課長は僕の肩をぽんと叩いた。
「なんだか元気がないみたいだね」
「え、あ、いや」
「その顔は、女の子とうまくいってない顔だな」
ふん、と南原課長は鼻を鳴らして、遠い目をした。
「なんか懐かしいなあ。僕もそういう時代があったなあ」
「え、ってことは、奥さんと何かあったんですか」
「ああ、あったんだよ」南原課長は頭を掻いた。「ほら、僕さあ、この通り、あんまりイケてる感じじゃないからあんまり女の子のあしらいを知らなくて」
曖昧に頷いておいた。まあ、確かに南原課長は今の風采を見るに、昔だって大したことはないだろう。僕とどっこいどっこいだ。
「僕の奥さん、僕が怪我して入院した時に知り合った看護婦さんなんだけどさ。退院してから一緒にジョギングしようってことになって、一緒に走ってたんだけど、ある日、泣き出しちゃってさ。困っちゃったんだよね。で、後日共通の友達に事情を聴いたら、『いつまで経っても南原さんはジョギングばっかりで、デートの約束をしてくれない、脈がないんだ』って泣いてたらしいんだよね」
鈍いにもほどがある。三十近い男の人とそれなりの大人がジョギングを何度もしているのに、その後に「ちょっと食事でも」っていう流れすらなかったのか。とんだ朴念仁だ。
「いや、僕だって本当は誘いたかったんだよ。でもさ、迷惑かなあと思って声を掛けられなかったんだ」
何か刺さるものがあった。痛い。
「まあ、たぶん井下君もそうやって悩んでるのかなー、って思ってね」
朴念仁の南原課長のくせに、ひどく鋭い。
すると、南原課長は種明かしをした。
「いやね、ちょっと元山君から話を聞いて」
あの野郎。
おせっかいな後輩のしてやったりな顔が頭の上に浮かんだ。
「渡さん」
夕方、給湯室で湯飲みを洗っている渡さんに声をかけた。すると、肩を震わせて、渡さんは僕の方に振り返った。
「あ、井下さん」
ちょっと元気がない気がする。
でも、渡さんは湯飲みを洗う手を止めて、僕に向いた。
その渡さんに、僕は包みを差し出した。
「あ、本ですね、ありがとうございます」
「うん。約束の本、持ってきたよ。でも、どうかな、渡さんが気に入るかどうかわからないな。結構マニアックな内容だし、しかもこの作者さん、デビュー間もないし……」
すると、渡さんは笑った。
「なんか珍しいですね」
「何が」
「いつも井下さん、本を貸してくれる時には、『気に入らなかったらすぐ読むのをやめればいいから』って貸してくれるのに。――たぶん、井下さんにとって大事な本なんですね」
「まあ、そんなところかな」
渡さんは包みの中からその本を取り出した。そして、タイトルと著者に視線を落とす。
「SF小説ですね、ええと、山家浩さん? 聞いたことないなあ」
「デビューしたての新人だからね」
「面白いんですか」
「僕は面白いと思うよ」
じゃないとやってられないよ、という僕の言葉は、さすがに飲み込んでおいた。
すると、渡さんは僕のデビュー作を両手で抱きしめた。
「分かりました。じゃあ、心して読みますね」
これでいいんだろう。
僕は小説家・山家浩だ。小説家として生きるんだから、僕はこれでいいんだ。
と、渡さんは、僕の目を見て微笑んだ。
「そうだ井下さん、最近、駅の近くに喫茶店ができたの知ってます? あそこ、すごく静かで本を読むのにいいんですよ」
「へえ、そうなんだ」
しまった、また一線を引いてしまった。
慌てて、僕は二の句を継いだ。
「じゃあ――」
いつか僕は、君に僕の本当の顔を見せることができるんだろうか。
そんなささやかで重大な願いを胸に秘めながら、僕は口を開いた。
繰り返しますが、これはフィクションであり、実在する人物・団体・事件等はすべて架空のものです。架空のものですってば!