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この小説はフィクションです。

実在する人物、団体、その他もろもろとは一切関係ございません。

 天井からぶら下がる電燈のひもを手探りで探り当てる。何度か腕を振ってようやく見つけたひもを握って引いてやると、真っ暗な部屋から闇が追い払われた。六畳一間のリビングの真ん中に、昨日広げたまんま置きっぱなしにしてある物理学の論文が広げてあった。結局、この論文に書いてあったことの意味がさっぱり分からなかったんだよなあ、と僕は白いため息を吐いた。と、白い息を見て部屋が怖ろしく寒かったことに気づいた僕は、「まだ寝足りないんですけど」と言いたげに佇む石油ファンヒーターのスイッチを押した。まだまだ眠いのか、ファンヒーターはぐずぐずと音を立てるばっかりだ。

 その間に、パソコンの電源を入れる。ファンが回りはじめ、モニターにスタートページが浮かぶ。ファンヒーターと比べるとはるかに寝起きがいいらしい。

 さあ、始めるか。

 と、その前に。

 さすがに寝間着だけじゃあつらい。ウールのコートと厚手の靴下、とどめに昔の恋人から貰ってそのままにしているマフラーを首に装備。そしてパソコンの前に座って、ずっと進めているデータを開いた。

 さて、昨日はどこまで書いたっけ。

 寝ぼけた頭でワードをスクロールさせていく。

 ああ。

 昨日の僕の苦闘がそこにあった。

 そう、確か、ゲシュタルト崩壊を起こしかけている兆候があって、この世界の住民たちが少しずつずれていくありさまを描いていた。でも、主役の男の子がずれの中に巻き込まれていなくて戸惑っている、っていうところで頭を抱えてしまったんだった。認識のずれを書くのは難しい、とか昨日一人でぼやいた気がする。

 でも、やるしかない。僕がキーボードを叩かないことには、この世界は回らないのだ。そして、僕が回している世界を編集さんが待っていて、その編集さんの向こうにいるいくばくかの読者さんが待ってくれている。

 ようやく、後ろの方で不機嫌そうな声を上げてファンヒーターが熱風をこちらに送り始めた。すると、リビングの真ん中に広げっぱなしの論文がぱらぱらとめくれた。それはまるで、僕のことを笑っているようだった。

 ふん。

 曲がりなりにも、僕の一日が始まる。まだ、街が目覚めない時間から。

 そうして僕は、僕自身が作り上げた世界を回すべく、その世界の深淵へと意識を落としていった。

     ○

 僕は、小説家だ。

 とはいっても、僕のペンネーム「山家浩」は大して知られた名前というわけでもない。それもそのはず、この春に出した小説でデビューした新人だ。デビュー作はめちゃくちゃマニアックなSFだったこともあって実売こそさしてなかったけれども、今年26歳という僕の若さによっていくばくかの人に注目してもらったみたいで、ある評論家の先生からは「新世代のSF小説家の誕生!」と太鼓判を押してもらえた。周りから見れば順風満帆を絵に描いたような小説家人生だろう。

 でも、そうは問屋が卸さない。

 注目されるっていうのはひどく恐ろしいことだ。評論家の先生に褒めてもらったことで、編集さんの僕に向ける視線も熱くなる。『もしかして、この作者は将来どでかい賞を取ってくれるんじゃないか』、そんな心の声を聴いてしまう時もある。そんな編集さんたちの無言のプレッシャーに圧されて、僕は今、小説を書いている。

 いや、この生活に不満があろうはずはない。曲がりなりにも僕が選んだ人生だ。

 でも、時折、不安になることもある。


 カーステレオから、70年代の歌謡曲が流れてくる。案外悪くない。っていうか、親がその世代だったりするので案外耳に心地いい。

 その歌は、ずっと恋の素晴らしさを歌っていた。甘酸っぱい初恋、若い頃の青い恋、そして最後の恋、どれも素敵な恋なんだ、と歌うこの女性歌手は、確か俳優さんとの不倫の挙句自殺したんだっけな、とどうでもいいことを思い出してはげんなりとした。

 眠い目をこすりながらハンドルを片手で切っていると、横に座る南原課長が、「おいおい」と声を上げた。

「井下君、君、運転下手なんだから片手運転なんてやめてよ」

「ああ、すいません」

 慌てて両手でハンドルを取り直すと、南原課長は薄くなりかけている頭をなでおろした。

「それにしても、最近井下君、やけに眠そうだね」

「そ、そうっすか」

 流れていく冬の町の風景を見やりながら、南原課長は頷いた。

「うん、すごく眠そうだ。もしかして、夜更かしでもしてるのかい」

 している。もちろん、小説を書くための夜更かしだ。それに朝も早いからあんまり睡眠時間を取れていない。でも、それを南田課長に言うわけにもいかず、僕は適当にごまかした。

「ええ、最近、面白い本が出て、夜更かししちゃったんですよ」

 僕の勤めている会社には『副業禁止規定』があって、小説家をやっているなんて誰にも言えない。だから、会社の誰にも小説家をやっているなんてことは説明していない。だから僕は会社では、変わり者で使えない、本好きの若手社員の一人、井下として過ごしている。

 すると、南原課長はつまらなそうに声を上げた。

「あのさあ井下君、こういうことを聞いちゃうのはどうかと思うんだけど、彼女は」

「いないです」

 食い気味に答えると、南原課長はため息をついた。

「まあ、俺が言うのもなんだけどさあ、早く恋人作ったほうがいいよ」

 南原課長は、三十歳の頭頃に大きな怪我をして入院した時に知り合った看護士さんと結婚している。本人もあまりモテたためしがない、むしろ井下君みたいなタイプの若者だったよ、といつだかの飲み会の時にそっと教えてくれた。

「はあ、でも……」

「なんだ、もしかして井下君、男好き?」

「いやいや、そんなことはないですけど。女好きですよ女好き」

「だったら恋人を作ったほうがいいと思うよ。だってほら、もうそろそろ……」

 タイミングよく、カーステレオから、松任谷由美の「恋人はサンタクロース」が流れてきた。その勢いを借りながら、南原課長は言葉を重ねる。

「クリスマスシーズンだしな」

 道理で肌寒いはずだ。最近、季節の変化についていけなくなっている自分に気づく。

「ああ、そうですねえ」

「あんまり興味なさそうだな」

「ええ、まあ」

 小説家稼業にクリスマスなんて関係ない。小説家にとって意味のある日というのは締切日と小説の発売日だけだ。

 と、南原課長は少し話の方向を変えた。

「ってかさ、うちの会社にも若い子がいるんだからさ、ちょっと誘ってみればいいんだよ。ほら、受付の渡さんとか」

 渡さんというのは、僕の二歳年下の女性社員だ。外回りをしている僕とは違って、会社で受付とか事務をやってる子だ。

「ああ、渡さん」

「あの子はいい子だと思うよ、もし嫁さんがいなかったら誘うところだな、俺は」

「それ、奥さんにチクッて平気ですか」

「駄目に決まってるだろ」

 恋人はサンタクロースのサビに合わせて、南原課長は凄んで見せた。でも、僕が話をはぐらかしたことに気づいたのか、少し話の方向を戻した。

「ってか、井下君と渡さん、結構馬が合うと思うけどな。それに、確か君たちって本の貸し借りしてるんでしょ」

「ええ、まあ」

「気が合いそうだけどなあ。今度どっかに誘ってみればいいんだよ」

「そうですね、まあでも僕、草食系なんで、うまく行きますかね」

 適当に話をかわしながら、僕はアクセルを踏んだ。


 会社に戻ってしばらく事務作業をこなすうちに、就業を告げるベルの音が鳴り響いた。

 田舎の営業職ほど暇な仕事はない。今日の日報を書いて机の上を片付けると、ぽつぽつと周りの社員も帰り始める。結局、皆暇なのだ。その流れに乗って、僕も席を立つ。

 家に帰ってからも仕事だ。ちょっとここのところ、あまり文章の進みがよくない。早く家に帰りたいところだ。適当に挨拶しながら廊下を抜けていく。

 と。

「あ、井下さん」

 僕の名前を呼ぶ声が、給湯室からした。

 給湯室を覗き込むと、そこにはシンクに向かって急須を洗う渡さんの姿があった。茶色掛かった髪の毛を後ろでまとめて僕に向く渡さんは、僕の目から見ても可愛い子だ。

「ああ、お疲れさん」

 手を振って帰ろうとすると、渡さんが声を上げた。

「あ、あの、ちょっと待ってください。この前借りた本を持ってきたんです。ほんのちょっと待っててもらっていいですか」

「うん」

 すると、渡さんは急須を超高速で洗い始めてそれを水切り台の上に置くや、どたどたと受付のほうに走って行ってまたすぐに戻ってきた。顔を上気させながら渡さんが差し出してきたのは、某ネズミの国の紙袋だった。

「これ、井下さんからお借りしてた本です」

「ああ、読み終わったんだ」

「ええ、読み終わったのでお返しします。ありがとうございました」

 へへ、と楽しそうに渡さんは笑った。

 僕はといえば、そういえば女の子からこんな微笑み方をされたことってあんまりなかったなあ、とどうでもいい感想を頭の中に描いていた。そんな僕の心の中など知らず、渡さんは目を輝かせた。

「それにしても、さすが井下さんですね、やっぱり井下さんの選ぶ本に間違いはないです」

「あ、今回の本、大丈夫だった? 結構好き嫌いの分かれる本だからと思ったんだけど」

 渡さんは人懐っこい笑みを浮かべた。

「最初はとっつきづらいところがあったんですけど、案外読み進めるうちにハマってきました。さすがですねー」

 僕と渡さんが本の貸し借りを始めたのは、一年位前のことだ。

 確かあれは、忘年会でのことだ。正直に言うが、僕はあまり酒に強くない。だから、ひたすら一気飲みをさせられる会社の飲み会ではヒーローになることはできない。そして周りも、「井下はあんまり飲めないから構ってやるな」という空気を醸してくる。実はそれはダチョウ倶楽部式のやつ(「飲めないんだから放っておけ」→「いいえ、じゃあ飲みます」→「どーぞどーぞ」の流れ)なのは分かっているのだけれど、あえて僕はそのフラグを折っている。たぶんつまらない奴だと言われているだろうけど、そんなことに構っていると体が持たない。

 あの時もそうだった。僕は飲み会の浮かれた空気の中、ひたすら安全地帯を探してうろうろしていた。と、皆のバカ騒ぎから少し離れてポツンと座る渡さんを見つけた。渡さんは、なみなみと注がれたビールの泡を見つめてぼけっと座っていた。

 声をかけた。すると、渡さんは困った顔をしながら笑った。

『わたし、苦手なんですよね』

 お酒のことなのか、それともこういう乱痴気騒ぎのことなのかは聞かないでおいた。

『僕も苦手なんだ』

 拳二つ分離して、僕は渡さんの横に座った。この距離感は、モテない(というか気持ち悪いと言われがちな)男子をずっと続けてきた僕の防衛反応みたいなものだ。

 と、僕は気づいた。二歳年下の女の子を前にして、何も話すことがない。僕はこれまで小説とか趣味のギター、あるいは勉強してきた物理学、あるいはアニメとかゲームの話なんかの話ばっかりをして人生を過ごしてきた。女の子の喜びそうな話題なんて持ち合わせがなかった。

 と、渡さんがぽつりと声を上げた。

『そういえば、井下さんって本を結構読まれるんですよね』

 そう南原課長が言ってました、と渡さんは言った。

 そのとっかかりのおかげで、僕はとりあえず喋る機会を得た。なにせ僕は小説家、商売仇の小説はたくさん読んでいる。っていうか、そもそも小説家っていうのは、小説をたくさん読むうちに「自分だったらこう書くのになあ」と大それたことを思うようになって自分で書き始めたような人種だ。とにかく、僕は小説について喋った。そして、ある小説家さんの名前を出した途端、南原さんは、ああ、と声を上げて身を乗り出してきた。

『え、わたしもその作家さんのこと好きなんです』

 あ、そうなんだ。

 僕が名前を出した作家さんはライトノベルの世界からデビューして、今や一般文芸の世界でも押しも押されもせぬ人だ。このころの僕はもうデビューが決まっていたから、ある意味その作家さんは商売仇ということになるのかもしれないけれど、昔から読んでいた作家さんだ。たぶん、一生好きで居続ける作家さんの一人だろう。

 とにかく、話はその作家さんのことになったのだけれど、渡さんの話と僕の話があまり噛み合わなかった。僕はどちらかというと、その作家さんの初期の頃、ライトノベルレーベルに出していた頃の作品に詳しくて、渡さんはむしろ一般文芸寄りの作品に詳しかった。そして、僕はあんまりその作家さんの一般文芸寄りの作風を知らなかった。

 そして、どっちから言いだしたか。

『じゃあ、本の貸し借りしませんか』、『本の貸し借りしようよ』

……ということになって、今に至る。

 今ではその作家さんのみならず、いろんな作者さんの小説を貸し借りしている。

 目の前の渡さんは頭を掻いた。

「でも、井下さんってすごいですよね」

「何が」

「いや、わたしって好きな作家さんだけを追っかけちゃうからすごく趣味が狭いんです。井下さんは何でも読まれるみたいじゃないですか」

 そりゃそうだ。小説家にとって、『読む』ことだって立派な仕事だ。普通の本読みよりは本を読んでいる自信はある。最近では意識していろんなジャンルの小説を読むようにしている。

 でも、そんなことを言ってもしょうがない。僕は適当に話を合わせた。

「ただ乱読なだけだよ。むしろ、本なんて好きに読めばいいんだからさ」

「そういうものですか」

「うん」

 頷くと、渡さんは頬の辺りをにぱっと緩めた。

「よかった」

 話が途切れた。その隙間に僕は無理やり言葉をはさんだ。

「ごめん、もう帰らないと」

「あ、すいません、呼び止めちゃって」

「いやいや、大丈夫。じゃあ、お疲れ」

「お疲れ様です」

 渡さんはこくりと頷いた。

 僕はと言えば、そんな渡さんを尻目に左手に某ネズミの国の紙袋をぶら下げ、時計の針とにらめっこしながら給湯室を出た。と、後ろから水音がし始めた。また渡さんが洗い物を始めたのだろう。

 本を返すために仕事の手を止めてくれてたのか。

 そう思うと、なんだか申し訳がなかった。

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