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ある女の子の話

ケムリ

作者: 物体もじ。


 ある、女の子の話をしようと思う。






「あー、浮かびてー」

「飛びたい、じゃなくて」

「浮かびたい」

「……やる気ゼロか」


 その時、彼女がそう言ったのは、多分、ぷかぷか浮いていく煙からの連想だったんだろう。

 衣替えしてしばらく経って、そろそろ風も冷たくなる頃で、こんな季節にわざわざ屋外にいるのは財政の厳しい学生くらいのもので。それでも私たちは、まだまだ太陽の光があったかいってことを良く知っていたから、いつもそこで過ごしていた。

 屋上。危ないからなのか何なのか、一応立ち入り禁止のそこに、実は鍵も掛かっていないことを見つけてきたのは、例によって彼女だった。

 踊り場に積まれていた使われていない椅子をいくつか持ち込んで、コンクリートの上に適当に並べて、「青空教室」とか言ったあと、自分で馬鹿らしくなったみたいに、肩をすくめた。

 彼女の頭の中が、「案外」メルヘンなものでできていると知っていたのは、たぶん、私くらいじゃないだろうか。


「ぷかぷか浮かんで流されたいー」

「また言うし。プールでも行けば」

「こないだ行った」

「行ったんかい。この季節に」


 とん、と慣れた仕草で彼女の指が動いて、細い缶に灰が落ちた。私は膝に頬杖をついて、それを見ていた。

 彼女が持ち込んで、以来そこに置かれていた缶が、烏龍茶の、しかも今どき珍しい200mlのやつだったのは、彼女いわくの「様式美」とやらだった。

 この様式美が、やたら好きな人だった。そもそも、私たちが屋上にいるのも、そこに雨ざらしに椅子が置かれているのも、彼女の趣味で、それは彼女がいつも鞄か制服のポケットに入れている手のひらサイズの赤い紙箱についても同じで、私がいっそそれなら、ライターはジッポであるべきじゃないかと言ったら、それじゃ様式美にならない、と変なこだわりを見せていた。

 彼女が好んだのは、電子ライター。コンビニで売っている百円の、スリムなタイプがお気に入りだった。


「でもやっぱ何か。てか、水だとうっかり引っくり返ったら溺死するし」

「そりゃ、水だから。で、どこのプール」

「無駄に奮発して、ホテルの温水」

「一人でか。確かあそこ、流れるプールとかはなかったよね」


 きっと、レーンをひとつ占領して、邪魔にひたすら浮かんでいたんだろうと思うとおかしくなって、私は笑ったのだ。

 笑いながら吐いた煙が目の前を白く曇らせて、その視界も何だかおかしくて、笑いが止まらなかった。笑いすぎて、最後にはむせた私を見て、「笑ってろ」と彼女は言った。

 だら、と身体の横に下ろされた彼女の指のすき間から、煙は細く立ち上っていた。でもそれはすぐに空気と混ざって、青く、見えなくなっていた。

 いつだって、彼女には煙がまとわりついている。実際には、そんなのはほんのわずかな時間でしかなくて、彼女の指に細い紙巻煙草が挟まれていたのは、朝か夕方の、ほんの短い時間だけのはずだった。少なくとも、私にとっては。

 「様式美。かつ、かっこつけ」と、赤いケースを玩んでいた彼女が、限られた時間以外で煙を吐いているのを、私は見たことがなかった。

 それでも、私の中、彼女はいつだって煙の中にいる。

 何のために、と、私は考える。

 私にとっての、きっかけは彼女。気だるげに煙を吐くさまが妙に似合っていて、真似をしてみたくなったのだ。だから私にとっても、煙はかっこつけ、なのだろう。

 では、彼女にとって、どうであったのか。何に対してのかっこつけで。どういう意図があっての、「様式美」だったのだろう。


「代償行為」

「はあ?」

「ねえ、何で煙草なんて吸ってんの。身体に悪い。慢性的自殺」

「あんたにだけは言われたくない」


 時どき彼女は、そんなことを言っていた。自分は平然と口にくわえながら、私がそれなりに慣れた手つきで火をつけるのを、首を傾げて見ていた。

 そのころの私は、それが何だか彼女に笑われているように感じられて、ひどく……八つ当たりに近いとわかっていながら、腹立たしくもあったし、多分、寂しさとか、焦りとか、そういうものも感じていた。


「あたしのはかっこつけだし。あー、あと……大気汚染?」

「環境問題がどうしたって」

「ちょっと、及ばずながら貢献してみよーかなー、とか何とか」

「絶対、貢献の方向まちがえてるからソレ」


 カリカチュールみたいな「青空教室」で、彼女はいつも、笑っていた。声を上げることもあったし、椅子に全身を預けきった、力の抜けたかっこうで、口唇だけで笑っていることもあった。どんな形であれ、彼女は……ダルそうにしていることはあっても、そんな時でさえ、いつだって、顔は笑っていた。

 何がそんなに楽しいのか、私にはわからなかったけれど、不思議なくらい、彼女が笑み以外を浮かべているのを、私は見たことがなかった。

 いつも、彼女は。白い煙の中で、ダルそうに笑っている。


「だって、ダメじゃん。笑ってないとさ」

「何で」

「笑えなくなったら、人間、オシマイだよ」

「笑ってたってオシマイでしょあんたは。てゆうか笑ってるほうがオシマイに近い気がすんだけど」


 それも、彼女の「様式美」、だったんだろうか。

 実は屋上に鍵などかかっていなかった、と言った彼女は、私を巻き込んで、「青空教室」をつくった。椅子を並べて、空き缶を持ち込んで。他には何もなかったけれど、たぶん、それで十分だった。

 私にとっては、彼女がいれば、それで良かった。

 約束もなくても。

 例えば、朝、珍しく早く目が覚めたから、学校に行って、一応誰にも見つからないように用心とかしながら屋上への階段をひとりで昇る。それは、私の子どもじみた冒険心をひどく満足させてくれる行為で、何度繰り返しても、私の胸が弾まないことなんてなかった。

 そして、屋上へと無事たどり着けば、彼女がいる。雨ざらしで、そろそろ棘とか出てきてそうな色あせた椅子にぼんやり座って、煙草を口にくわえていたり、ただ指に挟んでいたり。その足元、ちょうどもう片方の椅子との間には烏龍茶の空き缶があって、雨水なのかなんなのか、いつも底のほうに溜まっている液体の中に、まっしろな灰が落ちていく。

 代わりに空に混じっていく煙を、彼女は静かに眺めている。

 そうして、空いたほうの椅子に座る私を彼女はちょっと見て、「おはよ」とか言うこともあったし、何も言わないこともあった。私も、言ったり言わなかったりで、朝の時間はふたりともそんなにテンションも上がっていないから、喋ることも少なくて、私は本を読んでいたりした。

 朝の元気すぎる太陽の光は、ちょうど椅子が背を向けている時計と水タンクの置かれた屋上の出っ張りにさえぎられて、私たちのところへは届かない。昼にはちょうどいい温度に染まる屋上も、朝は地上よりもよほどに寒かった。

 予鈴がなる前に、私たちはどちらからともなく火を消して、吸い殻を空き缶の中に落として立ち上がる。さすがに服に匂いがつくから、最初のうち、私はオーデコロンでごまかしていたのだけど、彼女はそんなことはしていなかった。最後には、私も何となく面倒くさくなって、そのままだった。それでも誰も煙草の匂いについて聞いてきたりはしなかったのは、きっと、私がどうであろうと、他の人にとってはどうでもいいことだったからなのだろう。うるさく言わなければならないはずの、教師という職業の人間までがそうだったのかどうかまでは、わからないけれど。

 朝が終われば普通の生活の中に私も彼女も紛れてしまう。そんなにたくさんの人間がいたわけでもなかったあの箱のような建物の中で、そう言えば、意外なほど私は彼女に遇ったことがない。

 朝か、夕方の限られた時間、鍵のかかっていない屋上、私と彼女の接点は、考えてみればあそこだけだったのだ。

 もちろん、その後、どこかに遊びに行ったりもしていたけれど。そんな時の彼女は、私の知る限りのいつも通りで、ダルそうに歩きながら、何が楽しいのかわからない笑顔でいた。

 それは、いつものことだったのだ。私たちにとって、ありふれていて、いっそ退屈だと思うくらいのこと。それでもいつだってそうしていたのだから、彼女といる時間が、私は本当に好きだったのだろう。

 なら、彼女は、どうだったのだろう。そう、今さらながらに考える。

 いつも、何も約束もなしに彼女はそこにいた。私が一緒にいても気にしていなくて、二人でぼーっとして、時どき、話をした。笑ったり、ふざけあったりしながら、ずっと一緒にいた。楽しいと、思っていた。

 彼女は、どうだったのだろう。時どき、ひどく唐突にものを言っていた、あの女の子は。

 「寒い」とか「おなか減った」とか、「眠い」とか、大体は即物的なことで、たいてい、私は返事もせずに聞き流していた。

 だけど時どき、彼女は言っていた。

 「流されたい」「溶けたい」「落っこちたい」

 「浮かびたい」。

 白い煙をダルそうに吐きながら、彼女がそうつぶやいていたのを、私はただ、聞いていた。聞いているだけで良かった。何故なら、聞いているだけで満足できたから。

 私にとっての十分条件は、彼女。他の何でも、なかった。

 でも、それなら。彼女の十分条件は。

 屋上、椅子、烏龍茶の200ml缶、煙。その中に、私は、いたんだろうか。


「きっと、もしあたしが何かなったら、理由とかわかるの、きっとあんただけだね」

「いい加減、脈絡なく喋るのやめなって。しかも何かなるって、なに」

「何となく唐突にそう思っただけー」

「……きっとあんたは一生そうやって意味不明に生きていくんだろうね」


 笑った彼女と、笑えなかった私。

 彼女はいつだってそこにいた。彼女はいつだって、白い煙の中にいた。彼女はいつだって、笑っていた。彼女はいつだって、私の前にいた。私はいつだって、彼女が好きだった。


 この屋上に、本当に、鍵はかかっていなかったんだろうか。考えても仕方のないことを、私は考える。ここに通じる踊り場には、いつだって目一杯ものが積んであって、ふたりでそれぞれ選んで屋上に並べた椅子も、そこから持ち出したものだった。

 誰も通らない階段は、明かりがあるんだかないんだかわからなくて、いつも薄暗かった。それが雰囲気があると言って、私も彼女も喜んだけれど、そこから扉を開けた屋上は広くて風が吹いてあったかくて、最高の場所だったのに、まるで初めて人を迎え入れるように、誰の匂いも残っていなかった。

 そっけない、コンクリートの上にふたつだけ適当に置かれて、雨ざらしのせいでどんどん色あせてしまった椅子と、その間に置かれた細い烏龍茶の缶。

 敷き詰められた彼女の言葉と、まるく漂う白い煙。何だかんだと言いながら、ただの興味本位にしては重すぎる銘柄を選び続けた彼女。

 衣替えしてしばらく経った、そろそろ風も冷たくなる時期だけれど、空の真ん中を過ぎて、時計とタンクのこちら側を照らす太陽の光はあったかいということを、まだ、私は知っている。

 吐いた煙が、すぐに青い空に混じってみえなくなって、それでもきっと、そのままずっと、上のほうまで昇っていく。白い灰が落ちる先、私の手元には、半分飲み残した烏龍茶の200ml缶。

 屋上と、壊れかけたような椅子と、空き缶。赤い紙箱に、安っぽい百円の電子ライター。

 彼女がいた場所も、彼女の吐いた白い煙も、その中の笑顔も、彼女いわくの「様式美」。

 だからきっと、昨日ケムリになった彼女は、きっと笑ったまま、ダルそうに、青い空に昇っていって、すぐに青い色に混じって見えなくなってしまったんだろう。


「私にはわかんなかったよ。たぶん、何かあったんだと思うけど」


 でもたぶん、彼女は彼女が言ったとおり、彼女は私が言ったとおり、笑ったまんま、誰にもわからないまんま、そのまま、最後までいたんだろうと思う。


「あんたの「様式美」は嫌いじゃないけど、私はあんたじゃないから、そこまでこだわる気にはなれないよ。ま、それでいいかな」


 私にとっては、彼女がいればそれで良かった。彼女にとっては、どうだったのかは、わからない。

 ただ、私は、それでも、彼女のように、「浮かびたい」、と思ったことはなかったのだ。

 私があの時思ったのは、ただ。浮かぶ彼女を、見てみたいと。きっと、私は腹がよじれるほど笑って、むせて、最後には声も出なくなって、そうして、彼女に睨まれるんだろうと。


「思ったよりは、笑えないね。思ったより、ショックでもないけど」


 浮かびたくはない私は、吐いた煙が消えるのを見届けないで、とん、と扉の脇に、空き缶を置いた。

 けっこう探してようやく見つけた200mlの烏龍茶の中、飲み残した黒い液体の中に、赤い吸い殻。これぐらいが、たぶん私に相応しくて、たぶん彼女も好きな、「様式美」。

 嫌そうな音をたてて閉じる屋上の扉と、今でも積まれたままの壊れた椅子をすりぬけて、私は薄暗い階段を降りる。






 今も、あの屋上には、鍵なんてかかっていなかった。






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