第一話 入学
4月7日。僕は真新しい黒い詰め襟学生服を来て中学校の玄関にやってきた。校舎は10年ほど前に建て替えたばかりらしく、私立学校のような近代的は玄関は新しい雰囲気を感じさせている。玄関に置かれた机の上にあるクラス表を確認し、四階建ての校舎の三階へ向かった。
教室のドアをくぐるとそこには一五人ほどの生徒がいた。二,三人で話をするグループもいたが、それ以外の人はひとり椅子に座って黙っている。初対面ばかりなんだから友達がいないのは当たり前か。あの人達は小学校が一緒だったのだろうと自分で納得させ、僕もひとりで黙っているグループの仲間になった。この微妙な感じの空気は好きではないが、気軽に話してみようという気にはならん。
一〇分ほど経つと次第に席が埋まり、担任らしき大人が教室に入った。二〇代後半くらいのスレンダーな女教師だ。ウエスト付近に目が止まっていたが、不意にその先生と目があってしまった。僕はできるだけ自然に目線を泳がせる。
「うん、みなさんちゃんと来れましたね。」
教師から年齢相応なかわいらしい声が口からわずかに出る。
「じゃあ、みなさんおはようございます」
「おはよーございます」
だらりとした声が返る。
「あれ?みんな元気ないですね。そのうち慣れてくるから今は何も言わないけですけど、今後はきちんとあいさつするように」
緊張で凍ってるのに元気であどけない声なんて出せるものなのか?なんか渋々許してる感じだし、意外と厳しいスパルタだったりして。
はいみなさん、まずはご入学おめでとうございます。この喜瀬尾中学校は、他の学校と比べて校則が厳しくなっているのはもうわかってますね。みんなが安心して学校生活が送れるようにするためにあえて厳しくしています。でも、普通に友達を作ったりしてもいいですし、休み時間は体育館も開放しますからおもいきって遊んでも構いません。教室や廊下では走りまわらないでくださいね。ちなみに私は豊田瑠衣といいます。みなさんこれから一年間よろしくおねがいしますね。そして、今日の今後の予定ですが、入学式はこの後九時から一〇時頃まで。その後に今、机の上に置いてある教科書などに名前を書いたりまた連絡を伝えたりして四〇分ほど学活をした後に、二〇分間掃除をして帰宅という流れになります。入学式は体育館で行ないますが、椅子はもう準備してありますから何も持っていかなくてもよいです。…それでは、そろそろ廊下に出てください。あちら側から身長順に並んでください。今は細かいことは気にせずに大体の順番に並んでください。
「それじゃあ廊下へー」
やはりさすがだな。中学一年生に対しては親近感を持ってもらいために少し崩したあいさつになるのだが、全部敬体だった。妙に友好的な教師は苦手だからこれはこれで良いか。
廊下に出て身長を頭に手を当てて比べる人がいたが、真ん中より小さめという位置に一〇人も似たような身長の人がいた。僕もその一人だろう。適当に四番目くらいに入った。小声でよろしくとうしろの人に声をかけてみたが、返事はくれなかった。せめてうなずくとかなんかしてくれ。
長い入学式は腰と尻に負担がかかる。幸いクッションが効いたパイプ椅子だったからまだ良かったが、来年は教室の椅子で行うとなると、少しぞっとする。祝電披露やら校長のおはなしやらで半分以上が使われ、最後に聞いたこともない校歌を聞こえてくる上級生に合わせながら歌い、入学式は終わった。特に変わったことのない平凡な入学式だった。
教室に戻ると、全員の机の上に深い緑色の小さなメモ帳のような本が一冊足されていた。校則をまとめたものらしく、今年に変更された校則が多かったために印刷が遅れたのだそうだ。中をさっと見たところで生徒会や部活動、制服等について書かれていたがすべてを読む気にはなれなかった。長すぎる。最後の方を見ると第一七五条とかだ。こんな数百の校則を覚えるなんて不可能だろ。半分くらいは常識でカバーできるとして、この学校独特の校則は覚えれる気がしない。豊田先生だったかな、その可愛い美貌から「守らないとそれなりの処置が取られるから注意してください」とそんな淡々と言われても。
教科書に名前を書き、プリント類なども受け取って掃除になった。予想以上に多い校則についため息が出てしまった時、一人の女が声をかけてきた。
「あの、えっと、大泉…」
「春希です」
顔を見ると、その女の子はクラスメートだとわかった。小さめの襟のセーラー服に紅色のスカーフをきちんと結べている。女子の制服は着にくいと聞いたことはあるが、この人は割としっかり着こなしていた。
「あ、春希くんね」
「どうしたの?」
「あ、その、学校初日なのに溜め息ついてたから、大丈夫かな…って」
「あぁ、心配してくれてありがとう。でも、大丈夫だよ。あんまりにも校則が多いからさ」
「ならよかった。あたし、中上氷咲っていうの。自慢じゃないけど、校則、全部覚えてるよ」
「うん。って、えぇ?今なんて…」
「だから、中上氷咲だってば」
「いや、そのあと」
「校則全部覚えてるけど…」
「え、マジですかい」
「はい!マジです。ちなみに第六〇条くらいにマジとか超イケテルとかヤバイとかいう若者語を使ってはいけないって言う則があるから注意ね」
何だ?この人。監督生か?でも、中学に監督生がいるなんて聞いたことねえぞ。
「うぇ、マ…あー、本当ですか…。」
「あたし、春希くんを守るように言われてるから、これからもよろしくね!」
「ああ、わかったよ」
氷咲はそれじゃ!と言って足早に去ってしまったが、今僕を守るように言われてるとか言ってたような…一体どういう事だ?僕はそんなこと初めて聞いたぞ。大体、なんで守られなきゃならないんだ?ドッキリか、ドッキリなのか?いや、こんな初日で初対面にドッキリする奴なんていないぞ。それに…
「大泉くん、早く掃除場所に行こうね、君の場所はどこだっけ?」
いきなり声をかけられて驚いたが。豊田先生だった。
「あ、すいません。えっと、中央階段です」
「よろしい」
僕は雑巾を持ち、階段に向かう。僕はどうも嫌なことになっていきそうな気がしてならなかった。
下校時、またあの氷咲がハイテンション気味に話しかけてきた。
「やあー春希くん元気ないね、ほら、もっとシャキっとして。」
またこの人か。一体なんなんだ?妙に馴れ馴れしいし、校則全部覚えという並々ならぬ記憶力を持ってるし、それに、どうして僕なんか守るんだ。さっきも自問自答してたが、今訊いたほうがいいだろうか。どうだろうか。
「まだ馴染めないみたいで…」
「んー、まあ初日だし、仕方ないっか。で、春希くん今からどこへ行くの?」
「どこって、家だけど」
「え?家に来てくれるの?わーあたしもうちに来てほしいって誘うところだったの。春希くんって勘がいいのね。ちなみにあたしのうちは…今から案内するね」
おいおい、僕は家に行くとしか言ってないぞ。下校時に家に行くと言ったら自分の家に決まってるだろうが。さっきのセリフから氷咲の家に行くことへ繋げるなんて無理矢理過ぎる。それに恋人でもないのに女の家なんて行けねえよ。
「あのー、なんであなたのお家に…」
「えー!なんで?もしかしてあたしのうちに来たくない?嫌なの?嫌ならいいんだけど、その…」
「正直嫌というか初対面の女子の家に行くことに抵抗感があるんですけど」
「来なかったら、絶対、損するよ」
氷咲の声が急に小さくなる。
「え、なんて?」
「来ないと、損するよ」
「なんで損をするんだ」
確かにいろんな意味で得はするかもしれないが、行かなくたって損をすることはなじゃないか。それにデートしてるとか噂になってもらっては今後の学校生活に支障が出る。
「それは…ここでは言えない」
「なんでさ」
「と、とにかく来て!」
強引に腕ごと引っ張られた。こいつ意外と力が…
「あー、いて、い、い痛えよ」
氷咲は黙ったまま真剣な顔をしている。マジなのか。わからないけど、力を抜いてその方向に引っ張られることにした。
やがて学校の敷地から出た。途中からは一緒に走っているような感じだったが、敷地から出た途端に氷咲が止まるもんだから体が追突しそうになった。急に止まるな急に。
「はあ、一体なんなんだ?」
「ごめんなさい、今言うね。この喜瀬尾中学校の敷地内には無数の無指向性マイクロマイクが設置されていて、そのデータは全て職員室に送られて常に録音されているの。だから、敷地内では不用意になんでも喋るとまずいの。」
「えっと…」
「あ、ごめんごめん。つまり、敷地内の声はすべて誰かが聞いているってことよ」
それはいくら暴言がダメだったり嘘がいけなかったりするからってやり過ぎだろ。プライバシーというのはないのか。
「それだと確かに喋りづらいな。それで、その喋るとまずかったことって言うのは何だ?」
「それは…」
氷咲はここでもまた家に来いと言い出した。人が多いから言いにくいんだそうだ。そんなに大事なのかい、こんなに…ちょっと過剰だけど平和そうな学校になにかあるとは思えないし、僕は誰かに狙われるような人でもない。
「やっぱりお願い!春希くんのためなの!あたしのうちに来て」
そんなセリフ言われると断れなくなるじゃないか。おまけに頭を最敬礼の位置まで下げてきやがった。周りの視線がこっちに集まってるぞ。やめてくれ。僕が謝らせているみたいだからやめてください。
「あーわかったわかった行くから」
「ほんと!?ありがとー」
氷咲は途端に明るくなってこっちこっちーと指さしながら歩き出した。なんだかんだで家に行くことになってしまった。僕の親は共働きで、先に帰ってくる母も帰ってくる七時くらいだから、それまで行動は自由だ。どこ寄り道してたの?なんて問い詰められることはない。ある意味幸運か。