拝啓、天国のおばあちゃんへ
「俺じゃねえ! 俺は何もやってなんかいねぇんだ! この縄を解きやがれ!」
矢口組の屋敷内にある地下倉庫で、男の悲痛な叫び声が響き渡った。
男は自分の手足を縛り上げるロープを憎憎しげに見つめながら、必死に逃れようともがいている。だが、きつく縛られたそのロープは、生半可な力では解けそうにも無い。それでも男は、無駄だと分かっていながらも渾身の力を込めて身をよじらせていた。
「うるせぇぞ銀二! そのやかましい口も塞がれたいのか? こうなった以上おめぇはもう終わりだよ。諦めて大人しくしていやがれ!」
つい昨日まで、銀二の顔色をうかがいへつらっていた下っ端どもが、手の平を返したように態度を豹変させている。まぁ、あんな事があれば無理も無い話だが。
「てめぇら、この俺様をこんな目に会わせて後でどうなるか分かってんのか? ぶっ殺されてぇのか、コラアッ!」
「へっ、殺せるもんなら殺してみろよ。まぁ無理だろうけどな。明日の今頃のお前は、海の底なんだから、よっ!」
下っ端の一人が、身動きの取れない銀二の鳩尾に蹴りを食らわせる。さらに、悶絶している銀二の顔にペッとツバを吐きかけた。
「くそがああああっ!」
銀二の怒りに満ちた叫び声が地下倉庫に響き渡る。だが、いくら叫んでも身動きの取れない銀二は全くの無力だ。下っ端どもは、ニヤニヤと馬鹿にしたような笑みを浮かべ、身動きの取れない銀二を蹴り続けた。
一通り叫んで暴れきった銀二は、いい加減体力が尽きたようでガックリと項垂れた。
ちくしょう……なんでこんな事になっちまったんだ。俺はこんな所でモタモタしている時間は無いって言うのに。今すぐにでもお嬢様を助けにいかなくちゃならないって言うのに……。
自分にこれから起こるであろう絶望の未来よりも、銀二は誘拐されたお嬢様の事が気がかりだった。見知らぬ場所で、捕まっているお嬢様の事を想うと、先程蹴られた鳩尾よりも胸が痛くなる。早く助けに行ってお嬢様を安心させたい。銀二の心は彼女の事で一杯だった。
そんな彼の脳裏に、一人の人物の姿が割り込むように入ってきた。その姿を想像した銀二の腹の底に、マグマのように熱い怒りが込み上がって来る。
……くそっ! あいつだ! あいつが余計な事を口走ったから、俺様はこんな目に会うんだ! あの野郎だけは、絶対に許さねぇ!
怒りの表情を浮かべ、ギリギリと歯軋りをする銀二の脳裏には、つい先程の大広間で行われたやりとりが浮かんでいた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
銀二は内心焦っていた。まさか、天音を休ませていた部屋でボヤ騒ぎが起きるなんて思ってもいなかったからだ。
そもそも、今回のお嬢様の捜索について銀二は組長から任命を受けていない。当然、天音を連れてきた事も組の連中には内緒にしてあった。この事を知っているのは、今のところ氷室だけだが、あいつは俺といがみ合っていたとしても、組長にチクるようなケチな真似をするような男じゃない。恐らく奴の口からは漏れる事は無いだろうと銀二は高をくくっていたのだ。
だが、あれだけ派手にやらかしてしまったら、流石に隠し通すのは無理だった。あの後、すぐに現場に他の組員達が現れ、その場に居た銀二と天音達は拘束されてしまったのだ。
そして、その横に座る天音は今度こそ死を覚悟していた。
天音達は今、最初に通されたあの六十畳程もある例の大広間に居た。ただ、先程とは違い、今はそれ程広さを感じない。何故ならば、そこには何十人もの黒いスーツに身を包んだ怖い人たちが恐ろしい形相で天音を睨み付け立ち並んでいたからだ。その怖い人たちの中心に、天音は正座で座らされていた。
関東指定暴力団矢口組の家に不法侵入し、池で飼われていた組長お気に入りの錦鯉を盗み出そうとし、挙句の果てに放火して逃亡しようとした。それが天音に今現在かけられている容疑だった。本当は、銀二達に無理やり拉致られ、その銀二に池に放り投げられた挙句、正体不明の言霊士に焼き殺されそうになった、と言うのが実情なのだが当然の如く誰一人として信じてくれる者は居なかった。
周囲から撒き散らされる怒号の嵐の中、天音の心は不思議に落ち着いていた。その心は、死刑判決が決まっている裁判で、ただ結果を待つだけの被告人のようであった。どう考えても、もはや脱出不可能、絶体絶命。こうなってしまった以上、自分に出来る事は天に祈る事ぐらいだった。
天国のおばあちゃん、天音はもうすぐそっちに行くからね……。
手を組み目を瞑った天音は、天に向かって黙祷を捧げ始めた。