結
「あのね、私転校するの」
それは、あまりにも突然の出来事だった。
夕陽に照らされ、静けさを纏った帰路の途中、由依は確かにそう言った。
驚きのあまり、言葉がつっかえて出てこなかった。
紡いだ糸がちぎれてしまいそうな、そんな恐怖と焦りが全身を駆け巡る。
気づけば、心無い言葉を彼女にぶつけている自分がいた。
詰問する私に彼女は怯み、その表情には悲しみが滲んでいた。
けれど私を見つめる瞳は、それを当たり前のことのように受け入れ、何も言い返そうとはしなかった。
伝えるべき言葉はあったはずなのに、選ぶべき言葉が分からなかった。
心に蟠りを残したまま、黙り込んだ彼女を置き去りに、私は逃げるように家へと走った。
今日は学校に行かなかった。
ずっと言い出せずにいた転校の話を、唐突に口にしてしまった手前、彼女に合わせる顔がなかった。
幼い頃に母親を亡くし、父の転勤に伴って学校を転々としてきた。
友達を作る術すら身につかないまま、気づけば中学二年生。
人付き合いが苦手な上に臆病で、そのせいか、いじめに遭うことも珍しくはなかった。
学校に行けば後ろ指を指され、家に帰っても誰もいない。
真っ暗な空間に自分から溶け込んでいくように、私は生きる意味を失っていた。
そんな一年前のある日、転校してきたばかりの学校で、クラスメイトからの嫌がらせをを受けていた私に、手を差し伸べてくれたのは、知世だった。
彼女は私の手を引いて、真新しい所でも、煌びやかな所でもない、ただ穏やかで静かな場所へ連れ出してくれた。
彼女にとって、それが同情だろうとなんでも良かった。
彼女といられるなら、それだけで良かった。
夕陽が沈んで空が宵闇に包まれ、視界は奪われていく。
彼女の怒りを覚えた表情が、今も脳裏に焼き付いて離れない。
紡いだ糸を自分で切ってしまいたくなかった。
決して隠していたわけじゃない、ただ——。
ベッドの上で蹲っていると、突然、インターホンが鳴った。
居留守を装っても、その音は一向に鳴り止まない。
仕方なくベッドから降り、玄関の扉を開けると、そこにいたのは知世だった。
ゆっくりと開いた扉の隙間から覗いた顔と目が合う。
その目には確かに驚きが浮かんでいた。
私は彼女の目をまっすぐ見つめ「どうして学校に来なかったの」と尋ねた。
彼女は後ろめたい表情で俯く。
何も話そうとしない彼女の背後には、明かりひとつ灯っていない、黒々とした家の中が広がっていた。
一日中、電気も付けずに過ごしていたのだろうか。
俯いたままの彼女を横目に、私はそっと部屋の様子を伺っていた。
すると彼女は、躊躇いながらそっと口を開きかけた。
私は、その言葉をじっと待った。
「……ごめんなさい」
今にも泣きそうな顔をして、彼女はそう答えた。
他人から何をされても、どんな言葉で罵られても、顔色ひとつ変えなかった彼女のそんな表情を、私は初めて見た。
それが少し嬉しいとも思ってしまう。
弛んで落ちてゆく糸を捕まえるように、震える彼女の手を取り、気づけば走り出していた。
「どこへ行くの?」
何も言わずに私の手を引いて走り続ける彼女に、息を切らしながら問う。
「いいところ」
私に背を向けたまま、彼女は淡々と、それでいてどこか楽しそうに答えた。
空は思っていたよりもまだ明るく、青色に染まった景色は、まるで海に沈んだ町のように見えた。
それは、静寂ではない静けさ。
心地よい音と風が私の体を軽くしてゆく。
静かなところへ連れ出してくれる彼女が好きだ。
その強く逞しい背中にどこまでもついて行きたくなる。
だから、その手を離さないでいて欲しかった。
離したくなかった。
「転校したくないよう……」
秘めた感情と共に溢れ出す涙が、前を走る彼女の姿を滲ませる。
彼女はいつだって、私の硬い表情を和らげてくれる。
彼女といると、辛さだってかすり傷に思える。
彼女がいると、真っ暗な世界が、少し色付いて見えるんだ。
この町を出て遠く離れてしまったら、もうこの手を掴んではくれない。
私には、この世界を去る勇気がない。
きっと憂鬱な日々の中、彼女を探し続けるだろう。
絡まった糸を解くこともなく、切れてしまった先を、また繋げようと必死になる。
そうして、彼女がいなくても生きてしまえるのが怖い。
そんな世界、生きていたくないのに。
涙を必死に拭い、手を引かれるまま、走り続ける。
彼女が見せてくれる最後の景色——その期待を胸に抱いて。
ゆっくりと暗さを増してゆく町の風景を、目に焼き付けるように、彼女は静かに見つめている。
そんな彼女に、私は強く伝えた。
「見つけてあげるから」
彼女は静かに視線をこちらに移し、期待を含みつつも、やはりどこか悲しげな表情で私を見つめた。
「どれだけ世界が広くても、また私が見つけてあげるから」
溢れ出す涙を気にすることなく、私の言葉を噛み締めるように、ただ静かに聞いている。
「だから、大丈夫」
もしも彼女が私の顔を忘れてしまっても、私の声を思い出せなくなってしまっても、それでもいい。
また会えると信じている。
どこにいたって、私がまた見つけるから。
離れてしまっても、一人じゃないよ。
あの時、本当は、そう言ってあげたかったんだ。
泣きじゃくる彼女の手を、私は強く握りしめた。
汗ばむ掌の感覚と、強く繋いだ痛み、何よりも大切に紡いだ糸を、決して忘れないと誓って。
こんなにも壮大な世界で、手を取り合って生きていたい人がいる。
心を結ぶ糸。
今にも切れてしまいそうなほどに柔く、脆くても、必死に繋いでいたい、決して途切れさせたりしない。
ありふれた幸せよりも、儚く美しいと思えるものを大事にしていたいから。