97.とびきり
当然、その顔のままでは誰も家に帰ることはできない。グローリアがユーニスを呼ぶと絶句したユーニスが「皆様お泊りでよろしいですね?」と有無を言わさず全員の顔に氷水で冷やした布を押し付けて部屋を出て行った。戻って来たユーニスに今度は湯気の上がる蒸しタオルを渡され、ユーニスに促されるまま交互に当てているうちに各家から了承の返事と土産と宿泊用具が届けられた。
「もういっそ各家に一式置いておく?」
「それも良いかもしれませんわね」
「ぜひウィンター商会にお任せください」
「えええ!お泊りセットですか!?」
「あの肌触りの良いハンカチと軟膏と落ちにくい化粧品も合わせてよ!」
幸いなことに氷水と蒸しタオルと軟膏が良く効いたようで翌日には少し目元に赤味が残ったものの化粧ですっかり隠せる程度になっていた。「これ良いわね…ドロシア、ひとつうちにも頼める?」とモニカから軟膏の注文が入っていた。もちろん、グローリアも注文したが。
その日は皆予定があったため朝食後に早々に解散となったのだが、「明日、何かあれば必ず呼べ」と三人三様、釘を刺して帰って行った。
翌日。まだグローリアの心は揺れたままだったが自分で恐れていたよりもずっと落ち着いていた。もしも無理だと感じたら三日ほど体調不良になろうかと思っていたのだが、これなら行けると判断した。母にも二日ほど腹痛を起こしてみないかと聞かれたがグローリアは「大丈夫ですわ」と苦笑した。
午後のお茶の時間の少し前、イーグルトン公爵家の応接室に入り呼吸を整えていると間を置かずして扉を叩く音がした。
「失礼いたします。ベンジャミン・フェネリーでございます。グローリア様をお迎えに上がりました」
「ベンジャミン様!」
がちゃりと扉を開ければ青灰の瞳が頭ひとつより上から優しくグローリアを見下ろしている。
「ごきげんよう、グローリア様。ご自身で開けてはいけませんよ。もう、よろしいのですか?」
「ごきげんようベンジャミン様!わたくし思ったよりも肝が太いようですわ」
危ないですよと苦笑するベンジャミンに、グローリアの笑みが深くなる。その様子に呆れたように眉を下げるとベンジャミンが手を差し伸べた。グローリアが迷わずその手に自らの手を重ねると、ベンジャミンはまた小さくため息を吐いて微笑んだ。
「グローリア様のそれは肝が太いのではなく慈悲深いのですよ」
「まあ、ベンジャミン様にかかるとわたくし、とても素晴らしい人間になった気になりますわ」
「俺がそう言ってますからね」
「まぁ、ふふふ」
久々に見るベンジャミンの穏やかな笑みにグローリアの心が浮上する。やはり帰ろうかと落ち着かなかった思考が、何とかなる、に書き換わる。少し手を引かれ、グローリアは後ろで見守っていたユーニスに頷き扉を閉めた。
「グローリア様」
「なんですの?」
「本当によろしいのですか?」
再度ベンジャミンが静かに言った。今ならまだ戻れますよ?と扉へ視線を送る。
「まぁ………ふふふ、本当にベンジャミン様は何でもお見通しですのね」
「グローリア様のことですからね」
分かりますよとベンジャミンは頷いた。そのまま歩き出そうとしないベンジャミンを見上げ、グローリアは笑顔を作ろうとして、やめた。
「もう………大丈夫ですわベンジャミン様、わたくしは大丈夫」
「まったく…困った人ですね、あなたも」
貴族的に笑顔を作ってみたところでベンジャミンには見抜かれる。それならば周囲に誰もいない今、正直に感情を見せても同じことだ。本当に困ったように笑っているベンジャミンをじっと見つめると、グローリアは言った。
「ねえ、ベンジャミン様」
「なんでしょう?」
「お伺いしたいことがございますのよ」
「そうですか、今が良いですか?後が良いですか?」
あっさりと頷いたベンジャミンにグローリアはぱちぱちと瞬いた。
「あら、答えてくださいますのね?」
「内容次第ですがたぶん答えますよ」
にっと口角を上げたベンジャミンにグローリアも釣られて笑う。
「では、執務室にうかがった後でお聞かせくださいませ」
「承知しました。頑張ったらご褒美で俺の口が軽くなるかもしれませんね」
「まぁ!わたくしとっても頑張りますわ!!」
「ええ、頑張ってくださいね」
そっと優しく手を引かれグローリアもゆっくりと歩き出す。イーグルトン公爵家の応接室は騎士棟と比べれば王弟執務室からさほど離れていない。ほんの少し世間話をするだけでもあっさりと到着してしまう。
「さて、到着です。覚悟はよろしいですか?」
まだ戻れますよ?と言外に言うベンジャミンにグローリアは眉を下げて笑う。モニカたちもグローリアに甘いがベンジャミンもたいがいだ。
「ええ、もちろんですわ」
「そうですか。では、参りましょうか」
こん、ここん!とリズムよく扉を叩くとベンジャミンは返事を待たずにがちゃりと開けた。
「お連れしましたよ」
ベンジャミンに手を引かれグローリアが緊張しつつも扉をくぐると目の前に栗色が飛び出してきた。
「グローリア様!!お会いしたかったです!!」
今日も耳と尻尾が見えそうなアンソニーがにこにことグローリアの視界を塞いだ。驚きに、心に広がりかけたもやが霧散する。
「ごきげんよう、アニー様。わたくしもお会いしたかったですわ」
軽くカーテシーをすると横から低い声が聞こえた。今日は扉の内側に控えていたらしい。
「ようこそ」
「ジェサイア様、ありがとうございます」
グローリアがジェサイアにも軽く膝を折るとアンソニーの向こうから不機嫌そうな声が聞こえた。
「おいお前ら、まず俺からじゃないのかよ」
執務机に座っているだろうその人の声にアンソニーがくるりと振り向いた。アンソニーの背で見えないままであることにほっとする。
「良いじゃないですか順番なんて!僕らみんな嬉しいんですから!!っていうか、レオ様のせいですからね、僕らがグローリア様に会えなかったの!!」
「いや、また会えるようになったのも俺のお陰じゃ」
「グローリア様、どうぞこちらへ」
何かを言いかけた王弟殿下を遮るようにベンジャミンがグローリアの手をそっと引いた。導かれるままに部屋の中へと入ると応接テーブルに美しいティーセットとお菓子が並んでいる。
ちらりと執務机の方を見ると、いつの間に移動したのかアンソニーが王弟殿下の陰に被るように立ってにこにこと微笑んでいる。
「まぁ……ありがとうございますベンジャミン様。素敵ですわね!」
「グローリア様がとびきりをご所望でしたからね、俺も頑張りましたよ」
にっこりと笑いグローリアをソファへと座らせたベンジャミンに、アンソニーが目を丸くした。
「あ!ベンジャミンさんが俺って言ってる!!」
「ええ、そうです。ね、グローリア様」
「ふふふ、はい、ベンジャミン様」
ベンジャミンの一人称が『俺』であることは執務室内でも珍しいらしい。グローリアは少しだけくすぐったい思いがした。
「おいこら」
「こちらの焼き菓子にはこちらのクリームをつけて召し上がってくださいね。ジャムは三種類ご用意しておりますよ。温かいうちにどうぞ」
また王弟殿下が何かを言おうとするがベンジャミンがグローリアの前に焼き菓子をすっと差し出し遮った。ふわりと小麦とバターの良い香りが漂う。焼きたてのスコーンだ。狼の口がしっかりと開いている。
「これ!この赤いのはうちの領地の今年の新作のジャムですよ!!クリームにもとっても合うんです!!」
「まぁ……なんて美しいのでしょう。食べるのがもったいないくらいですわ」
嬉しそうに説明してくれるアンソニーにグローリアがにこにこと笑っていると、ついに王弟殿下の声が低くなった。
「……拗ねるぞ」
「もう拗ねてるじゃないですかレオ様」
「分かってるなら少しくらい俺の方を向け」
「だそうですよ、グローリア様」
アンソニーのきらきらが一気に鳴りを潜めこちらも不機嫌そうに声が低くなる。今日も安定の王弟殿下仕様だ。
「わたくし、温かいうちにこの焼き菓子をいただきたいわ……」
いまだ王弟殿下と真っ直ぐに向き合うのは気が引ける。それにスコーンは温かいうちが一番なのだ。冷めると風味が落ちてしまう。グローリアが眉を下げて悲しそうに焼き菓子を見つめると、王弟殿下が観念したように執務机から立ち上がった。
「だあああ、分かったよ!俺がそっち行く!!」
「そうしてくださいまし殿下、ごきげんよう」




