87.困った人
「殿下」
「なんだ?」
「近々うかがいますわ。ベンジャミン様のお茶も恋しいですし」
ほんの少しベンジャミンを強調すると案の定、王弟殿下は少し不機嫌になった。むっとした顔で花壇の方を向き、拗ねたような声で言った。
「そうかよ……言っとく」
「ええ、とびきり美味しいお菓子も期待しておりますとベンジャミン様にお伝えくださいまし」
「……言っとく」
むっつりと口を引き結ぶ王弟殿下に様々なことが腑に落ちたグローリアは小さく肩を落としまた嘆息した。
自分はグローリアに駄目だ無理だと言うくせにグローリアが他者に目を向ければ拗ねる。とんだ駄々っ子だ。
騎士棟でとっさに手を掴んだのも恐らくグローリアがフォルカーの手を取ろうとしていたからだ。茶会でやたらとくっついていたのはまさかとは思うがジャーヴィスがグローリアの手を取っていたからか。
「殿下。困るのは殿下ですわよ……」
グローリアがため息とともに呟くと、王弟殿下はグローリアを振り向き「ん?何がだ?」と首を傾げた。
グローリアは更に嘆息した。まさか駆け引きですらないただの無自覚なのだろうか。
自覚したばかりのグローリアが言えたことでは無いのだが、本人の自覚と理性と感情と行動が正しく一致していないというのは、向けられる側は振り回されて何とも迷惑なことだと思う。
もしも自覚した上でこの振る舞いならば艶っぽい噂も全て納得というものだ。グローリアなど良いように転がされて終わりだろう。その時はそれで仕方が無い。
ベンジャミンの言動にも納得がいく。気付いてしまえば色々なところに手がかりは沢山あったではないか。
「いえ、何でもございませんわ」
駄目だというのは、グローリアを伴侶にしたくないというよりも伴侶にしては文字通り何かが駄目なのだろう。それが政治的な話なのか他の事情なのかは今のグローリアには分からない。ただ、グローリアが取るべき方針は固まった。
「殿下にもしばらくお会いできませんでしたから……お時間さえあれば、ぜひ」
グローリアが王弟殿下を見上げて眉を下げ眩しそうに微笑めば、ぱっと王弟殿下の機嫌が直る。
「あーっと、あれだ。予定確認して、すぐ連絡するから」
王弟殿下は決して容易い人では無い、むしろ本来は読めない人だろう。けれどグローリアという存在は王弟殿下を目に見えるほどはっきりと揺らすことができるのだ。
気付いてしまえばグローリアを苛む胸の痛みもまたある種の愉悦に変わる。愛しいとすら思えるのだから恋とは実に如何ともしがたい。
――――仕方がありませんわね。本当に、困ったお方。
ふわりと、柔らかな風がグローリアの淡い金の髪を揺らす。少し目を細めた王弟殿下の濃紫の瞳を真っ直ぐに見つめ、グローリアはその心のままに微笑んだ。
「はい殿下、お待ちしておりますわ」
ふと視界に映る王弟殿下の陰に違和感を感じて執務棟を見ると窓からちらほらとろうそくの明かりが見える。日が暮れ始めたのだ。王弟殿下も気づいたようで「あー…」と銀の髪をぐしゃりとかきあげた。
「グローリア」
「はい」
「送ってく」
すっと目の前に手が差し出された。ここまでただ並んで歩いただけだったのに、ここからはエスコートをしてくれるらしい。
「モニカに睨まれますわよ?」
「モニカだけで済めばありがたいぐらいだろうよ」
「ふふふ、わたくし皆様に愛されておりますのよ」
「知ってる。それでもお前をひとりで行かせる気はない」
苦笑したグローリアに、王弟殿下は早く掴めとばかりに手をぐっとグローリアに近づけた。グローリアが仕方が無いとその手に手を重ねれば王弟殿下は満足げに笑いきゅっと、軽く手を握った。
どちらからともなく歩き出す。ふと見れば執務棟の回廊も慌ただしさを増している。そろそろ文官の定時の時間なのだろう。思ったよりも長居をしてしまったようだ。
「殿下、それほど支えずとも王宮内ですわよ」
「王宮内で倒れたお前が言うな」
婚約関係でも家族でもない者がするには少々近いエスコートにグローリアが半歩離れれば、王弟殿下が不機嫌そうに半歩近づいた。茶会の時のように腰でもさらわれようものなら洒落にならないのでグローリアはこの距離で諦めることにした。
「セオドアが来てくれましたもの」
ため息を吐きつつグローリアが言うと王弟殿下が更に不機嫌になる。
「気に食わない」
「次は殿下が来てくださいませ」
「そこは倒れるな。だが、必ず行く」
むっつりと不機嫌そうに眉根にしわを寄せる王弟殿下を「必ずですよ?」とグローリアが少し覗き込み見上げれば、王弟殿下がくすぐったそうに「おう」と笑った。
グローリアに合わせて歩みはゆっくりだが、それでも歩いてさえいればいずれは目的地に着いてしまう。執務棟から応接室が並ぶ区域へと入りあと扉二つでティンバーレイク公爵家の応接室だ。
「殿下、こちらで十分ですわ」
グローリアが立ちどまり手を離そうとすると、王弟殿下がきゅっとグローリアの手を握った。軽い力で握られているはずなのに全く手を抜くことができない。
「だがグローリア」
「殿下にはほんの数歩ですわ。手の届く範囲でございましょう?」
グローリアの淑女らしい歩みには数十歩だが、王弟殿下の長い脚ならば十歩すらかからないだろう。万が一何かあってもすぐにグローリアの手を掴める距離だ。それでも納得がいかないのか、グローリアの手を握ったまま渋る王弟殿下の手を両手でそっと包み込み、グローリアは「殿下」と柔らかく微笑んだ。
「はぁ、分かった。……グローリア」
「はい」
「また、な?」
寂しそうに、名残を惜しむようにグローリアの手をゆっくりと離すと、王弟殿下はグローリアの頬を指の背で上下にそっとなぞった。
王弟殿下は本当にグローリアをどうしたいのだろう。これではまるで一日の終わりを惜しむ恋人同士では無いか。
――――本当に、どうしようもなく困った人。
グローリアが会いに来なかったこの一ヶ月で、どうも王弟殿下のねじがひとつ、ふたつ飛んだらしい。
困った人ねと口にはせずにグローリアは微笑んだ。グローリアもまた王弟殿下の頬にそっと触れると、「また」と唇だけで呟いて踵を返した。
後ろから自分を見つめる強い視線を感じながらもグローリアはゆっくりと、何事も無かったように歩いていく。手が震えていることを王弟殿下に気づかれなかっただろうか。
体中が熱い。目が潤む。今にも叫び出しそうだ。一目散に走り去りたい気持ちを何とか抑えつける。今のグローリアは耳どころかきっと指の先から頭の先まで全身真っ赤に染まっているはずだ。
痛いほどに脈打つ心臓を密かに抑え、よくぞぎりぎり耐え切ったと、グローリアは自分自身を褒め称えた。




