85.お人好し
「もう……お人好し!」
アレクシアを見送った後、モニカがすたすたとグローリアの元まで来るとぷにっとグローリアの鼻を人差し指で押した。衆目があるせいでこの程度で許されたのだろう。周囲から見て公女同士の戯れとしてどうなのかはひとまず置いておく。
「お許しくださいましモニカ。わたくしやはり、うまく怒れませんわ」
「知ってるわよ。まあいいわ、今日はわたくしたちも一緒にいたから言うべきは言ったもの」
「ええ、ありがとう」
肩を竦めるモニカにグローリアは微笑んだ。無事にアレクシアとの話を済ませることができほっとしたグローリアは、ずっと握ったままだった左手のテディ・フロッグと手首のリボンを思い出した。ぱっと振り返ればサリーとセオドアが慎ましい距離を保って寄り添い心配そうにグローリアを見つめていた。
「セオドア」
「はは、はい!?」
「大丈夫よ」
グローリアは苦笑した。サリーから受け取ったクッキーを持つ手とは反対の手。その手に握られたぬいぐるみが入っていた袋がぐしゃりと握りつぶされている。
グローリアがとんとん、とテディ・フロッグの頭を指でつついて見せるとセオドアはやっと自分が袋を持ったまま手を握り締めていたことに気づいたようで「あっ」と手を開いて袋を見た。あの袋に気の毒なぬいぐるみが残っていなかったことを祈るばかりだ。
「えっと、あの、すいません」
「いいえ、ありがとう」
照れくさそうに肩を丸めたセオドアにグローリアは微笑んだ。
セオドアは倒れたグローリアを直接見ている。それどころか運んでくれたのがセオドアだ。グローリアの弱音を唯一聞いていたセオドアはどこかで何かを小耳に挟んだのか、アレクシアとのやり取りで何か思うところがあったのか、かなり心配してくれたのだろう。大きな手のひらを握り締めていることに気づかぬほどに。それでもサリーの箱を握りつぶさなかったのはさすがだ。
「サリー、泣かないでちょうだい」
「グローリア様ぁ……」
サリーがへにゃりと表情を崩した。
「違うのです、グローリア様があまりにも美しくて……」
「そこなの?」
頬を染めて震えながらこくこくと何度も頷くサリーに困惑してドロシアを見ると、ドロシアも「画家を忘れてきましたね」と口角を上げた。
隣に気配を感じ振り向くとフォルカーが微笑み手を差し出していた。
「観覧されますか?」
観覧するのなら階段をエスコートしてくれるということだろう。グローリアは少し考えるとテディ・フロッグを右手に持ち替えフォルカーを見上げた。
「そうですわね、少し疲れましたけれど」
「グローリア」
参りましょうか、とフォルカーの手を取ろうとしたグローリアの手を誰かが横から掴んだ。掴まれた左手の、手首のリボンがひらりと揺れる。
グローリアを呼ぶずいぶんと聞きなれた声に恐る恐る振り向くと、まだ会いたくないと願っていた濃紫の瞳と目が合った。
「殿下………」
いつの間にそこに居たのか、王弟殿下が思いの外近い距離でグローリアを見つめていた。
着衣が若干乱れているのはいつものことだが、少し息も上がっているように見える。まさか執務室から王宮の中をここまで走って来たのだろうか。いや、せめて速足であったと願いたい。
フォルカーが一歩下がり礼の形をとった。軽く目礼をしたベルトルト以外の皆がはっとしたように王族に対する礼をとり頭を下げた。
「王弟殿下にご挨拶申し上げます。本日イーグルトン公女はわたくしたちとの先約がございますのでお控えいただけますと幸いです。……手を、お放しください」
モニカが礼をとりつつ低い声できっぱりと言った。衆目のある中で今の状況は芳しくない。声は聞こえないだろうがグローリアの手が掴まれているのは見えているだろう。
「顔を上げてくれ。分かってるモニカ。グローリア、少しで良い、話せないか?」
モニカに頷くとすぐにグローリアに向き直り王弟殿下が眉を下げた。手を離すつもりは無いらしい。どうするべきかグローリアが唇を引き結び目を泳がせているとモニカが更に声を低くして唸るように言った。
「…お兄様、その手を今すぐ放して。グローリアに甘えるのもいい加減にして!」
「モニカ、落ち着いて」
モニカの表情が険しくなり、言葉も公ではないものに変わってしまっている。ベルトルトがとっさに肩を引き寄せ周囲から隠すが、モニカの目はまっすぐに王弟殿下を睨んだままだ。
掴まれたままの手を困ったように見つめつつ、グローリアは小さくため息を吐いた。
「承知いたしましたわ、殿下」
「グローリア!?」
「グローリア様!!」
グローリアが王弟殿下を見て頷き了承の意を伝えると、王弟殿下の顔がとたんにほっとしたように緩んだ。
反対にモニカとサリーが悲鳴のような声を上げ、ドロシアが一歩前に出た。ぐしゃりと、セオドアの手の中の袋がまた音を立てた。
「駄目ですわ、こんなところで不敬を重ねては。安心なさって、ほんの少しだけお話をしてまいりますわ。皆様は観覧なさいます?帰られますか?」
グローリアが柔らかく微笑むとまたモニカが「このお人好し!」と舌打ちをしそうに小さく呟き、大きなため息をついて首を横に振った。
「こんな気持ちじゃ観覧どころじゃないわよ……ティンバーレイクの応接室にいるわ。待ってるわよグローリア」
「ええ、モニカ。わたくしは大丈夫」
グローリアは掴まれたままの左手を上げるとゆらゆらと揺らして見せた。揃いのリボンがひらりひらりと舞う。大丈夫、グローリアはひとりではないから。
「お兄様」
モニカがグローリアの横に立ち、グローリアの手を掴む王弟殿下の手首を掴んだ。そうしてモニカは王弟殿下をきっと睨みつけた。
「モニカ、いけませんわ!」
許可なく王族の体に触れるなど不敬と切り捨てられても仕方が無い。いくら公女であり王弟殿下と親しいと目されているモニカでも公の場ではとても危険だ。
モニカは焦るグローリアにひとつ微笑むと、またすぐに王弟殿下を見据えて言った。
「これ以上はわたくしが……いえ、王国の天秤たるティンバーレイクが許さないわ」
「ああ、分かってる。すまん」
王弟殿下がグローリアの手を離すとモニカも王弟殿下の手首を離した。ほっとしてモニカを見ると、モニカは左手を上に上げてとんとん、と右手の人差し指でリボンに触れて優しく微笑んだ。
「グローリア様」
呼ばれて振り向くと、眉を下げたフォルカーがグローリアが詰めたクッキーの小箱を差し出した。
「持って行かれますか?」
「……ありがとう、フォルカー様。皆様、また後程」
グローリアは少しためらい頷くと箱を受け取り、それぞれの顔を見て微笑んだ。
「待ってるわよグローリア」
不安そうにグローリアを見たモニカにグローリアは静かに頷くと、皆に左手首のリボンを振って見せた。




