69.恋を失う
回廊をほんの少し王宮側へ戻るとすぐに、横にそれる少し細めの通路がある。そこを進むと重そうな扉があり、扉の前には常に騎士がふたり控えている。
「第三騎士団所属セオドア・ベイカーです。緊急時により第一騎士団カーティス・ラトリッジ卿より許可を得ております。通行許可をお願いいたします」
扉から少し離れた位置で止まるとセオドアが驚くほど滑らかに口上を述べる。グローリアたちと話す時とは全く違う、少しゆっくりではあるがはっきりとした声だった。
この扉から先は騎士団関係者か許可のあるもの以外は立ち入ることのできない区域。セオドアひとりであれば挨拶ひとつで扉は開かれるのだろうが、今は腕の中にグローリアがいる。
「目的は?」
「医務室です」
セオドアがちらりとグローリアに視線を落とす。セオドアのジャケットに埋もれ腕の中に囲われているグローリアには扉の様子はうかがいしれないが、カツカツという靴音と共にすぐそばに人の気配を感じた。
グローリアがセオドアの胸に伏せていた顔をそちらへ向けると、覗き込んでいた騎士がぎょっと目を見開き、慌てたようにすぐに離れた。今日の当番は青い制服、第二騎士団だ。
「……許可する。念のため後ほど第三とカーティス卿へは確認を入れる……急げよ」
「承知いたしました、ありがとうございます」
かちゃりと扉が開く音がしてまたグローリアの体が揺れ始めた。
「こ、公女様、もう少し我慢してくださいね、大丈夫ですからね」
いつも通り、少し上ずったような低い声がグローリアを気遣う。
「セオドア……?」
「はは、はい、ここに居ます!」
グローリアは今セオドアの腕の中に居るのだ。ここに居ますは無いだろうとグローリアはふふと力なく笑った。セオドアは変わらない。こんな時でもいつも通りグローリアの知るセオドア・ベイカーだ。大きくて温かいテディ・ベアの腕に抱かれ、じわりと、グローリアの眦に涙が滲んだ。
「あのね、セオドア。わたくし、わたくしであることに、とても疲れてしまったみたい……」
「公女様……」
ぐるぐると頭の中を様々なことが駆け巡る。十年前のこと、王弟殿下の婚約者、ジャーヴィスの卑劣な罪、美しい剣舞、アレクシアの侮り、ポーリーンの幸せそうな微笑、レナーテの馬鹿にしたような顔、ベンジャミンの気遣い、ジェサイアの覚悟、知らぬ者たちからの嘲笑、羨望、細やかな悪意、サリーの涙、ドロシアの怒り、モニカの笑顔、それから、それから……。
良いも悪いもない。とりとめもなく現れては消え混ざり合っていく。ただ流れる景色を眺めるようにぼんやりと思い出していたグローリアの頭に最後に浮かんできたのはレナーテを背に庇ったアレクシアと、それから、王弟殿下の拒絶。
「痛いわ……」
「痛いですか?」
「ええ、痛いのよ……」
痛くて痛くてたまらない。頭と腹の方がはっきりと強く痛むのに、何よりもその間、心臓の辺りの方が辛いのだ。ちりちりと、じくじくと。重く締め付けられるような痛みにグローリアはいっそ叫び出してしまいたかった。
グローリアを支えるセオドアの腕に、恐らくセオドアとしてはほんの少しだけ力が入った。その強さにグローリアはほっとする。今この支えを失ったら、グローリアは崩れて消えて無くなるかもしれない。
――――それも良いわね。
そんなことを思いグローリアはとっさに首を強く振った。
「公女様?」
セオドアの胸に顔を擦り付けることとなり、驚いたセオドアがグローリアを覗き込んだ。
「おお、お辛いのですか?」
つぶらな黒の瞳がずいぶんと近くでグローリアを心配そうに見つめている。表情にも、瞳の奥にも、セオドアの全てがグローリアが心配だと言っている。
「ねぇセオドア。恋って何?」
「こ!?こ、恋ですか!?」
あまりにも急なグローリアの問いにセオドアは目を丸くして瞬くと、「えー、あー?」と首をかしげて真剣に悩んでいる。
「おかしなことを言って、ごめんなさいね」
「いいえ、いいえ公女様。何もお、おかしくありません」
「そう…」
ゆらゆらと、グローリアの体が揺れる。「恋とは…?」と真剣に考えながらもセオドアの歩みは止まることが無い。
グローリアは恋を知らない。誰かを見つめる誰かの瞳にそれらしき色を見ることはあっても、グローリア自身にはその思いが分からない。
素敵な恋物語を読むこともある。悲惨な恋の結末を聞くこともある。苦しい思いを、なれの果てを、誰かの記憶をグローリアも知ることはある。でもそれだけだ。それだけ、だった。
「恋は、幸せ?」
「あ、はい。し、幸せもあると、思います」
ぽつりと呟いたグローリアに、セオドアは頷いた。
「恋は、苦しい?」
「う、く、苦しみも、あ、あると思います」
少し口ごもりながらもセオドアはまた頷いた。眉が困ったように下がっている。
「恋は、痛い?」
「痛みも、ああ、あると、思います」
独り言にも似たグローリアの呟きに、それでもセオドアはひとつひとつ丁寧に答えを返してくれる。
「恋って、何?」
もう一度繰り返したグローリアに、今度はゆっくりたどたどしく、セオドアらしい答えを返してくれた。
「分かり、ません…きっと、ひ、人それぞれで、そ、その時で、違うんだとお、思います」
「違う……」
「はい。えっとお、同じなのはきっと、い、嫌でも、目を…背けても、我慢しても、どど、どうしても、心が強く、う、動いてしまう、ことだとお、思います」
「そう、そうなのね……」
ゆらゆらと、セオドアに運ばれる心地よい揺れと懸命に答えを紡ぐ低い声に、グローリアの中でひとつの結論が生まれた。アレクシアへの思いと王弟殿下への思いの明確な違い。そして、この思いのそれぞれの名前。
――――恋を失ったという意味では、どちらもひとつの失恋かしらね。
アレクシアへの思いは恋ではない。そしてもうひとつは気づいた瞬間に失ってしまった。グローリアはすでに拒絶されている。この思いには先が無い。
「痛いわ……」
呟いたグローリアを、セオドアが腕の角度を変えて抱え直した。グローリアの顔がセオドアの胸に自然と埋まる。
「大丈夫ですよ、公女様。大丈夫です」
セオドアは詳しいことを聞こうともせず、医務室にたどり着くまでただただ大丈夫だと何度も何度も繰り返した。体越しに聞こえる低い声に、グローリアはセオドアの腕に揺られながら声を殺しほろほろと涙を流し続けた。




