64.好ましく思える人
「ベンジャミン様?どうされましたの?」
その表情はグローリアの中に残っていたもやを吹き飛ばすには十分で、グローリアは思わず前に出ると体ごとベンジャミンを振り返り見上げた。ベンジャミンはグローリアを見下ろし一度瞬くとゆっくりと言った。
「どうか、レオもその中に」
お願いです、と眉を下げ更にもう一度繰り返したベンジャミンに、グローリアは目を瞬くと苦笑した。
拒絶されたのはグローリアだ。それなのに目の前で弱り切ったような顔で懇願するのはグローリアを拒絶した男性の最側近。これではまるでグローリアが拒絶したかのようでは無いか。
「わたくしが入れませんのよ、ベンジャミン様」
苦笑いのままグローリアが首を横に振ると、ベンジャミンもまた真剣な顔で首を横に振った。
「いえ、それは無いです。断言します」
「殿下が駄目だと仰られたのに?」
「頑なに駄目だと言うからこそ断言できるのです」
胸に手を当て、だからお願いですと更に繰り返すベンジャミンに、グローリアは呆れを通り越し脱力して笑ってしまった。なるほどメイウェザーの彼が言うのだ、そういうこともあるのだろう。グローリアは仕方なくひとつ頷いた。
「複雑ですわね?」
グローリアがまた横に並び手を差し出すと、ベンジャミンがその手をそっと下から取った。どちらからともなくゆっくりと歩き出す。
「申し訳ありません」
詳しいことは言えませんと囁くように謝ったベンジャミンに、グローリアはまた苦笑した。
「謝らなくて良いと申しましたわ」
「すみませ、あー……」
しまった、とばかりにベンジャミンが口元に手を当てて押し黙った。苦虫を噛みつぶしたようにどんどんと顔が歪み視線が明後日の方を向いた。
「まぁ、ベンジャミン様を初めて言い負かしましたわ!!」
してやったりと笑うグローリアを振り向くとベンジャミンも降参とばかりに口元に当てていた手を上げて苦笑した。
ふっと、ベンジャミンの肩から力が抜けたように見えた。少し細い目を更に優しく細めると、ベンジャミンは困ったように微笑んだ。
「敵わないなぁ…あなたには、きっとずっと敵わない」
グローリアを見るベンジャミンの目は母を見る父の目に少しだけ似て。けれどグローリアを見る父の目にも、グローリアを見る兄たちの目にも、グローリアを見るユーニスの目にも似ている。けれど、どの目ともほんの少し違う。
ベンジャミンの目に確かな温もりを感じ、グローリアはぽつりと、誰にも言ったことの無い思いを口にした。
「そんなこと、ございませんわ。わたくしこそ、何もございませんもの」
「なぜそう思われるのです?」
優しい声音で促されグローリアはぽつり、ぽつりと続けた。
「わたくしは公女ですから、慕ってくださる方もそれなりにいらっしゃいますわ。ですが…イーグルトンではない、公女ではない、この血と容姿を失くしたただのグローリアにどれほどの価値があるのかと……」
グローリアの視線が下がる。ずっと思ってきたことだ。
グローリアは家柄に恵まれ、血筋に恵まれ、容姿に恵まれた。グローリアに向けられる好意的な目のほとんどがそのどれかに因るものだとグローリアは理解している。これらは何ひとつとしてグローリア自身の努力によるものでは無い。
贅沢な悩みだということは十分に理解しているし、考えても意味の無いことだと分かっている。どれも全てがグローリアの一部なのだから。家族やモニカたちに言ったらどれほど怒られるか分からない。
これは甘えだ。ベンジャミンならグローリアの望むとおりに受け止めてくれると、分かっているからこその甘え。それでも続けてしまうのは、きっと色々あり過ぎて、心が弱っているせいだ。
「だってわたくしは、わたくし自身は、選ばれませんもの」
ほんの少しの沈黙の後、ベンジャミンが静かに言った。
「………あなたをそんな風に思わせたのは、レオですか?」
エスコートの手に少しだけ力が入る。グローリアはそのことに今度は少しほっとした。
「いいえ、殿下だけではございませんわ。わたくしが十六年生きてきてそう思っただけのことです。わたくし自身が一番、この容姿とイーグルトンという肩書しか持たないことを存じておりますもの…」
グローリアは視線を下げたままで言った。何だか駄々をこねている気分になり、声がどんどんと小さくなってしまう。
「まったく……」
困った人たちばかりですねとため息混じりに笑うと、ベンジャミンはもう片方の手でエスコートしているグローリアの手をぽんぽんと安心させるように叩くと、しっかりと空けていた距離をほんの少しだけ縮めた。
「言っておきますが私は割と人に対する評価が辛いのですよ。妻に欲しい相手なんてそうそういないのですからね?」
「わたくしが殿下のお役に立つから、でございましょう?」
「あー、そうなってしまうのですね、これは失敗です」
ベンジャミンが大げさなほどに天を仰ぎ、ぺちりと片手を額に当てて首を横に振った。
「あのですね、グローリア様」
ベンジャミンは少しグローリアの方へ体を傾けた。いつもより近い体温にグローリアはときめきではなく安心を感じる。兄よりも兄らしいと言ったら、ふたりの兄はどんな顔をするだろう。
ベンジャミンはグローリアをじっと見ると、ほんの少し眉根を寄せ人差し指を立てて諭すように言った。
「俺は確かにメイウェザーなんで人生を賭けてるレオが一番です。だけど伴侶くらいは俺個人として好ましく思える人を選びたいんですよ」
「俺」
「そうです、俺が」
グローリアはぎょっとしてベンジャミンを見上げた。いつもより距離が近くベンジャミンが体を傾けている分顔が近いが、グローリアは気にせずベンジャミンを凝視した。
「意外ですわ」
「どれがです?」
「全部?」
一人称も距離感も、少し変わった口調も何もかもだ。特に口調と仕草が違う。いつもはおどける時以外はとても流れるように静かに優雅に動く印象だが、今は少し…そう、雑だ。動きも、話し方も。
「そうですか?俺が自分を『私』と言うようになったのはレオの側近になってからですよ。ここ五、六年です」
「そう、でしたのね……」
そういえば、ベンジャミンは王弟殿下の従者になる前は長い間騎士を目指していたと聞いた。フェネリーの一族ということもありずっと文官のイメージでいたが、意外と武官にも寄っているのか。
そのまま近い位置で見つめ合っていると、ベンジャミンがため息を吐きながらいつもの距離まで離れた。
「グローリア様はもう少しご自分を知った方が良いですよ。危なっかしくて仕方がないので」
警戒心が無いのか俺が警戒されないのか…ぶつぶつと言いながら首の後ろに手をやるベンジャミンを見上げ、グローリアは自然と笑いがこみあげるのを感じた。
「何だか、気が抜けましたわ」
「それは良かった。少しは俺もお役に立てましたか?」
「ベンジャミン様はいつだってわたくしの心をほぐすのがお上手ですわ」
「なるほど、レオより俺の方が可能性がありそうだ」
「まぁ!」
ちりちりとずきずきは思い返すたびに現れて消えてくれないが、少なくとももやもやは随分と減った気がする。可能性の話をするのならきっとベンジャミンが一番高い。
「さて。では俺としては名残惜しいですが到着ですよ」
「あら、いつの間に」
モニカたちと別れひとり王弟執務室へ行くと決まった時、家からユーニスを呼んでいた。いつの間にかグローリアの横には使用人の控室がある。
「ははは、楽しんでいただけたってことですかね」
「ええ、いつも」
にっと笑うベンジャミンを見上げ、グローリアもにっこりと笑った。いつだってベンジャミンはグローリアの心を軽くする。どこかの獅子とは正反対だ。
「またいらしてくださいね」
「ふふ、『必ず』」
「敵わないなぁ………」
ベンジャミンは眩しそうな顔で笑うとまたグローリアの手をぽんぽんと叩き、控室の扉をノックして口上を述べた。ほどなくしてユーニスが扉から出てくる。
「ベンジャミン・フェネリーと申します。グローリア様をお連れいたしました」
いつもの微笑といつもの口調でユーニスにグローリアの手を渡すと、ベンジャミンは「では」と優雅に一礼して踵を返した。
「……雰囲気勝ち?」
「ユーニスってば」
グローリアは口の悪い侍女に呆れたように笑った。いつかあなたの主になるかもしれないのよとはさすがに言わない。
「ところでグローリア様、その髪どうされました?」
いぶかしげに自分を見つめる侍女に、グローリアははたと気づいた。そういえば、朝家を出た時とはずいぶんと違う。
「……似合うでしょう?」
「ええ、とても似合っておりますけども」
前回はそれと分からぬよう、ほぼ元の形に戻してくれた。「これどうやって結ってるんです?すごいわ…」とユーニスにしげしげと観察されながら、執務室の前では飄々として見えてはいたが実はベンジャミンもかなり焦っていたのかもしれないと、グローリアはくすくすと笑ってしまった。




