63.グローリアの伴侶
「……怖いのですよ、レオは」
悲し気に眉を下げるベンジャミンに、グローリアは分かっている、と静かに頷いた。
初めて聞いた王弟殿下の過去。婚約者を、王弟殿下自身が大罪人の一族として裁かねばならなかった、その事実。きっと今日のグローリアがこんなにも聞き分けが無くなってしまうのはそれを聞いてしまったからだ。
「ええ、理解いたしますわ」
「もう少しだけお時間をいただけませんか?」
「あら、令嬢の花の時間は短くてよ?」
またもつん!とグローリアはそっぽを向いた。ベンジャミンはそんなグローリアの手を少しだけ引き寄せ覗き込むとにやりと笑う。
「いざとなれば私がいます」
「伯爵以上でなくては駄目よ?」
グローリアの伴侶となるには今のベンジャミンでは足りない。
実家が伯爵家では本来弱いがそれは良い。フェネリーは少々特殊な家なので、表の爵位は伯爵家でも周囲は侯爵家くらいの認識をしている。それに、グローリアが強く望んでいると言えば多少のことには目が瞑られるだろう。
世間的な立場としても問題はない。王弟殿下の最側近であり、自他ともに認める王弟殿下のお目付け役。誰ひとりとして代わることのできない役割であり、大臣並とは言わないが間違いなく役職付きくらいの評価はある。
問題はベンジャミン自身だ。王弟殿下の側近として子爵位を賜ってはいるがそれでは足りない。王位継承権を持つグローリアを娶ろうと思えばまず本人が最低でも伯爵以上でなければいけない。
「レオの婚約が決まり次第陞爵ですよ」
ベンジャミンが事も無げにさらりと言った。
「色々面倒なので断って来ましたがフェネリーの分家を立てるのもありです」
フェネリー伯爵家には現在、本家と別にふたつの分家がある。ひとつは子爵家、ひとつは侯爵家だ。分家なのに。王家がフェネリー本家に何度陞爵を打診してもすげなく断られるため、なぜか同じ伯爵家だった分家を更に無理やり陞爵させた過去があるのだ。
ベンジャミンが分家を立てるとなればなるほど、ここぞとばかりに押し切って伯爵家…下手をすれば侯爵家を立てさせかねないなと貴族名鑑を思い出しグローリアは小さく頷いた。
「あら、そうでしたのね。フェネリーは権力を望まれないと聞きますのに」
「レオの盾になるには子爵では弱いので」
ベンジャミンが肩を竦めた。フェネリーの血は権力を面倒だと言うが、メイウェザーの血は王弟殿下のためならば面倒な権力も受け入れるのだろう。
「ふふふ、わたくしの夫になればイーグルトンの名も使えましてよ?」
「ええ、なのでその際は殴られる覚悟で参ります」
「存分にお使いになって。少しだけ待って差し上げますから」
くすくすと笑うグローリアをちらりと見ると、ベンジャミンはきゅっと口角をあげ、楽しそうに青灰の目を細めた。
「更に言ってもよろしいですか?」
「何でございましょう?」
「ジェサイアも独身です」
ジェサイアとて北のオルムステッド辺境伯家の長子だ。オルムステッドを継ぐ気が無いとはいえオルムステッドと縁をつなぎたい家からの打診は少なくなかったはずなのだが……やはり意思の疎通がはかりにくいのが最大の原因だろうか。容姿も悪くないのだが、無表情と立派な体躯のせいで慣れぬ内には少々怖いのもあるかもしれない。
ふと、可愛らしい顔立ちなのに立派過ぎる体躯のせいで怖がられてしまう心優しい友人を思い出し、久しく話せていないテディ・ベアのような彼をグローリアはほんの少しだけ恋しく思った。
「あらあら、王弟執務室は未婚率が高くていらっしゃるのね?」
「はは、アニーは先日一応は結婚しましたし、もうひとり中々帰って来ないのがいるのですがそれも結婚しています。子もふたりいますよ」
噂には聞くがまだもうひとりには会えたことが無い。今に始まったことでは無く、グローリアが初めて王宮に来た日からの十年間実在を疑うほどにこれまで一度も目にしたことすら無いのだ。王弟執務室どころかいつ王宮にいるのだろう。
「四人で、殿下を支えていらっしゃるのね」
「ええ。増やせません、どうしても」
グローリアの知る王弟殿下の側近はその四人だけ。専属護衛も含めての数と考えると王族の側近としてはかなり少ない。それほど人を選ばねば明かせないほどのことなのだろう。グローリアだけが明かされないのではなく。
「そう……それほどの役割ですのね」
「はい。申し訳ありません」
ベンジャミンが本当に申し訳なさそうに眉を下げる。
大きなひそひそ話でベンジャミンはグローリアへ話すようにと王弟殿下を促していた。獅子の世話を一緒にと笑ってくれた。王弟殿下のためなのか、それとも知りたいと願うグローリアのためなのかは分からない。それでもベンジャミンがグローリアを五人目として迎えたいと思ってくれていることだけは分かる。きっと、ジェサイアもアンソニーも。
「謝らないでくださいまし、誰も悪くありませんわ。ただ、そう生まれついただけですもの」
もしもグローリアが男子に生まれていればきっと学園卒業と同時に王弟執務室の面子に加えてもらえたはずだ。もしもグローリアが生まれるのがあと十年早ければ、王弟殿下の婚約者として隣にあったのはグローリアであったかもしれない。今は亡きアドラムの令嬢ではなく。
――――アドラム令嬢は殿下の役割をご存知だったの……?
考えた途端にグローリアの胸がちりりと痛んだ。眉をしかめそうになるが、あえて微笑むことでグローリアは痛みを誤魔化した。
「そういうあなただからこそ、逃したくないのですけどね」
ベンジャミンがグローリアに視線を向け切なげに微笑んだ。きっとベンジャミンにももう時間があまり残されていないことが分かっているのだろう。
「まだ少しの時間はありましてよ」
「少しなのですよねぇ」
「ええ。そう遠くない未来わたくしも覚悟を決める日が来ますもの。それがわたくしの役割ですから」
婚約を結ぶことができる年になってからもう六年。その間にそれなりの数の縁談があったことをグローリアは知っている。グローリア・イーグルトン公爵令嬢の価値は国内外問わず高い。
実は今までひとつもグローリアには通されなかったのだが、今年に入りついに父は初めてグローリアに釣書の束を渡した。モニカの婚約もしっかりと固まった今、グローリアに残された猶予は少ない。
「その候補には私も入れておいてくださいね」
「もちろんですわ、筆頭ですわよ」
「ありがとうございます、光栄ですね」
「ふふふ、こちらこそ」
王弟殿下の妃にならないのなら、グローリアはベンジャミンが良いと真剣に思っている。そこに甘い感情はひとかけらも無い。あるのは信頼と安心感。そして、ベンジャミンの妻なら迷わず王弟殿下の役に立てるという打算だ。
夫婦となるならもちろんベンジャミンを愛する努力はする。努力などしなくとも好ましい思いはあるし、熱く思い合う恋人にはなれずとも互いをいたわり合う夫婦にはなれるだろう。
グローリアはメイウェザーであるベンジャミンを理解できるだろうし、ベンジャミンも全てを承知の上でグローリアを受け入れてくれるはずだ。
「……グローリア様、お願いです」
微笑みを浮かべたまま思考に沈んでいたグローリアの意識を、ベンジャミンの聞きなれぬ声が引き戻した。振り向けば、ベンジャミンの青灰の瞳が初めて見るほどに揺れていた。




