54.大きなひそひそ話
「ふふふ、皆様は本当に仲がよろしくていらっしゃるのね」
グローリアがにこにこと笑っていると、少し考えるように腕を組み、それから王弟殿下がグローリアを呼んだ。
「おい、グローリア」
「はい、何でございましょう?」
「あのな、名前な」
「はい?」
「……いや良い。何でもない」
「はぁ」
何かを言いかけては止める王弟殿下にグローリアは首を傾げた。何でもないとばかりにぱたぱたと手を振る王弟殿下に、後ろから側近たちの大きなひそひそ話が始まった。
「うわ、ヘタレ」
「一応レオなりの気遣いだと信じて差し上げては?」
「……弱いな」
こそこそ話しているように見えるのに全てが聞こえるのは恐らくわざとなのだろう。アンソニーがいるだけでこうも執務室の雰囲気が変わるのか。というより、ジェサイアと誰かでは会話にならなかっただけかもしれないが。そしてヘタレとはいったい何だろう。
「お前ら良いからちょっと黙っとけ。あとで覚えてろよ」
王弟殿下が半目になりうなるように言った。
「はいはい」
「はーい」
「………」
「ここにはまともな返事ができるやつすらいねえのかよ……」
三人三様の返事―――ジェサイアは発言すらないが―――に王弟殿下が脱力し天を仰いだ。
「ふ…ふふふ」
またも笑いを堪えられず今度は手で口元を押さえて笑っていると、王弟殿下がまたグローリアを見た。
「……楽しいか?グローリア」
「はい、とっても」
グローリアが少し被せ気味に答えると、王弟殿下は呆れたように笑った。
「んじゃまぁ、良いか」
「ふふふふふ、よろしいのですの?」
「おう、気にしたら負けだな」
「まぁ…ふふふ」
心から、グローリアは楽しいと思ってる。どこに居てもどこかで気を張っているグローリアだが、ここではどうしても笑ってしまうのだ。
ひとしきり笑うとグローリアはひと口、お茶を含んだ。いつの間にか用意されていたお茶は今日はほんのりキャラメル風味のミルクティだ。甘さ控えめでほんの少し苦みがある。お皿の上には今日のお茶菓子。茶色いスポンジ生地に白いクリームらしきものが乗っているが、さて、これはいったい何だろう。
フォークを入れるとふわっとした感触と共に少し重めのクリームが乗っていることが分かる。落とさないよう口に運ぶと、しっとりとした生地にスパイスの香りと仄かな何かの甘みがある。何か分からないがとても美味しい。クリームはバタークリームだ。バタークリームの重さにこのほんのり苦みのあるミルクティが抜群によく合う。
「キャロットケーキでございますよ」
ベンジャミンに聞いてみようと顔を上げたところ、すかさずベンジャミンがにこりと笑って教えてくれた。なるほどこれは人参の甘みだったか。
「まぁ、さすがベンジャミン様ですわ。わたくしの言いたいことが分かりましたのね!」
「グローリア様は顔に出ますから」
「え、わたくし、そんなに分かりやすいですの?」
グローリアはぎょっとした。これまで淑女として表情を作り続けてきたつもりなのだ。誰にもわかりやすいなどと言われたことは無い。本当は皆、気を使ってくれていたのだろうか?
「いえ、普段は完璧でいらっしゃいますよ。きっとここにいらっしゃると緩むのでしょうね。嬉しいことです」
グローリアはにこりと笑ったベンジャミンをじっと見つめ、王弟殿下に視線を移すとまたじっと見つめた。そうして、ああ、と何かを思いついたように呟き嬉しそうに微笑んだ。
「わたくし、ここに居ると、笑えるのですわ」
「ん?どういう意味だ?」
大きな口で大きなキャロットケーキの塊を不思議と優雅に口に運んだ王弟殿下が軽く咀嚼ししっかりと飲みこんでからグローリアに首をかしげた。
「イーグルトンの公女として完璧な淑女たれと思っていると、上手く笑えなくなるのです。モニカたちだけと一緒にいる時はそうでもないのですけれど…それでも、やはり言えないこともできてしまいましたでしょう?」
グローリアは少しだけ視線を落として微笑んだ。大切な友人たちと話している時もグローリアは心から笑っている。けれどどうしても、今は言葉を選んでしまう。心のままには話せない。王弟殿下が懸念していたのはきっとこういうことなのだろう。
「あー。まぁ、そうだな」
王弟殿下は銀の髪をかきあげるようにすると、そのままがしがしと頭を掻いた。眉尻が下がっているのは懸念していた通りになったからか。
――――あなたがそんな顔をなさることは無いのに。
ほんの少し困ったように、ほんの少し悲しむように目を細める王弟殿下に、グローリアは「ですが」とにっこりと微笑んだ。少しでもいい、幸せそうに見えるように。
「ここではわたくし自由でいられますのよ。自由でいても、皆様、許してくださるから」
「グローリア様……」
アンソニーがきゅっと眉を下げしょんぼりとグローリアを見た。しゅんと垂れた耳と尻尾の幻覚が見えそうだ。グローリアがアンソニーにもにっこりと笑うと、普段よりも少しだけ低い声がグローリアを呼んだ。
「……グローリア、来い」
「はい?」
振り向くと、王弟殿下が自分の座る横をぽんぽんと叩いている。こちらに来いということだろうか。グローリアが立ち上がり素直に王弟殿下の側へと行くと、そのまま腕を引かれて横に座らされた。
座ったと思った瞬間、王弟殿下がわしわしと、グローリアの頭を大きな両手で撫でた、と言うよりかき混ぜた。間違いなくぐしゃぐしゃだ。
「ちょ、殿下、またそうやって!」
当たり前のように触る王弟殿下にグローリアが抗議の視線を送ると、そのままむにっと頬を両手で挟まれ、視線が固定された。
「ひょっひょ!!」
ちょっと!!と言ったつもりが中々強く挟まれているようで言えていない気がする。むっと唇を引き結び睨みつけると、思いのほか真剣な濃紫の瞳と目が合った。
「良いかグローリア」
グローリアの頬を挟んだ手を少しだけ緩めると、視線を合わせたまま王弟殿下が続けた。
「お前は笑っていいんだよ。笑っていいし、怒っていいし、泣いていい。その感情はお前のもんだ。公女として我慢しなきゃいけないときはあるけどな、それは絶対に手放しちゃ駄目なやつだ。その感情はお前がちゃんと大事にしてやれ。諦めんな」
唇を引き結んだままグローリアは目を見開き固まった。まさかそんなことを言われるとは思わなかったのだ。
グローリアは公女だ。公の場では皆の手本になるように、品位を保ち家名を汚さぬよう生きてきた。感情を押さえろと言われることはあっても感情を出せと言われることなど無かった気がする。
そんな表情を作ればいいのか分からずじっとそのまま王弟殿下の目を見ていると、その目がすっと柔らかく細められた。
「駄目な時は好きにここに来い。いつでも、何でも受け入れてやるから」
ぎゅっと、グローリアの心臓が掴まれた気がした。何だそれは。いつでもなんて、何でもなんて………。
グローリアは湧き上がる何かを王弟殿下にはできる限り分からぬように小さく飲みこむと、頬を挟む王弟殿下の両手に両手を添え、にっと、精いっぱい悪い顔で微笑んだ。口元が震えそうになるのを表情筋を総動員して何とか押しとどめる。
「………あら殿下、わたくし、入り浸りますわよ」
王弟殿下は少し目を見開くと、面白そうに、そして負けないくらい悪い顔でにんまりと笑った。
「うちの側近どもが喜ぶだけだな」
「あらあら、殿下は喜んでくださいませんの?」
グローリアが更に目を細めると、王弟殿下ははたと何かに気づいたように固まり、ぱっと両手を離すとグローリアから視線を逸らし苦虫を噛みつぶしたような顔で自らの首筋を撫でた。
「俺がそれに答えると問題が出る」
「ふふふ、そうですわね。どう答えても問題になりますわね」
良いと言えばグローリアが入り浸るだろう。悪いと言えばグローリアはここに来ることができなくなる。答えないのが正解だと、グローリアは笑った。




