50.就職ではないわ
「そうね……そうよね。沢山、沢山楽しまなくちゃね!!」
モニカがぐっと顔を上げた。赤くなった目元と鼻の頭が痛々しいが、その笑顔はとても清々しい。
「はい!!楽しみます!!」
「良いね、その意気!」
こちらも同じように目と鼻を赤くしたサリーも顔を上げるとにっこりと笑ってこぶしをぎゅっと握る。そんなふたりにベルトルトが嬉しそうに笑った。
「明日から新学期ね!その次は、あ…」
モニカもぐっとつないでいない方の手でこぶしを握ると、はた、と何かに気が付いたように笑顔のままで固まった。
「定期試験が来ます」
「来ますわね」
ドロシアが茶器をとん、と叩くと淡々と言った。グローリアもまた淡々と答え、茶器を新しく湯気の立つものに交換してくれたメイドにありがとうと微笑んだ。
「やだ、わたくし、卒業前の最後の試験じゃない!!」
「あらモニカ、何かよろしくない教科でもございますの?」
「無いわよ?無いけどちょっと気合が入るじゃない?」
「就職先はすでに決まっておりますのに?」
先ほどモニカに楽しくからかわれた仕返しとばかりにグローリアはにやりと笑って上目遣いに言った。
「ちょっと、就職って言わないでちょうだい」
むーっと、モニカが唇を尖らせた。ちらりとベルトルトとフォルカーを伺うと、ベルトルトは首をかしげてモニカを見つめ、フォルカーは困った顔で微笑んでいる。
「これ以上ない就職先かと思いますが」
「もうドロシアまで!」
貴族の、特に高位の貴族令嬢の結婚は政略がほとんどだ。令嬢という家の政略の駒から夫人という、新たな役職に就くのと大差ないとも言える。だからこそ就職という言葉もあながち間違ってはいないのだが、政略結婚最前線にいるはずのモニカはそれを強く拒んでいる。その事実にグローリアの笑みが更に深まった。
「あれ、俺、褒められてる?貶されてる?」
ベルトルトがきょとんとした顔で自分を指さしている。モニカがベルトルトのその様子に更に頬を膨らませるのを見て、グローリアはついに声を出して笑った。
「ふふふ!褒めておりますわよ。ただ一か所、唯一、わたくしたちの大切なモニカを任せられる場所ですもの」
笑いながら新しく出された茶を口にする。今度の茶は先ほどものより色が薄い、というよりも淡い金色だ。口に含むと全く苦みを感じず茶の甘さと香しい花の香りが口いっぱいに広がった。
「うん、もちろんだよ。俺以外のとこには絶対に行かせない。約束する」
グローリアの言葉にベルトルトが目を見開き、そして真剣な顔で頷いた。ベルトルトのくれる約束はいつだって力強く優しい。グローリアの口角が更に弧を描いて上がった。
「あらあら、ご馳走様ですわね?」
「就職じゃないわよ!」
「当たり前でしょ。俺の大事な奥さんになるんだから」
唇を尖らせるモニカの腕をベルトルトがまた軽く引き、にっこりと笑ってモニカのまだ赤味の残る鼻の頭をつん、と指で押した。猫のような金の目が細まるのを見て、モニカも若草の眦を柔らかく下げた。
「分かってるなら良いのよ、分かってるなら」
今度は機嫌よく唇を尖らせ歌うように言い、モニカがふふふと笑った。ふたりの間に触れ合いがずいぶんと増えた気がする。子猫がじゃれ合うような触れ合いだがそれだけ距離が近づいているのだろう。物理的な距離ではなく、心の距離が。
「むしろモニカ様、ベルトでよろしいのですか?そろそろ面倒くさくなってきませんか?」
そんなふたりを穏やかに見守っていたフォルカーが、少しだけ意地の悪い顔でにやりと笑った。ぱっとフォルカーを振り向くとベルトルトが眉を下げて抗議した。
「フォルカー、酷いぞ。自覚はあるけど!」
「自覚がおありですのね」
「あるけど、あるけど!」
グローリアもまたフォルカーに便乗する。仲が良いのは喜ばしいが、先ほど散々にグローリアを困らせてくれたことは忘れていない。
「無いわよ、面倒なことなんか。むしろ………わたくし、ベルトじゃなかったらきっと、こんなに心穏やかにいられなかったわ」
モニカがベルトルトの腕を引いた。振り向いたベルトルトの表情が情けないものから一気に真剣なものに変わる。
「モニカ?」
その様子にグローリアもまたモニカを振り返ると、モニカはじっとグローリアを見つめていた。
「グローリア」
「はい、モニカ」
モニカの真剣な声に、グローリアも居住まいを正した。背筋を伸ばし、じっとモニカを見返す。ゆらゆらと揺れる若草の瞳が少しだけ不安そうに細められ、そして意を決したようにモニカが口を開いた。
「単刀直入に聞くわ。お兄様をどう思っているの」
ぎゅっと、モニカがベルトルトの手を握る手に力を入れた。ベルトルトは心配そうにモニカを見つめながら、もう片方の手でモニカの手をそっと包み込んだ。
「どう、ですの?」
「そうよ。どう」
どう、思っているのか。王弟殿下に嫁ぐ気が無いのなら言動に気をつけろと王妃殿下に言われた時、グローリアは王弟殿下に嫁いでも構わないと思った。それはグローリアがイーグルトンだからだ。けれどモニカが聞きたい答えは絶対にこれではない。
グローリアはいったい王弟殿下のことをどう思っているのだろう。視線を落として少し考えた後、グローリアは静かにモニカの名を口にした。
「モニカ」
モニカも静かに頷いた。若草色の美しい瞳がゆらりゆらりと揺れている。きっとグローリアの瞳も同じように揺れているのだろう。
「わたくし、モニカの望む答えを返せないかもしれません。わたくし自身がどうお答えすれば良いのか分かっていないのです。それでも、上手くお話しできなくても、聞いてくださいますか?」
モニカに対して何ひとつとして誤魔化したくない。グローリアが分からないと思っていることも全てだ。たとえグローリアが探し出したグローリアの中にある答えがモニカを傷つけるものであったとしても、嘘を吐くことだけはしたくない。
「もちろんよ。グローリアが真剣に答えてくれる以上どんな答えでもわたくしは全て聞くわ」
「ありがとうございます、モニカ……」
グローリアは深く息を吸い、ゆっくりと吐くと、自分の中にある嘘の無い気持ちを自分の中に探しながらひとつひとつ丁寧に言葉を紡いだ。




