43.数えた十と国王陛下
「殿下………!」
――――遅いですわ!!!
内心では悪態を吐きつつグローリアは満面の笑顔を王弟殿下へ向けた。作り笑顔ではない。やっとアレから解放されることがあまりにも嬉しく、グローリアは心の底から湧き上がる喜びを表情に乗せて笑った。
四方から、息を飲む声が聞こえた。グローリアの胸元にはアメジストのブローチ。王弟殿下の袖口には紫翡翠のカフスが淡く光る。
「悪い、待たせたか?」
「そんなことは無いと申し上げたいのですけれど……とても、とてもお待ち申し上げておりましたわ」
その手に片手を取られ、更に腰にも王弟殿下の手がある今、グローリアと王弟殿下の距離は一歩すらない。そのような至近距離ではあるが安心感の方が勝っているのか照れることも無くグローリアは素直な気持ちを言葉にした。辛かったのだ、本当に。
「そうか、ごめんな?」
王弟殿下が甘く、甘く微笑んだ。周囲から小さな悲鳴が聞こえた気がする。
「いいえ、良いのです」
グローリアもまた笑みを返すと、頭の中で数字を数え始めた。演技とは思えないほど見事な、まるで甘く溶けるような王弟殿下の濃紫の瞳をじっと見つめ、ひとつ、ふたつ、と数えていく。あまりにも距離が近いとは思うが握られた手にも不快感は無い。相手が違うとこれだけ違うのかと、グローリアは少し感動した。
王弟殿下の顔を見ている限りはウィルミントン令息が視界に入ってくることはない。それだけでもグローリアは天にも昇る心地だ。当然表情も自然と明るくなる。そういえば、王弟殿下と共に居たはずのウィルミントン令嬢は今どこに居るのだろう?
十を数えたのにこのままであることに戸惑いは覚えつつもグローリアはじっと王弟殿下を見つめ続けた。かなりの身長差に徐々に首が疲れてきたが。
「殿下、まだでしょうか……」
グローリアが王弟殿下にだけ聞こえる程度の声で囁いた。
「義姉上がすぐに声を掛けるって言ってたんだけどな……」
王弟殿下が更にきゅっと瞳を細めた。はたから見ればお互いにしか分からぬほどの声で愛でも囁き合っているように見えるのだろうか。いっそやり過ぎだ。
「ねぇ、これ、止めないと駄目かしら?中々の目の保養では無くて?」
「否定はいたしませんが娘の精神衛生のためにもそろそろ止めてやっていただきたいのですが……」
グローリアの耳に王妃殿下と母の呑気な会話が入って来た。こそこそと話しているつもりだろうがしっかりと聞こえている。
「殿下、恐ろしいことを仰っている気がするのですが」
「あー……ああ見えて、義姉上も面白いを重視するタイプだ」
「そこは考慮に入れるべきだったのでは!?」
「ほら、表情が崩れるぞ、保て保て」
仕事を忘れかけた表情筋を叱咤し、グローリアはすっと小首をかしげ、更に瞳を細め口角を上げた。「まぁ……」と誰かが嘆息した声がした。
演技としてもいい加減に耐えがたくなってきたとグローリアの口元が羞恥に震え出したころ、王妃殿下ではない別の声がグローリアと王弟殿下の間に落ちた。
「これはどういうことでしょう?」
ウィルミントン令息がグローリアに強引に詰め寄っていた時とは全く違う低い声で言った。
「どうとは?」
王弟殿下がグローリアから視線を外すと体勢はそのままにちらりとウィルミントン令息を見やった。
「グローリア嬢は僕との縁談があるはずです。それに、僕の妹はどこに?」
周囲を見回すもそれらしき令嬢が居ない。この茶会に来る前には王弟殿下と共に居たはずなのだが、エスコートして会場入りした雰囲気も無かった。
「さあな。俺は約束通りお前の妹に会ったし、もうひとつの約束通りにグローリアを迎えに来た。ただそれだけだな」
もうひとつの約束。知らぬものが聞けばずいぶんと意味深な言葉に周囲がざわめいている。これは余計な誤解を受けるなとグローリアは内心で遠い目になった。
「は……会われたのなら、なぜ妹は一緒ではないのです?」
「俺と話した後に嬉々としてどこかへ行ったぞ。お前のところの侍女が一緒だから問題は無いはずだ。第一の騎士もついてたしな」
「は?嬉々として??」
王弟殿下とウィルミントン令嬢は見合いをしたはずなのにどう見ても見合いは失敗している。それなのに嬉々としてどこかへ行ったとはいったいどういうことだろう。それが王弟殿下が『まだ言えない』と言っていた例の名目ではない方の話のためだろうか。
ウィルミントン令息も口を開け大層自信があるらしい綺麗な顔を間抜けに歪めている。そうして気づいたように「んんっ」と咳払いをすると、ウィルミントン令息はグローリアを見た。
「陛下の思し召しはどうなるのです」
怯えるように眉をひそめ更に王弟殿下に寄り添ったグローリアを見てウィルミントン令息が唸るように言い王弟殿下をにらみつけた。
「さあな。兄上がどういう意図でお前をグローリアに会わせたのか俺は知らない。陛下に聞いてくれ」
そう言うと王弟殿下はぐい、とグローリアをその場から一歩離れたところへ引き寄せた。開いた空間に、グローリアよりも濃い光のような金の髪がふわりと入り込んだ。
「うん、何が聞きたいのかな?」
「陛下……っ!」
突然の国王陛下の登場に誰もが息を飲み、慌てて立ち上がると一様に深く礼をとった。グローリアもカーテシーをしようとしたが王弟殿下に腰をぐっと引き寄せられ、頭を下げるに留めた。
「陛下!僕とグローリア嬢の縁談を取り持ってくださるのではなかったのですか!?」
ただひとり、ウィルミントン令息だけが礼をとることも無く立ち上がり国王陛下に詰め寄った。ひゅっと、グローリアの喉が鳴った。とんでもないと思っていたが、まさかこれほどとは思っていなかった。今すぐ騎士に切られてもおかしくないほどの不敬。昨年は自らが罰せられるかもしれない側だったが、今は目前で血の雨が降らないか心配する側になった。
「余は誰にもそのようなことを約した覚えは無いがな。ウィルミントン伯に頼まれて会えるようには取り計らいはしたが……。会えばそのまま婚約になると?ずいぶんと自信過剰なのか、それとも世間知らずなのか………」
皆に座るようにと頷き着座したことを見届けると、口元に柔和な笑みを浮かべ、声を荒げるでもなく淡々と国王陛下は言った。なるほど、口添えは顔を合わせることだけでそれは見合いではなかったということか。どう暴走した結果あの手紙になったのだろう。
グローリアが王弟殿下に寄り添ったままじっと成り行きを見守っていると、何かに気づいたように国王陛下がウィルミントン令息に目を向けた。
「ああ、ところで」
柔和に細められていた赤を感じる濃紫の瞳からすっと、光が消えた気がした。ぞわりと、グローリアの背を何かが駆け上がった。
「君は、誰かな?」




