42.忍耐の時間
グローリアは今、非常に走りたかった。上品なデイドレスに袖を通し髪も美しく整えたグローリアではあるが、今すぐに立ち上がりハイヒールで出すことのできる最大の速度で一目散に走り去りたかった。グローリアの横には赤味がかった金の髪に空色の瞳の貴公子が座っている。
「噂には聞いていましたが、噂などあてにならないものですね。本物のグローリア嬢は想像も及ばぬほどに美しい」
「お褒めの言葉をありがとう、ウィルミントン令息。良いも悪いも、噂は所詮、噂ですわ」
早く過ぎ去れば良いのにと違う意味で待ちに待った春の茶会。挨拶もそこそこに許した覚えもない名呼びでグローリアを呼ぶウィルミントン令息は、こちらも許してもいないのにグローリアの手を勝手に取った。もうすでに振り払ってしまいたいがこれは見合い。グローリアは作り笑いを張り付けてぐっと不快を飲み込んだ。
「どうかそのように他人行儀になさらずどうぞジャーヴィスとお呼びください」
にっこりと、ウィルミントン令息が微笑んだ。「素敵」とどこかから令嬢たちの黄色い声が聞こえてくるが、グローリアからすれば鳥肌ものだ。この軽薄な笑顔と態度のどこに素敵な要素があるのかさっぱりと分からない。
「わたくしたち、今日が初対面ですわ、ウィルミントン令息」
嫌だとは言わない。けれど明確に拒絶はする。掴まれたままになっていた手をそっと引き抜くと、グローリアは扇を開いて口元を隠した。すでに笑みを浮かべているのが辛い。なぜモニカがここに居ないのか……グローリアは初めてベルトルトを恨めしく思った。
「ああ、グローリア嬢は奥ゆかしいのですね。そのようなところも実に好ましい。僕が導いて差し上げねばと心が躍ります」
「わたくしには父も兄もおりますもの。間に合っていてよ」
手を引き抜くときにさりげなく椅子を少し動かしたのだが、またウィルミントン令息も更に椅子ごと詰めてきた。ぐいぐいと前に出てくるその様子に、グローリアは内心で舌打ちをした。
「ご家族が導かれる先とはまた違うものですよ。ご安心ください。僕に全てを委ねて下さればそれで良い」
ぱちりと片目を瞑って見せたウィルミントン令息に、ぞわりとグローリアの全身に不快な悪寒が走った。何ひとつとして良くないだろう。長兄やフォルカーと変わらぬ年だと聞いているが、何だろうこの軽薄さは。あまりにも軽い。言葉が響かない。顔をしかめずにいるだけでもグローリアには精一杯だ。
ちらりと母を見ると、微笑んではいるが笑っていない。不快に思っているのが自分だけではないと知り、グローリアの心が少し慰められた。
「あらご冗談を。わたくし、お人形さんでは無くてよ」
どうにか離れたくて扇を開きこれ以上近づくなとばかりに自分とウィルミントン令息の間にかざす。何をどう思ったのかウィルミントン令息が悲し気に眉を下げて更に顔を近づけてきた。
「申し訳ありません、そのようなつもりで言ったわけでは無いのですよ。ただグローリア嬢の美しい顔が僕の手でほころび花開くのを見たい、そんな愚かな男の恋心故なのです」
「まぁ、ずいぶんと手軽な恋心でいらっしゃいますのね」
取り繕うのすら面倒くさい。貴族らしい遠回しな物言いなどひとつも思い浮かばないほどの精神的な疲労に、グローリアの表情も徐々に崩れてきた気がする。堪え性が足りないのだろうか。それともグローリアの忍耐を凌駕するほどの不快感なのだろうか。
「これはこれは。僕の美しいお姫様は中々勝気でいらっしゃるようだ。それでこそ僕の隣に相応しい」
またもグローリアの手を許しも無く取ろうとするウィルミントン令息をするりとかわし、再度さりげなく距離を取る。軽薄な一部の第一騎士団の騎士たちもグローリアを苛つかせるが、この男はその比ではない。アレと呼ばれるだけでももったいないとすら思える。何様だと怒鳴りつけてやりたいが、今はまだ我慢の時だ。
――――殿下、まだですの?
王弟殿下は今、王宮の応接室でウィルミントン令嬢と見合い中だ。もしや思いの外ウィルミントン伯爵令嬢と気が合ってしまいグローリアとの約束を忘れてしまったのだろうか。そうなればグローリアの逃げ道が狭まる。母は保護者ではあるがこの茶会においては付添人。ぎりぎりまでは助けてくれないだろう。
「わたくしが隣に立つ方はわたくしが決めますの。誰でも彼でも立てるわけでは無くてよ。少なくとも初対面でしかないあなたでは無いわ」
この程度の辛辣さは許されるのがグローリアだ。明確に相手の態度が失礼であればなおさら。
母が扇を広げて口元に当てた。目が泳いでいる。あれは完全に面白がっている顔だろう。その隣、今日は同じテーブルに座っている王妃殿下もまた扇を口元に当てている。三日月のように細められた若草の目が『面白い』と言っているようにしか見えない。人の不幸は蜜の味とは良く言ったものだ。
さすがにこの物言いは気に障ったのだろう。ウィルミントン令息の軽薄な笑みが固まり口元が震えている。
「これはこれは。ずいぶんと嫌われてしまったようです。僕はただグローリア嬢とお近づきになりたかっただけなのですが」
悲しげに眉を下げしょんぼりと肩を落とし上目遣いにグローリアを見る様子は見る者が見れば思わず「そんな顔をなさらないで」と駆け寄りたくなるようなものだろう。グローリアは違うだけで。できることなら今すぐに逃げ去りたい。
「何事にも節度は必要ですのよ」
顔には笑顔を張り付けたまま口から出る言葉はどうにも直球だ。さっぱりと取り繕える気がしない。なるほど、王弟殿下の言う通りグローリアとの相性は最悪のようだ。
「グローリア嬢、僕は」
「グローリア」
低い声が遮るようにグローリアを呼んだ。持ち直したのかまたも軽薄な笑顔で詰め寄りグローリアの手を握ろうとしたウィルミントン令息からグローリアの手が声の主にさらわれた。はっとしたグローリアが思わず立ち上がると、そのまま腰ごと後ろへとさらわれた。




