35.そうしたいと思ったから
廊下へ出ると、扉の横に控えていた騎士が後ろ手に扉を閉めて無表情のままで静かに騎士の礼をした。
「お見送りいたします」
にこりともしない騎士は王弟殿下の専属騎士。グローリアも幾度か会った覚えがあるが、笑顔どころか表情が動いたところを一度も見たことが無い。ポーリーンも表情に乏しいが、この護衛騎士は乏しいというより完全に『無』だ。
「ええ、お願いしますわ」
グローリアが微笑むと、騎士はこくりとひとつ頷きゆっくりと歩き出した。グローリアも静かにその後ろを着いて行く。しばらく無言で歩き、グローリアはおもむろに口を開いた。
「聞いてもよろしいかしら?」
「はい」
振り向くことなく騎士が前を見たまま返事をした。素っ気なくはあるがグローリアがちょうど良いと思う速度で前を歩き続けるのはさすがだ。見ていないようで見ているのだろう。
「あなたはなぜ王弟殿下に仕えていらっしゃるの?」
グローリアの記憶にあるこの騎士の名はジェサイア・オルムステッド。貴族名鑑には、北のオルムステッド辺境伯家現当主の長子として名が乗っている。本来ならば次期オルムステッド辺境伯のはずだ。
「なぜ、ですか」
速度を緩めることも早めることも無くジェサイアは静かに言った。その背からは拒絶を感じないが、やはり言葉は少ない。会話になるかしらと不安になりつつもグローリアは重ねた。
「ええ、なぜ」
こつ、こつと、ジェサイアの革靴の音がゆっくりと響く。こつこつこつと、グローリアのハイヒールの音がそれよりも早く響く。王弟殿下の背が高いせいで分かりづらいが、王弟殿下の側近たちは皆背が高い。秘書官を除いてだが。じっとどの騎士団とも違う騎士服の背を見つめていると、また落ち着いた声が静かに響いた。
「騎士の誓いを立てておりますので」
「騎士の誓いですの?」
「はい」とまたジェサイアが短く言った。しばらく待つもその後に言葉が続くことは無い。
騎士の誓いは一般的には騎士に叙任される際に騎士団の主に忠誠と騎士道を誓う宣誓のことだ。王立騎士団ならば王や王族、王国に。イーグルトン公爵家の騎士ならば当主である父や公爵家に誓う。
だが、恐らくジェサイアの言う誓いはこれではない。もうひとつ、騎士がただひとりにのみ捧げる誓いがある。破られるのは騎士本人か主君が死を迎えた時のみとすら言われる強い誓約は、はるか昔まだこの国が戦乱の中にあった時には多く見られたというが今は既に形骸化している。
思いを寄せる令嬢に愛の言葉の代わりに誓われることがある程度だ。もちろん、破られることも多々ある。
「どういった騎士の誓いを?」
初めてジェサイアがちらりとグローリアを振り向いた。ただひとりに捧げられた誓いならばそれを問うのは大変な無礼であり、怒りを向けられても文句は言えない。そう知りつつもグローリアはあえて聞いた。怒られたなら普通の誓いかと思ったと誤魔化せば良い。
「ふ……」
ジェサイアが笑った気がしてグローリアはぱっと視線を上げた。ジェサイアは既に前を向いておりその表情は見えない。気のせいかとも思うがグローリアの心臓が驚きにばくばくと音を立てた。
「………死ぬまで共にあることと、先に死なぬことを」
「え?」
グローリアは思わず聞き返した。やはり王弟殿下ただひとりに捧げられた誓いだろう。けれどその内容がどうもおかしい気がする。
「先に、死なぬことですの?」
共に死ぬでも、命をかけるでもない。主を守るべき護衛の騎士が先に死なないとはいったいどういうことだろう。
「そういう、方ですから」
前を向いたままジェサイアがゆっくりと、噛みしめるように言葉を紡いだ。
先に死なぬこと――――それはつまり、自分を守って死ぬなと、そういうことなのだろうか。王弟殿下はどこまで他者を守り生きて死ぬつもりなのだろう。
「それで、よろしいの?」
何がとは言わず問うたグローリアに、ジェサイアはまたちらりと視線を向けた。
「私の主はあの方です」
静かな答えにグローリアはきゅっと唇を噛みしめた。これもまた、ひとつの覚悟の在り方なのだろうか。騎士でありながら主より先には死なない。死ねない。いざという時が来たならば、この誓いがどれほどジェサイアを苦しめるのだろう。
まるでグローリアの思考を読んだようにジェサイアが続けた。
「先に死ねぬなら、意地でも生かし、生きるだけです」
「!!」
グローリアは目の覚める思いがした。主より先に死ねないのなら主を絶対に死なせない、自分も絶対に死なない。その思いがきっといざという時ジェサイアと王弟殿下を生かすだろう。
命を懸けると言えば聞こえは良いが、それは裏を返せば自らの命を捨てると宣言しているのと同じことだ。命を懸け自らの命を捨てて主を守っても、それで満足するのは本人だけになるかもしれない。
――――命を懸けるなら生きるために懸けろ。意地でも生き抜け。
主従の誓いの裏側にある優しさに、己の思考の甘さにグローリアはまたきゅっと唇を噛みしめ、深く息を吐いた。
「………誓いがあっては、家には帰れないのではありませんの?」
「はい」
また短く答えが返ってくる。オルムステッド辺境伯家が守る北方は広く、そして遠い。王都から見れば北東にあるベルトルトの国よりもオルムステッドの城塞の方が遠いのだ。死ぬまで共にと誓った以上、ジェサイアはそう簡単には北に帰れない。それはつまり、オルムステッド辺境伯家を継ぐ気がないということだ。
「なぜ、そこまで?」
北の大地は決して優しい場所ではない。冬になれば雪と氷に埋もれる気候もそうだが、いまだ未開の地と呼ばれる草木の育ち難い地域には地下資源が多く眠るとされ、ベルトルトの国の更に北、王国の北北東に構える大国との小競り合いも少なくはない。
けれど、そんな大地に多様な少数民族たちと共に寄り添い合い生きてきた辺境伯家の人々と民はその心も体も屈強で懐が深いとされる。何より、北の大地を強く愛している。その地を捨ててまで王弟殿下を選んだのは、なぜなのか。
しばらくの沈黙ののち、徐々にゆっくりになったジェサイアの足がぴたりと止まりグローリアを変わらぬ無表情のまま振り返った。
「そう、したいと思ったからです」
グローリアは思わず目を見開いた。何も言えぬままぱちくりと瞬きを繰り返していると、じっとグローリアを見つめていたジェサイアが静かに言った。
「あなたはなぜ、殿下に会いに来たのです」
グローリアは更に目を見開いた。じっとグローリアを見つめる金にも見えるグレーを帯びた黄色の瞳から目が逸らせない。グローリアはなぜだか湧き上がる思いを堪えられずくしゃりと眉を寄せ、まるで泣くように笑った。
「そうしたいと、思ったからだわ」
知りたいと思ったから会いに来た。分かりたいと思ったから会いに来た。グローリアが、他でもないグローリア自身がそうしたかったから会いに来たのだ。
「はい」
黄色の瞳がすっと細められ、ジェサイアの口角がそれと分かるほどに上がった。グローリアが初めて見たジェサイアの笑みだった。
きっと昨日までのグローリアなら笑顔どころか話してもらうことすらできなかった。こちら側に来たグローリアだからこそ、引き出すことのできた笑みだろう。
「着きました」
言われて横を向くと、そこはすでに使用人の控室の前だった。いつの間にか着いていたらしい。ジェサイアは笑みを消すと控室の扉を三度叩き、静かに口上を述べた。
「イーグルトン公爵家令嬢グローリア公女をお連れした」
ほどなくしてガチャリと扉が開きユーニスが控室から現れた。飛び出したいが我慢をしてゆっくり出てきた、という風情だ。
「お嬢様……!」
ほっとしたようにユーニスの表情が緩む。思いのほか時間がかかったことで心配をさせてしまったようだ。
「ユーニス、待たせたわね」
「いえ……」
ユーニスがちらりとジェサイアを見上げた。ジェサイアはまた無表情のまま騎士の礼を取り「それでは」と言って踵を返した。
「………狼?」
ユーニスがぽつりと言った。なるほど、金にも見える黄色の瞳と少し茶の混じる灰色の短い髪。静かでありながら力強い出で立ちはさながら北方に多く生息するという狼のようだ。
「美しい人よね」
「え、そうですか?」
容姿の美しさを特に重視するユーニスとは、美しさの定義に違いがあるらしい。「帰りましょう、お嬢様」と歩き出すユーニスの後ろ姿を追いながら、家に帰ったら今日見た王弟殿下の麗しさだけは教えてあげようとグローリアは思った。




