32.王手
「俺はな、グローリア。ポール卿に言ったんだよ。アニーが何をするか分からないから婚約だけは頼みたい。だが結婚するかどうかはポール卿が決めて良いし、婚約期間も好きなだけ伸ばして良い。やっぱり嫌なら俺が責任をもってアニーを黙らせる。だから、何かあれば迷わず俺のところに来い。誰よりも何よりも優先してやる、ってな」
突っ込みどころの多さにグローリアは眩暈を覚えた。何だろう、一歩間違えれば婚約を申し込んでいるのは秘書官ではなく王弟殿下のようだ。グローリアが呆気にとられ黙って王弟殿下を見ていると、王弟殿下はどう思ったのか、困ったように笑って言った。
「俺が約束を反故にできないように、証人として総騎士団長と宰相、フレッドにも同席してもらった。第一騎士団長にも頼んだんだがその日は王太后様に呼ばれていたらしく無理だった」
総騎士団長に宰相閣下に第一王子殿下に王弟殿下。ポーリーンにとってはさぞかし胃の痛い空間であったことだろう。そんなもの、公女であるグローリアですら少々遠慮したい。
「証人としてよりも…圧力の方が……」
思わず目を逸らして呟くと王弟殿下がまた笑った。
「正直、そっちも期待しての人選だな。とりあえず婚約だけはしてもらわないとアニーが暴走寸前だったからな」
「秘書官様が暴走したところでどうにかなるようなものでは無いと思うのですが……」
グローリアは王弟秘書官を思い出してみた。小柄な体に可愛らしい顔立ち。深い海のような瞳はきらきらと輝き、栗色の巻き毛も愛らしい、少女と言われても信じてしまいそうな可憐な青年だ。
「いや、アニーの暴走はまずいんだよ。言っとくが、婚姻届けに御璽を押させたのはアニーだぞ」
「は…………?」
「アニーはひねくれてはいるが馬鹿じゃないし普段はそれなりに理知的なんだが、敵認定した奴とポール卿にだけはねじが飛ぶ。そうなれば俺でも抑えるのにかなり苦労する。今のところ完全に抑えられるのはベンジャミンだけだ。それも、やらかす前に気がつけるかどうかが勝負だな。頭が良くて思い切りも良い分、間に合わないと大ごとになる」
あまりの新事実の多さにグローリアは一度目を閉じた。頭を整理しなくては追いつかない。いつもきらきらと可愛らしい秘書官はどうもひねくれているらしい。ポーリーンを好いているのは知っていたがねじが……頭のねじが飛ぶほどにこじらせているらしい。敵認定とは……いったい何をどうすればそうなるのか。
目を開きちらりとベンジャミンを見ると、困ったように微笑み首をかしげている。王弟殿下に同意、ということだろう。
「今回は間に合わなかった、と」
「そういうことだな。俺もアニー以外の側近も今回は完全にポール卿側についたし、何かあれば協力してもらえるように総騎士団長や宰相にも話していた。フレッドはまぁ、俺に何かあった時にフレッドが知っていれば話を進めやすいだろうからな、巻き込んだ。結果的にアニーが動かせる駒では太刀打ちできなくて、直接王を動かしたんだな。チェスなら悪手だが……現実世界では間違いのない、文字通りの王手だ」
王の御璽に敵うものはない。一度押されてしまえば覆すことは難しい。できないわけでは無いが、王が自らの決定を安易に覆すことは権威の弱化に繋がる。それゆえ覆す側もそれなりの覚悟を持ってかからなければならない。
「まぁ、俺の方にもちょっとした予定外があってな……。そちらの対処に追われてアニーの動きを見逃した……てのはまぁ、言い訳だな。それもまたアニーの策略だったって可能性も無きにしも非ずなんだがなぁ……」
「だからと言って御璽が簡単に押されるものなのでしょうか…?」
素朴な疑問を漏らしたグローリアに、王弟殿下はため息を吐いた。
「いや、押さねえよ?それに押させねえよ?どっちが提案したにしろどっちかが止めろよと普通は思う」
「まぁ……そうですわよね」
グローリアは少し安心した。グローリアの常識の方がおかしいのかと思ってしまうほどの秘書官の活躍だ。悪い意味で。
「まぁあれだ。結婚はしたがポール卿が全くもってアニーと関わろうとしない。今は遠征中ってのもあるが……王宮に居ても逃げ回ってるし寮から邸宅に引っ越す気配も無い。アニーを処罰をするのは簡単なんだが、その事実がアニーには一番の罰だからな……。せっかくうまくいってたんだからもうちょっと我慢できなかったかね……」
最後の方はほぼ独り言だった。グローリアも、ポーリーンの変化を目の当たりにしたひとりだからこそよく分かる。
「ポール卿も憎からず思っていらっしゃるご様子でしたわ。このようなことをされれば淡い恋心など粉々でしょうけれど」
「そうだな、ポール卿はどう見ても馬鹿まじめで奥手だからな。進むのはもどかしいくらいの鈍足だっただろうが間違いなく少しずつ心は開いていた。アニーは無理やり結婚するんじゃなく問題を解決してやってもう大丈夫だと安心させてやるべきだった。待てなかったアニーのミスだ。自業自得だな」
ついでに分かっていたはずなのに抑えてやれなかった俺のミスだ、と王弟殿下はまたため息を吐き肩を落とした。
「……損な性格ですわね」
グローリアは言われたことをそのまま返してやった。こくりと、少し冷めた紅茶を口に含みちらりと視線を向けるとと、王弟殿下は「知ってるよ」と困ったように笑った。
「でだ、グローリア」
「はい、なんでございましょう」
紅茶の替えを用意するかと視線で問うベンジャミンにこれで良いと首を振り、グローリアは王弟殿下に視線を向けた。
「残念だが、お前は今後めでたくこっち側だぞ」
組んだ長い脚に頬杖をつき、王弟殿下は面白くなさそうな顔でグローリアを見ている。大変お行後は良くないが、気だるげなその様子は目に毒になりそうなほど非常に王弟殿下には良く似合っている。
「そうですか」
「俺はせめて社交界デビューまでは逃がしてやろうと思ってたんだぞ」
「いずれ巻き込まれるのなら早々に巻き込まれておく方が心構えができて良いものですわ」
淡々と答えるグローリアに王弟殿下は「そうかよ」と呆れたように笑い、「だがな」と眉を下げ濃紫の瞳を細めた。
「お前にとって大切な者たちに秘密が増えるぞ。少しでも知れば嫌でも巻き込むからな。……いや、知らせずとも側に置く時点で巻き込んでる」
「覚悟はしておりますわ」
「どうだかな。本当の意味で巻き込んだ時……背負うものの重さと大きさは、頭で考えて分かるようなもんじゃない」
王弟殿下の濃紫の瞳が陰る。王弟殿下の言葉が重く響くのは、過ごした時間と覚悟の種類の差だろうか。王弟殿下の痛みを堪えるような笑みに、グローリアの胸が軋む。
確かにグローリアは覚悟をしている。いざとなれば大切な者たちの手を離さねばならないことも分かっている。それと同時に、グローリアの今できる覚悟では恐らく足りないであろうこともグローリアなりに理解はしている。
「それでも、背負わないという選択肢はございませんのよ」
だからと言っていつまでも守られるままではいられない。グローリアは公女だ。守る側の人間なのだ。知れば苦しむことも増えるだろう。けれど、知らねば守れるものも守れない。
「だからまだ、子供でいて欲しいんだがなぁ………」
頼むから守られてくれよと、王弟殿下は笑った。




