13.グローリアの怒り
モニカもまたティンバーレイクだ。きっとあの日にはすでに覚悟を決めていたのだろう。それでも下級生の教室にまで王弟殿下に会いに来ずにはいられなかったほどの思いを押し殺すのは、どれほどの苦痛を伴うのだろうか。やはりグローリアにはまだ分からないが、それでもモニカの心を思えばどうしようもなく胸が痛む。
もどかしい気持ちを何とか抑え、グローリアは今にも丸くなりそうな背を無理やりに伸ばして父を見た。
「では、いったい何が?」
「……マシューに心酔する馬鹿どもが、勝手な忖度で暴走した」
忌々し気に顔を歪めギリ、と歯噛みをした父を見て「ここからは僕が」と長兄が手を上げ遮った。
「ティンバーレイク公爵閣下は早々にお立場を表明されていたんだけどね。閣下に心酔する連中が閣下のお心を自分たちの良いように忖度したんだよ。ティンバーレイク公爵閣下も王弟殿下と思い合うティンバーレイク公女を引き裂くことなど本当はしたくないはずだ。ならば自分たちが解決して差し上げなければ…ってね」
「解決、でございますか?」
「そう。折よく君が茶会で王弟殿下とちょっとした騒動を起こしてくれたからね。それに乗じて君を悪者に仕立てて、イーグルトン公女は王弟妃には相応しくない、やはりティンバーレイク公女こそが相応しい…って世論を持って行こうとしたんだよ。世論が動けば天秤の重さも変わるからね」
揺れ動く天秤を表すように、長兄が人差し指を立ててゆっくりと左右に振った。
「それがあの、騒動でございますか?」
「そう。君の悪評を立て、君と王弟殿下の間を険悪にして、あわよくば傷ついた君が自ら隣国へ行くと言い出せば良い、ってね」
長兄が皮肉気に笑い、そうして肩を竦めた。
「はっ………馬鹿にして………!」
ばんっ、と、グローリアはテーブルを叩いた。ティーカップががちゃりと音を立て残っていた紅茶がこぼれたが、グローリアには知ったことではない。ライラックの瞳を怒りで煌めかせ、頬を朱に染めてグローリアは叫んだ。
「そんな、そんな思い込みの身勝手のためにその不届き者たちはわたくしの大切なお友達を傷つけましたの?ドロシアを傷つけ、サリーに怪我を負わせ、モニカを余計に苦しませましたの!?」
なぜ、分からないのだろう。公平を重んじるティンバーレイク公爵が無理やりに傾けられた天秤を見てどれほど深く思い悩むのか。自らの思いを大義名分に他者を傷つけられたモニカがどれほど深く苦しむのか。あの優しいふたりの若草色の瞳がどれほどの痛みに歪むのか、なぜ、どうして気づけない。
そうでなければいいと、グローリアは何度も祈った。あの、茶会でグローリアを思いやり微笑んでくれたふたりの瞳が悲しみに沈まねばいいと、どうか傷つかないで欲しいと、どれほど深く祈ったか………。
悔しさに、グローリアの瞳と喉元に熱いものがせり上がった。唇を震わせ荒い息を何とか整えようと何度も何度も深呼吸を繰り返すグローリアに、父は静かに優しい視線を向けた。
「モニカと、名で呼ぶ仲になったのだな」
「……はい。今度、お茶をご一緒するお約束もしておりますわ」
「そうか………」
父は切なげに目を細め、長兄はそっとグローリアの背を撫でてくれた。その優しさにまたグローリアは泣きそうになったが、それよりも胸に燻る怒りの方が強かった。
「どこのどなたでしょう」
「うん?」
「どこのどなたです、皆さまを煽り事態を大きくした元凶は…!」
グローリアの強い怒りはサリーやモニカたちのことだけではない。
自業自得の部分もあるとはいえ、今回の件では煽られ巻き込まれることで輝いていたはずの将来に陰りが出てしまった生徒が多くいた。彼らから将来を奪うにはあまりにも身勝手な、あまりにも視野の狭いその理由に、到底許せるものではないとグローリアは両のこぶしを握り締めた。
「当人たちも、命じられて動いていた学園に通う子女たちも、すでに罰せられているよ。もう、ジジが彼らに学園で出会うことも無いだろうね」
困ったように微笑んで長兄が答えた。ぽんぽんと、握りしめたグローリアのこぶしを労わるように叩いてくれるが、グローリアはその手を逆にぎゅっと掴むと兄に詰め寄った。
「そんなことはどうでも良いのです!!いったい誰が」
「グローリア」
初めて聞くような低く静かな声で父がグローリアを呼んだ。ぴたり、と言葉を止めると、グローリアは父へと視線を向けた。
「国が関わる以上ここから先はお前が踏み込むべきではない。お前の怒りも悔しさもよく分かる。だが、弁えなさい」
そう、言われてしまえばもうグローリアには言えることが無い。国のことだと言われれば、まだ未成年の、ただの令嬢であるグローリアにはそれ以上できることは無い。
大丈夫、巻き込まれただけの子供たちにはちゃんと恩情があるよ。そう長兄が頷き背を撫でてくれたことだけが今のグローリアの救いだった。
「………ひとつだけ、教えてくださいませ」
深呼吸をひとつ、感情を押し殺しグローリアは父へ体ごと向き直った。
「ああ」
「王弟殿下とモニカは、思い合っているのではないのですか?」
グローリアの真剣な瞳に、父は静かに瞳を細めた。父の瞳もまた、グローリアより少しだけ濃い青の混じった澄んだ紫…矢車菊の色だ。
「いや、それは無い。もしそうであれば我々が黙っていない。たとえマシューが公平のために王弟殿下とモニカ嬢を引き離そうとしても、思い合う二人の間を裂くことをイーグルトンの良心が許さない。こちらにはそれを打開する………言い方は悪いが、お前という手札もある」
「ええ、もちろんですわ。そのためならわたくし、隣国にも喜んで嫁ぎます」
グローリアは頷いた。今までは、グローリアの結婚は家のため、国のための政略結婚だと思ってきた。そこに友のためが加わるのなら、グローリアにとってはこの上ない喜びにすらなるだろう。
「ああ、お前ならそう言うと分かっている。だがそうしなかったのは王弟殿下にそのお気持ちが無いと分かっているからだ。…………………昔も今もあの方のお心は…」
「え?」
後半があまりにも小さく掠れて聞こえず首を傾げたグローリアに、父は目を閉じ小さく首を振った。
「いや。あの方はそもそも婚姻自体を望んでいない。先王の弟君でいらっしゃるウェリングバロー大公閣下が大公妃となられるはずだった御令嬢を亡くされ今も独身を貫かれているように、王弟殿下もまた独身を貫き王家と国のためにあることを望まれている。あの方なりに深く国を思われているんだよ、男女の情など差し挟めぬほどにな」
「そう、ですか…」
『駄目ね、お兄様がさっぱりだもの』
グローリアはモニカの言葉を思い出した。言葉も荒く行動も王族どころか貴族らしくも無い、無礼で不埒で、けれども誰よりも美しく優雅で堂々とした王弟殿下。グローリアも、知らぬところで何度も助けられてきた。
これからも王弟殿下はそうやって、不器用に思えるほど自分ではない誰かのために生きていくのだろうか。グローリアの胸が、なぜだか少しちくりと痛んだ。
「ジジ」
「はい、お兄様」
静かに呼ばれ、グローリアは肩を落とし俯かせていた視線をゆっくりと長兄へと向けた。
「友と呼ぶんなら、ティンバーレイク公女をしっかりと支えておやり」
「……ええ、もちろん、ですわ」
これがモニカの言う処遇なのだろうか。ならば確かに、モニカにとってはひとつの罰となるのだろう。この国から、王弟殿下から遠く引き離されるこの結婚は。
ならば今、モニカのためにグローリアにはいったい何ができるのだろう。
―――恋とは、何とままならないの…。
グローリアはきゅっと唇を噛むと、冷めてしまった紅茶をひと口含んだ。こぼれてソーサーに溜まっていた紅茶がカップの底からぽたりとグローリアの膝に落ちたが、ぽたぽたとライラックの瞳から膝にこぼれ落ちていく沢山の雫のせいでよく分からなかった。




