102.ぎりぎりまでは
がたりごとりと馬車が揺れる。共に馬車に乗る父は腕を組んだまま無言だ。強面の父は無言で座っているだけで子供を泣かせることくらいは日常茶飯事だが、これは心配している顔だとグローリアにはちゃんと分かる。手鏡を見れば目の周りの赤味が隠しきれていない。
あの後、大泣きはしなかったがそれなりに泣いて顔を上げるとにっこり笑ったベンジャミンに顔を拭かれて軽く化粧を直された。毎回どこから出してくるのかと思うが、もうベンジャミンだからとそれほど驚かなくなっている。
「これが限度ですね…参ったな。今日は第一騎士団長の所へご案内なのですが」
「お父様ですの?」
「ええ、明るい時間に第一騎士団長の元へお届けするお約束をイーグルトン夫人としているんですが……」
周囲を見れば日が傾き空の色が変わり始めている。またもずいぶんと長く泣いていたようだ。
「仕方ないな…怒られましょう、それも俺のお仕事です。ああそれと、夫人に謝罪のお手紙を書くついでにそろそろ教育をお勧めしておきますので、しっかり学んでくださいね」
「教育、ですの?」
差し出された手にグローリアが反射的に手を乗せると、ふっと笑ったベンジャミンが流れるように歩き出した。
「ええ。一年あればいくらあなたでもまぁ、何とかなると思いますので。……いえ、何とかなっていただかないと困ります」
「はぁ……?」
「俺が教えるのは色々何かと非常に都合が悪いので詳細は夫人に聞いてくださいね」
「はぁ」
さっぱり理解できないグローリアが曖昧な返事を繰り返していると、ベンジャミンが深く深くため息を吐いた。
「とりあえず、誰に誘われても絶対にひとりではさっきの庭園について行かないこと。いいですか?必ず侍女か護衛が一緒の時以外は入らないのですよ?」
「ええ、それは分かりましたわ」
「本当に分かってるんだかなぁ……」
「ベンジャミン様も駄目ですの?」
「一般的には駄目なんですけどね……まぁ、例外で良いですよ。俺なので」
「そうですの……」
あとは夫人に聞いてくださいと言うとまた小さくため息を吐くベンジャミンにグローリアは首をかしげるしかできなかった。
本来であれば騎士棟の奥、第一騎士団長の執務室へグローリアが入ることは難しいのだが、話が通っているのかベンジャミンがいるからかあっさりと通された。
「ベンジャミン・フェネリーでございます。お約束の通り公女様をお連れいたしました。少々遅れましたこと、心よりお詫び申し上げます」
「ベンジャミン様のせいではございませんわ!」
深く腰を折ったベンジャミンの腕を慌ててグローリアが掴むと壁際から「ひっ」と声が上がった。振り向けば父の表情が完全に怒っている。悲鳴は壁際に控えていた父の側近の騎士のもののようだ。
「わたくしがベンジャミン様にお時間をいただきましたの、怒らないでくださいましお父様」
「いえ公女様、閣下がお怒りなのはそこではないと思いますよ?」
両手を組み必死に首を横に振り訴えるグローリアにベンジャミンが頭を下げたまま苦笑している。「え?」とグローリアがまた父を見ると、父は顔をしかめたまま大きなため息を吐いた。
「顔を上げて欲しいライリー子爵。少々言いたいことはあるが無事に送り届けてくれて感謝する。だが……」
顔を上げたベンジャミンをじっと見据えると父が目を眇め、地響きのような声で言った。
「ふたつ、だ」
執務室内の空気がぴしりと固まった。執務室内で働いていた騎士も事務官も皆俯き目を逸らしている。ただひとり、ベンジャミンだけが涼しい顔でにこりと笑った。
「閣下、お戯れを」
「不満か?」
「まさか」
執務机に組んだ腕をつき少し上目遣いにベンジャミンを見る父の目は恐ろしい。泣いた子供もきっと黙る。普段と大差ないように見えるがこれはかなり不機嫌な顔だとグローリアには分かる。ふたつの意味は分からないが。
「無いことも無いだろう」
「必要とあらば、です」
どこまでもベンジャミンの穏やかな微笑みは崩れない。後ろ手に手を組み背筋を伸ばしてにこにこと穏やかに話すベンジャミンに、小さなため息を吐き父の方が先に目を逸らした。
「まぁ、先は先だ」
「ええ、ぎりぎりまでは」
「分かっている。下がって良い。娘は私が連れ帰る」
「心から感謝いたします、閣下。では公女様、また」
特にベンジャミンが咎められるわけでは無いことに安心し、グローリアは淑女の振る舞いもすっかりと忘れてベンジャミンを真っ直ぐに見上げ、にっこりと笑った。
「はい、ベンジャミン様、また」
ざわり、と執務室が揺れる。その様子に「ライリー子爵ですよ、グローリア様」と小声で言うと苦笑し、ベンジャミンは優雅に一礼するといつもの微笑みを残して執務室を出た。
その後ろ姿を見送っていると間を置かず父も執務机から立ち上がった。
「行くぞグローリア」
「え、もうよろしいのですの?」
「ああ、今日はもう片づけてある。……あとは任せたぞ」
「「「はっ」」」
父が軽く片手を振ると、固まっていた執務室の面々がぴしり!と騎士の礼をとった。
「皆様、ごきげんよう」
グローリアも背筋を伸ばしスカートを摘まむとふわりと軽く膝を折り優雅に微笑んだ。
そのまま相も変わらず眉根を寄せた父に促されグローリアが執務室の扉を出た後、執務室の面々が何とも言えない表情で顔を見合わせていたことをグローリアは知らない。
そのまま父に連れられて馬車に乗りこうしてごとりごとりと揺られているが、向かいに座る父は馬車に乗るまでも乗ってからも全く口を開かない。怒っているのではなくいつものことなのでグローリアも目の赤味を確認した手鏡をしまうと窓の外へと目を向けていた。
「グローリア」
「はい、お父様」
珍しく父が口を開いた。振り向けば、不機嫌そうに顔がしかめられている。これは考えている顔だ。少し考えてグローリアを見ると父は小さく首を傾げた。
「ライリー子爵は……フェネリー殿は良い方か?」
「ええ。お父様の次に頼りになる方ですわ」
「そうか、私の次か………」
父の眉間のしわが減る。グローリアの答えが気に入ったらしい。またも考えるように下を向くと、口元にこぶしを当ててぽつりと何かを呟いた。
「方向性を考え直すか……?」
「お父様?」
「いや、良い。家に着くまで少し休みなさい。帰れば騒がしくなるぞ」
「はい?騒がしくですの?」
次兄はたまに騒がしいがそれほど騒ぐ家族でもない。それきり黙った父にグローリアは不思議に思ったが、イーグルトン公爵邸についてすぐにグローリアはその理由を知ることとなった。




