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ユリ揺られツツジ咲く

作者: 遠山勇

 ん~、と伸びをして重たい瞼をこすり、ベッドを降りて洗面所に向かう。バシャバシャと顔を洗ってまた、ベッドにドカッと腰を下ろした。なぜ日曜日にかぎって、目覚ましもかけてないのにこんなに早くに起きてしまうのだろうか。少し憂鬱になる。

 少しだけ日の光がさしてこんでいるのが気に食わなくて俺は、立ち上がって思い切りカーテンをあけた。まぶしさについ目を閉じ、あけるといつもと変わらない明るくて静謐な景色が広がっていた。

 窓を開けアパートの猫のひたいほどの庭に出ると隅のほうに小柄な赤と白のツツジが咲いていた。

 赤と白のツツジ……。

 俺は何かを思い出しかけ小さな庭の隅まで行ってしゃがみ、ツツジを眺めてみた。

 そうだ思い出した。懐かしい思い出だ。

 あれは高校二年の夏の終わり……。


 ユリ揺られツツジ咲く


 *

「バッチこい」

 威勢のいい掛け声とともに夏のきつい練習が始まった。もう夏も終わるというのに何でこんなにつらい思いをして練習しなくてはいけないのだろう、と思いながらも他の野手に合わせて声を上げる。僕たち光透高校野球部は今年、新しく顧問になった三谷原コーチとともに甲子園を目指している。三谷原コーチは昨年まで県でトップを維持している高校で顧問をしていた。そんな三谷原コーチの練習メニューは昨年まで地区予選負けの僕ら光透高校野球部には少し手に余る。それでも無我夢中で練習していると、きつい練習も早く感じられた。

「おい、修平。これからみんなで駅の隣にできた新しいラーメン屋行くのだけれど行かない?」

 グラウンドの隅の水飲み場で水を飲んでいると先輩にこえをかけられた。僕に声がかかるのは久々だな。

「あ、すいません。僕今日はちょっと…。」

「ちぇ、またかよ、たまには付き合えよな」

「すいません。今度は行きます。」

 僕は大きな声で、遠ざかる先輩に声をかけた。

「まいいや。それじゃあそのほかで行こうぜ」

 先輩の皮肉まじりの言葉を横耳で聞き、急いで自転車にまたがり、そそくさとその場を後にした。

 錆びかけた自転車で木漏れ日のかかった曲がり角を曲がり、風を肌で感じながら、ああ、これで八回目かそろそろ行かなくてはな、と心の中でつぶやいていた。

 僕は花を眺めるのが好きで今年に入ってもう八回も先輩のお誘いを断っていた。それも花を見るのが好きだということを皆に知られたくないがゆえに「家の用事」といかにも嘘らしい嘘をついて。

 キキ―、という僕の錆びかけている自転車の音を聞いて花屋のおばちゃんが出てきた。

 花屋のおばちゃんは年齢を聞くといつもかわいらしい笑顔でにやにやと「二十三歳」というものだから、実年齢は分からないが多分、六十ぐらいだろう。

 僕のお父さんは植木屋で家にはたくさんの植木が並んでいた。小さいころその植木の花をよく見ていたせいか僕は花に惹かれる。高二の男子が何言っているのだか、と言われそうだから皆には内緒にしている。なんで花にそんなに惹かれるのかは、僕も知りたいぐらいだ。ただ、あのなんとも言い難い甘美な花の香りと何物もを寄せ付けないほど美しい姿は何時間眺めていたって飽きないものだ。

「また来たのかい、それにしても花が好きだねぇ。私の娘もこれぐらい乙女だったらよかったのにね~」

 おばちゃんがにやにやしながらいうものだから、僕はちょっとむっとしながら自転車を隅のほうに止めて、中に入った。

「今日は何が入荷したのですか」

「え~と、どれどれ、今日はマリーゴールドとポーチュラカ、ユリ、それにアガパンサスかね」

 おばちゃんが説明しているのを横耳で聞きながら僕は今日入ってきたばかりの花々のいい香りがする最前列の棚を犬のようにクンクン嗅いで幸せな気持ちに浸っていた。この花はまた夏が終わって秋になると枯れてしまって死んでしまうのかと、おばちゃんに聞いたことがあったが、その時もおばちゃんはにやにやしながら「はは、死にゃしないさ、いずれは枯れてしまうけれど枯れる前に受粉して種を作り子孫を残していくのさ。それにこの子たちはお前を幸せいっぱいにできて喜んでるで~」と言ってくれて僕までうれしくなったことがあった気がする。

「それじゃ、わたしゃ中で仕事があるから、いいのが見つかったら声をかけておくれ」

 おばちゃんは一通り花の説明を終えた後、奥の部屋へとつながる暖簾をくぐって行ってしまった、と、またすぐ顔を出して「安くするかね」と言いニコッと笑ってまた暖簾の奥へと姿を消した。

 本当に優しい人だなと思った。僕は小学生の頃におばあちゃんをなくしていて祖母の優しさをあまり肌で感じず育ってきたので、おばあちゃんが生きていたら花屋のおばちゃんぐらい優しいのかなとか、おばちゃんに僕のおばあちゃんになってもらってはいけないかな、など、花を見るのを楽しみながら考えていた。

 しばらくすると、お店の扉を開ける鈴の音とともに一人のお客さんが来店してきた。いつもこの時間は、お客さんはほとんど来ないので、誰だろうと思い横目でチラっと顔を覗くと自分と同い年ぐらいのポニーテールの女の子だった。その女の子はチラチラと周りを見渡して最前列の棚にある今日入荷したばかりの特別な香りのする花の前で立ち止まった。そして、困ったような顔をして花とにらめっこをし始めた。僕の学校は町で唯一の高校だし田舎なものだから、一学年にニクラスしかない。なので、一年か二年も経てばみんな知り合いになる。この女の子を僕は見たことがないので違う町からわざわざこの街に来たみたいだ。いつもは自分から話しかけるなんてことはしない僕だが、今日はなんだか花のいい香りをかいだせいか、また、女の子が花を好きなのかもしれないと思ったせいか話しかけたくてたまらなくなった。

「どんな花探しているの」

 え、と驚いた表情をした彼女を見て話しかけたことを少し後悔した。

「え、ええと、今度お父さんのお墓参り行くんだけど その時の墓花を探しているの」

「お父さんの……」

 僕は独り言のようにぼそっとつぶやいた。

「そう、四年前に交通事故で亡くなっちゃったの。今回は母が忙しいから私一人でお墓参りに行くの」

 彼女の顔は隠し切れない悲しみであふれていた。

「ごめん。そういうつもりで聞いたわけじゃ」

「うん、大丈夫」

 彼女はそうつぶやいたが、弁解しようとする僕を見る目は冷たかった。

 その後、数秒気まずい空気が流れたが、おばちゃんが暖簾をくぐって出てきてくれたので少しほっとした。

「あら、いらっしゃい。どんなお花を探しとるのかい」

「お墓参りのお花だって」

「おや、修ちゃんとこの学校の子かい」

「いや、今しがたあって話したんだ」

 僕はちょっと照れ臭くなってモゴモゴっと話した。

「修ちゃんが知らない子と話をするなんて珍しいじゃない」

「ち、違うよ。お花選びで困っていたから」

「そうかそうかい」

 おばちゃんがにやにやしながら目を細めて見てきた。

 そんな僕とおばちゃんのやり取りを見てポニーテールの女の子は僕と会って初めて笑顔を見せた。

 優しい笑顔だと僕は思った。

「あなた名前はなんていうんだい」

 しまった。そういえば名前も聞かないでいたままだった。

「福島夜露です」

 女の子が言った苗字に聞き覚えがあった。

「福島ってもしかして」

 たしか僕のクラスの英語の担当の先生が福島だった気がする。

「君のお母さん光透高校で英語の先生やってないかい」

 都会なら福島なんて苗字いくらでもいるかもしれないが、こんな田舎で苗字がかぶるのなんて佐藤か田中くらいだ。

「え、光透高校なの」

 夜露は予想していなかった単語が出てきて少し驚いた様子だった。

「やっぱり少し似ていると思ったんだ」

「うそ、あんな怖い顔してない」

 夜露は少しむっとした顔で、しかし、さっきより明らかに明るい顔をして言った。

「ほら、その起こった顔なんて、僕が授業聞いてないときの福島先生にそっくりだよ」

 僕が茶化すように言うとさらに福島先生に似ている顔でむっとした。

「わっはっは、楽しそうでいいのう」

 僕と夜露の会話を満面の笑みで眺めていたおばちゃんが大声で笑った。そして、よいしょ、とちょっと大袈裟に言うと、近くにあるいつもは花が入っている空箱を手繰りよせて腰を下ろした。

「わたしゃ村田明子ちゅうもんだ。ここで二十年近く花屋をやっとるんじゃ、そしてこいつは宮崎修平。よく私んとこの花屋に来るんじゃよ。そしての…」

「おばちゃん、仕事があるんじゃないんですか。この子…よ、夜露の花選びは僕に任せてください」

 おばちゃんのいつもの長話が始まりそうだったのでおばちゃんの声を遮った。

「あら、年寄の話は聞きたくないってのかい」

「いやそういうわけでもなくて」

「嘘よ、私もこう見えて暇じゃないんだから」

 おばちゃんは空箱から重たそうな腰を下ろすと夜露ちゃんの花選びは任せたわよ、と言い暖簾をくぐって隣の部屋に姿を消してしまった。

「はい、任せてください」

 内心少しほっとして小さなため息が漏れた。

 二人取り残された僕らはお互い顔を合わせず少し静寂が続いた。

 先に口を開いたのは夜露だった。

「明子さん、優しい人なんだね」

「そうなんだよ、僕が花を買わない日でも迷惑がらないで最後まで話を聞いてくれるんだよ」

「ふーん」

 夜露はおばちゃんの姿が消えていった、まだ揺れている暖簾の方を眺めながらつぶやいた。

「お父さん白が好きだったんだ」

「あ、そうだった、花選び手伝うんだった」

 僕は少し慌て頭に手をあてて考えるふりをして今日入荷したばかりの最前列の棚に向かった。夜露も重たそうなかばんを持ってついてきた。

「お墓参りでは、大抵は季節を代表する花を使うんだよ。今は夏だからユリなんかがいいんじゃない」

 僕は夏に咲く花の中でユリが一番好きだ。綺麗な緑色の茎に色とりどりの繊細な花弁、異色を放つ雄蕊の色彩は目が離せなくなる。人間でいうところの美人なのだろう。

「ユリなら私も知っている。白い花でしょう」

「そう、でも白以外にもピンクや赤、紫なんかもあるんだよ」

 僕は好きな花の話ができて少し得意げになりながら話した。

「すごい詳しいんだね、私のおじいちゃんも植物が好きだったから少しは知ってるつもりだったんだけどな」

「え、そうなの、じゃ僕と夜露のおじいちゃんは話が合いそうだよ」

 冗談めかして言うと夜露もニコっとした笑顔を見せてくれた。

「実はね、さっきお店に入ってきたとき一番綺麗だなって思っていたの」

「ほんとに、僕もユリは大好きだよ、この甘くて濃厚な匂いは最高だよ」

「意外と私は花を見る目があるのかもね」

 僕たちはたわいもない会話をしながら花選びを楽しんだ。しばらく経つと奥の暖簾が、ゆさっと揺れ中からエプロン姿のおばちゃんが葉っぱまみれになりながら出てきた。

「どれどれ、どんな花を選んだんだい」

「ユリにしました。白いユリ。夜露もユリが綺麗だって言っているし、今の季節ならユリかなと思って」

「ほう、いいのを選んだね。流石、いつも来ているだけのことはあるじゃない」

「あの、これ値札が付いてないんですけど」

 夜露がいつも以上にニコニコしているおばちゃんにカバンの奥の方にある財布をガサゴソと取り出していった。

「いいよいいよ、今日は私からのプレゼントってことで」

 おばちゃんは財布から小銭を出そうとする夜露の手を押さえて言った。夜露は笑顔で僕の方を向いてから「ありがとうございます」とおばちゃんに軽く頭を下げた。

 その後、少しして再度、おばちゃんにお礼を言って、お店を後にした。

「今日はありがとう。また今度ここに来た時もよろしくね」

「うん、任せてよ、僕は年中ここにいるから」

 バイバイ、と手を振る夜露が見えなくなってから僕も錆びかけた自転車にまたがった。


 *

 夜露と会った次の日、二時限目の英語の授業の後、僕は福島先生のとこへ走っていった。

「フックさん、フックさんって娘がいたんですね」

 福島先生は高校二年生の僕より背が高く、健康診断に引っ掛かりそうなほどすらっとしている。面倒見がいい先生で男女ともに人気が高く、光透高校の生徒からは「フックさん」の愛称で親しまれている。

「あら、言ってなかったかしら。一人娘がいるわ。でも、なんで修平君が知っているの」

「実は昨日フックさんの娘と会ったんです。僕が二丁目の花屋にいたら、お父さんのお墓参りのお花を買いに来て、その時会いました」

「なるほどね、夜露と会っていたんだ。じゃ、夜露が持っていた綺麗な白いユリも二人で選んだのね」

 福島先生は教科書を閉じカバンを持ち上げた。

「そうです。花選びは僕の得意分野ですから」

「そうだったわね、植物大好きだものね、修平君」

「はい」

 福島先生は光透高校で唯一、僕の秘密を知っている人だ。

「夜露ね、少し離れた高校に通っていて、地元に友達がいないっていつもつぶやいてるから、友達になってくれると嬉しいな」

「もうすっかり友達になりましたよ」

「あらよかったわ」

 先生と僕は次の授業が始まるまで、昨日の出来事や夜露のお父さんについて話していた。

 しばらく話していると、三時限目開始五分前のチャイムが鳴ったので、この話はまた今度ね、と言い福島先生はスタスタと歩き出した。

「先生、夜露に僕はいつも花屋にいるから、また来なよ、と伝えておいてください」

 速足で廊下を歩く先生に、僕は少しためらってから言った。先生は分かったわ、と言い、遠くで両手のまるを作った。なぜかこの時、ああ、親子は似るものだな、と思った。


 *

 それから数週間がたった土曜日、いつものように三谷原コーチの厳しい練習メニューを終えて、汗だくの顔をグラウンドの隅の蛇口で洗っていた。蛇口から出る冷たい水は、とても気持ちがよかった。照りつける太陽はギンギンと輝き少しずつ僕らの体力を奪っていく。

「おい、しゅう」

 急に呼ばれて体がビクっとなった。横を見ると、同級生で同じ野球部の山田一が僕と同じように頭から冷たい水をかぶり、気持ちよさそうにしていた。

「しゅう、今日さ、飯みんなで食べに行くんだけど久しぶりに来ない?」

 一はちっとも僕の顔なんか見ないで気持ちよさそうに水を浴びながら言った。

「ごめん。今日は用事があるんだ」

 こんな風に同い年の子から誘ってくれるのは珍しく少し回答に迷った。

「そっか、残念。」

 ボソッと一が言うものだから少し罪悪感じみたものを感じる。

「でもさ、しゅう、いつもいつも用事っていうけど、なんの用事なの。なんかさ部活では聞いたらいけないみたいになっているから誰も聞こうとしないのだけど、俺、気になっちゃってさ」

「そうなの」

 まさか聞いたらいけないタブーになっているとは知らなかった。確かに最近、理由を尋ねられることはめっきりなくなったし、誘い自体も少なくなった。それはそうか、あまり自分では気にしたことないけど、もし「家の用事」なんて濁らせかたをしているやつがいたら嫌な想像の一つくらいするかもしれない。仕方ないけど、そろそろ隠しておくのも限界なのかもしれない。こいつになら、そう思い、顔についた、汗なのか蛇口から出てきた水なのかわからない水滴を、ブルブルっと振り落としてから、まだジャブジャブ顔を洗っている一の方を向いて言った。

「これ、誰にも言うなよ」

「ん、うん」

 一はチラっと、僕の方を見ただけで、まだ顔を洗っている。

「実はさ、植物が好きでよく二丁目の花屋に行っているんだよ」

 一は、え、と言いきょとんとした顔で僕のことを見た。そして、ざばざば水が流れ出ている蛇口を閉め、ふふっ、と鼻で笑った。

「なんだよ、そんなことかよ。みんなに話すと茶化されると思って言わなかったのか」

 もしかしたら馬鹿にされるかもしれない、と思っていた僕の予想とは裏腹にまじめな顔で言われたので少しほっとした。

「うん」

「俺さ、てっきり嫌われてるのかなと思ったよ」

 ふー、と言い、タオルで顔を拭きながら声のボリュームを上げて言われた。

「そんなわけあるか、僕は嫌いな奴には嫌いっていうタイプだってお前も知ってるだろう」

「そうだった。そして、女の子にも弱いってこともね」

 一がからかってくるので、ホースで水をかけてやった。

 誤解が解けてなんかほっとした。これならもっと早くに話すべきだったのかもしれない。

 二人で水をかけあっているとグラウンドから、三谷原コーチの図太く大きな声が聞こえてきた。

「おいこら、お前らミーティングするから早くこんかい」

 僕らは急いでホースをしまい、三谷原コーチを囲んで輪になっているみんなの方にかけだした。

「しゅう、みんなに言わないから、次誘ったときは来いよ」

「うん、考えとく」

 走りながら会話する僕たちを照らす太陽は、相変わらずギラギラ照り輝いている。

 雲一つない空は、どこまでもどこまでも広がっていて、壮大で、蒼穹で、まるで、僕の感情を表現しているかのように。


 *

 あれからも僕は二丁目の花屋に通い続けた。一と話してから約一か月がたったある日、いつものように、きつい午前練を終え、錆びかけた自転車を隅に止め花屋に入ると、ポニーテールの横顔の可愛い女の子が、最前列の花を眺めていた。

「……夜露」

 久しぶりに会って、なんて声をかければいいのかわからず、咄嗟に口にできたのはこれくらいだった。

「久しぶり。もうすぐ来るんじゃないかって明子さんと話していたの」

 夜露は色とりどりの花を眺めながら、入って来た時から気づいていましたよ、といわんばかりの笑みを浮かべている。一か月ぶりに見た彼女は、なんだか少し大人になっているように感じた。夜露と最初に会ったときの、あの哀しそうな顔はなく少し安心。女の子は、哀しんでいる顔より、笑っているときの顔の方が断然可愛い。なんかそう思った。

「ひさしぶり、でも偶然だね。僕もたまたま久々に来てみようかなって思ったんだ」

「もう明子さんに聞いちゃったもん。毎日来ているんだってね」

 あの人~と、心の中で唸った。別に知られたくなかったわけではないのだけれど、夜露になら、別にいいと思っていたのだけれど、でもやっぱり照れ臭い。

「誰にも言わないって約束でしょう、おばちゃん」

「夜露ちゃんには特別じゃ」

 奥の部屋から花々の茎を切るパチン、パチンという剪定ばさみの音とともに声が聞こえてきた。

「おばちゃんってば、もうおしゃべりなんだから」

「……それに、私のお母さんに、いつでもきな、なんて言っているじゃない」

 さっきからずっと同じ花ばかり見つめている夜露が、ボソッと呟いた。

「そ、そういえば、そんなこともあったっけ」

 あの時のこと少し後悔しながら、さらっと――本当は内心、嫌だったかなとか、怒っているのかなとか、焦りに焦っていたので、さらっと、なんてことは全然ないのだけれど――言った。でも、全然夜露は気にしてないようだったのは、その後、楽しく会話できたことから予想できた。あるいは、気にしている素振りを見せなかっただけかもしれないけど。

 楽しい時間というものはあっという間に過ぎてしまうもので、気づいたころには、もう夕方になっていた。夜露とは、自分の過去の話だとか、地元の話だとか、親の話だとか、これから襲いかかってくる受験の話だとか、僕の花知識自慢とか、沢山沢山話した。女の子、苦手なんじゃなかったのと、自分を疑いたくなるほど会話していた。同級生が誰もいなかったから?おばちゃんの前だから?自分の趣味の話だったから?かは、分からない。昼間はギラギラした目で僕らを睨みつける太陽も、西の空に沈みかけると色を直して、淡いオレンジ色で僕らに微笑みかける。喜怒哀楽の激しいこと。

 ゆうやけこやけ、のチャイムが少年少女の帰るのを手伝う頃、僕らも帰り支度を始めた。僕は、さっきからずっと考えていたことを、やっぱり口にすることにした。

「もしさ、気に入ったのがあれば買ってあげる」

 やっぱり言ったこと少し後悔した。

「ほんとに?ありがとう。何がいいかな」

 気に入ったのがあれば、って言ったのに、とツッコミたくなったが、でも真剣に選んでいる夜露を見たらそんなことも言えない。

「……これは?」

 僕は真っ赤な菊を指さして言った。精密で繊細に並んだ小さな菊の花弁は、自然にできたものとは思えない程、美しい。菊は、長寿の象徴として知られている。僕ら人間の方がずっと長生きなのに。

「わ、綺麗。これがいい」

「うん、じゃそれにしよう」

 僕は赤い菊とポケットに入れておいた小銭をおばちゃんに渡した。おばちゃんは菊を綺麗に包み、僕におつり、夜露に素敵に、素敵に包まれた紅色の菊を渡した。僕は少し照れながら、ドキドキしながら見ていた。夜露は白くて綺麗な手で紅色の菊を受け取り、ありがとう、って微笑んだ。微笑んでくれた。「微笑む」という表現がこんなに似合うのは、多分世界でこの人だけのような気がする。

 夜露は遠くからきているので「そろそろ行くね」と言い、重たそうな荷物と、紅色の菊を抱えて花屋を後にした。残された僕は、角を曲がってもう見えなくなってしまった夜露の後ろ姿を黙ってみている。花屋の花はあたりが暗くなっても変わらず色とりどりに甘美だ。でも、あの紅色の菊には到底勝らない。


 *

 あの日からどのくらいの日々を過ごしたかは、わからない。でも僕は、毎日毎日あの日のことを思い返している。言いたいことを言えたような、それでして、まだ、ムズムズする感覚を、毎日毎日想う。あの日、夜露が花屋を後にしてから、少しおばちゃんと言葉を交わし僕も花屋を離れた。その時、おばちゃんと何を話したかなんて、覚えているはずもない。考えたいけれど考えたくないあの日を想い返さないように、最近、植物のことも考えないようにしている。花屋にも近頃——近頃というよりは、あの日以来といった方がいいかもしれない——全然行っていない。かといって他に行くあてもない僕だが、一に「今日はどう?」と誘われた時も、花屋に行くのはこれで最後だから、と言って断り、そのまま帰宅してしまった。それ以来、僕にはまだ遊びへの勧誘はない。単に遊びがないだけかもしれないし、そうでないかもしれない。後悔はない。ちょっと悲しかったけれど、次の断る理由を探さなくて済む。それに僕が行ったところで特に何も変わらないかもしれない。だから、別に後悔はしていないって。今日もなんとなくあの日のことを考えている。

「おい」

 僕は一限目と二限目の間の休み時間に、一人でぼーと、次の授業の準備をしていると、一に声を掛けられ、ビクっとなった。一とは同じクラスだが特に一緒に行動はしていない。クラスにもいくつかグループがあり、一と僕は違うグループにいるので会話することも多くはない。一から「おい」なんて声をかけてきたのなんか、三谷原コーチに二人で呼び出しを喰らったときだけだ。

「な、なに?」

「しゅう、最近どうした?ぼーとしていること多いぞ、部活でもエラーばっかりだしよ」

 すこしイラっとした。確かに最近エラーが多いし、授業にも全然集中できない。でも別にぼーとしているつもりはないし、いつもふざけている一にそんなこと言われたくない。なんで最近うまくいかないのか自分でもわからないでいるのに、それを指摘されて腹が立った。一に当たっても何も解決しないことは分かっている。

「どうもしてねーよ」

 どうもしてる。どうもしてないことなんて絶対ないけど、とりあえず一に従いたくなかった。それに今は、ほっといてほしい。お節介にも程がある。僕は席を立ち、その場を離れようとした。

「いや、どうかしているよ。いつもと違うじゃん。なんかあったら言えよ」

 その場を離れようとする僕の手首を、これでもかというほど強く掴んで、まっすぐ僕のことを見てきた。いつも友達とワーワー騒いでいるくせに。そんな目でみるな。そんなキャラじゃない。いつも空気読めなくて、誰かに注意されるまで気づかないし、部活でも一番三谷原コーチに怒鳴られている。そんなお前がこんな台詞言うな。

 はなせよ、と怒鳴りたかったが、「喧嘩?」「どしたの?」と言うひそひそ声が周りから聞こえてきたので、強くつかまれて爪痕がついている手を振り払い逃げるように教室を出た。逃げ込んだトイレの個室で僕は頭を抱えていた。別に一に腹を立たせる理由なんてない。頭の中を探してもそんな理由なんてどこにも見当たらない。はたして誰に対して怒っているのか、腹を立たせているのか、全然わからない。そもそも最近なぜ全然集中できないのか、なんでエラーばかりなのか、その原因すら分からない。多分こうして一人、トイレの個室で頭を抱えていても、なんの答えも出てこない。解決なんてしない。のは、分かっているのに、なかなかトイレの個室から出てくることが出来なかった。

 二時限目の授業が始まってからずいぶん長い間——あるいは五分だったかもしれないが——、僕はトイレの個室で頭を抱えていた。二時限目の英語、福島先生の澄んだ声がトイレの個室にまで響き渡る。開けっ放しの窓からは、何種類もの鳥のさえずりが聞こえてくる。綺麗な福島先生の声と、色とりどりのさえずりを聞いていると、なぜトイレの個室で頭を抱えているのかさえも、よくわからなくなってきた。高校の授業は半分以上椅子に座っていないと欠席扱いになってしまう。ここに逃げ込んでから状況は何も変わらなかったし、なんの回答も得られなかったのだが、ひとまず教室に戻ることにしよう。そう思える前向きな気持ちぐらいは、取り戻せた。

 教室に戻ってからも、集中はできなかったものの、苛立ちはおさまっていた。


 *

「修平君」

 授業終了のチャイムが鳴り、皆が三々五々席を立ち始め、僕も教科書を閉じようとしたとき、福島先生がいつになく、真面目な顔で僕の名前を呼び、手招きしている。席を立ち近づいていくと、何から話そうかと迷っているのか、う~ん、と、下を向いていた。

「これからする話は、まだ誰にも話してないから言わないでね」

 念を押された。福島先生は、色々な面白い話をしてくれる。例えば、三谷原コーチの職員室での失敗エピソードとか、教頭先生の変な口癖とか、である。そんな福島先生が、僕だけを呼んで、しかも、念を押してくるなんて。

「……私ね、再婚することになったの」

 想像していた話の随分と斜め右な回答だ、これは。いや、斜め左か。でもなんでこんな話を僕だけに。映画だったら、しんみりした空気で元夫にでもつぶやくセリフだぞ。

「お、めでとうございます」

「ありがとう。それでね、再婚したら、英語の先生も辞めようと思うの。夫の仕事の関係で東京に住むことになったのよ」


 ……え。

「今日ね、引っ越しが少し早まるのが決まって、新しい学校のこともあって、夜露には先に新幹線で東京に向かってもらうことにしたの。ごめんね、夜露と仲良くしてくれたのに最後に挨拶もできなくて。それを今日、伝えたかったの」


 …………え。

 先生の話に頭が追いついていかない。

 様々な情報を一度に言われ、頭の中が情報で雑踏としている。でも、でも、もう夜露には会えないということは確かみたいだ。そう思うと、少し……悲しいな。少し。


 ……お店の扉を開ける鈴の音とともに一人のお客さんが来店してきた。

 ……自分と同い年ぐらいのポニーテールの女の子だった。

 ……優しい笑顔だと僕は思った。

 ……女の子は、哀しんでいる顔より、笑っているときの顔の方が断然可愛い。

 …………微笑んでくれた。

 …………。


 そう、あの時、僕に微笑みが似合う笑顔で、笑いかけてくれたのは夜露だ。

 そこに素敵な笑顔だと思う僕がいたんだ。

「修平く」

「先生!」

 僕の名前を呼びかけた福島先生の声を遮るように言う。先生は驚いた顔をしているが、それでも僕は続けた。

「新幹線は、もう出発してしまったのですか?」

「い、いえ、まだのはずよ。確か、十一時半発だった気がするわ」

「何駅からですか?」

「畠山駅だったと思うけど、修平君まさか……」

 僕は先生の言葉が終わる前に駆け出していた。

 三時限目開始のチャイムが構内に鳴り響くなか、僕は誰もいない静まり返った廊下を駆け抜ける。畠山駅までは歩いて一時間半はかかる。三時限目開始は、十一時。新幹線が出発するまで三十分しかない。それでも、僕は間に合うと信じて走る。階段を一個飛ばしで駆け下り、上履きを脱ぎ捨て、急いで靴を履き、校庭へと飛び出す。外は今日も蒸し暑く、相変わらず太陽は容赦なく僕らを睨みつけてくる。トイレの個室に色とりどりのさえずりを届けてくれた鳥たちは、お昼寝の時間か、今はアブラゼミのけたたましい鳴き声しか聞こえない。

 校庭を、抜けると毎日通っている通学路が見えてきた。僕はその道とは逆方向に伸びている細い道へと入った。僕ら光透高校からの最寄り駅と畠山駅は路線が違い乗り換えもできない。しかし、この辺で唯一、新幹線が止まる駅なので光透高校生で畠山駅を知らない人はいない。

 細い道を抜け、少し行くと、なだらかな山が見えてきた。この山を越えた先に畠山駅はある。後はこの山を登って下るのみ。

 走っている僕の息は乱れ、もう口でしか呼吸はできない。履いていた靴はどこで脱げてしまったのか、僕は破けた靴下で走っている。

 なんで今まで授業に集中できなかったり、エラーしてばかりだったり、一に苛立ってしまったのか、そして今、なんで学校を抜け出し、こんなにまで息を切らしているのか、分かった気がする。いや、最初から分かっていたのかもしれない。わかっていてそれを後悔しているから認めたくないだけだったのかもしれない。あの日、言葉で、笑顔が素敵だって、好きだって、伝えればよかった。それが出来なかった自分に苛立ち、そんな自分が嫌いだった。

 夜露に会えなくなる今、チャンスは一度きり。

 もう濁さない。

 夜露に、言葉で伝えたい。言葉で。返事がどうであれ。

 走った。僕は走った。途中、車の一台でも通れば乗せてもらおうかとも思ったのだけれど、こんな山道、車なんて通るはずもない。こんな時でも太陽は僕の見方にはなってくれない。誰かさんみたいに、暴君に歯向かうほど勇敢で、強靭な肉体を持ち、沈みゆく太陽の十倍の速さで走れたらどんなにいいことか。カンカンと照り付ける太陽は、僕の意識を徐々に奪っていく。脱水症状で何度も意識が飛びかける。何度も足が止まりそうになる。足が縺れて何度も何度も転んだ。でも、一度も諦めようとは思わなかった。七転び八起き。汗で透けた白いワイシャツにジワリと血が滲む。滲んだ血と汗が、向かい風に煽られ、ひんやりと僕の肌に触れ後押ししてくれる。風が吹くたびに森の木々がザワザワと笑う。確かに僕はみっともないかもしれない。手や肘にいくつもの擦り傷を作り、縺れる足を精一杯動かしている僕はとても滑稽かもしれない。それでも会いたい。

 山を下りきると、畠山駅が見えてきた。遠くからでも確認できる白い流線型のボディーは間違いなく新幹線だ。もう少し。ハアッハアッ。もう少しだ。

 駅はお昼時で雑踏としている。最後の急坂を駆け下り、僕の姿を見て目を丸くしている人々を、両手でかき分けて新幹線乗り場へと駆けだす。駅にはたくさんの飲食店があり、その奥に新幹線乗り場がある。僕は改札口を勢いよく飛び越え、転び、ジンジンと痛む膝をシカトして走る。次の曲がり角を曲がると、階段があり、それを登ると東京駅行の新幹線の改札だ。後ろからは、——多分——顔を赤くした駅員がターンバーを押してこちらに向かってくる。何度も転んでずきずきと痛む足を精いっぱい動かして、僕は最後の階段を駆け上った。

 ぱっ、とあたりが白く、明るくなり僕は眩しくて目をつぶった。しばらくしてからゆっくりと目を開いた。

 そこに、電車の姿は見当たらなかった。もちろん夜露の姿も。

 ああ、間に合わなかった。

 もう夜露には会えない。あの笑顔も隣で笑いあうこともできない。どうしようもないと分かった時の後悔は、とても重く肩にのしかかる。一人では支えきれずに、その場に膝をついた。所詮、僕はこんなもんなのかもしれない。皆と同じように親が決めた人と見合いして、自分が決めた人となんて考えない方がいいのかもしれない。そんな考え、僕なんかには分不相応だ。

 立ち止まり、アドレナリンが引くと一気に疲れが押し寄せてきた。痛みも。気づけば体の所々に、紫色のあざや血が滲み出るかすり傷がある。結局、何にもうまくいかなかったと傷心していると、ドンっ、というひどく鈍い音と重くのしかかるような衝撃を受けて、駅のホームに倒された。押さえつけられながらも振り返ると、ハアハアと、息を切らした駅員が汗だくの体で僕を押さえていた。

「ようやっと捕まえた。無賃乗車しようとして失敗したか。哀れな奴め」

 駅員は、早口で吐き捨てるように言うと、僕が無抵抗なのがわかったのか、僕の上からどき、立てるか、と手を伸ばしてくれた。無言のまま伸ばされた手を取り、立ち上がる。

「どっからきた?」

「田柄から」

「田柄?田柄から歩いてきたのか」

「はい」

「なんてこった。あんなに遠いとこから。まあ、どんな理由があろうが、無賃乗車はするなよ。次は警察へしょっぴくぞ」

「すいません……」

 駅員にお詫びの言葉を述べ、僕は畠山駅を後にした。



 *

 行きに全体力を注いでしまった僕は、帰りは亀ぐらいの速度でしか歩けなかった。西に傾きかけた太陽の仏頂面と全身の打撲のせいで何かを考えることもままならない。歩きながらなぜか、幼かった戦時中を思い出した。まだ、小学生だった僕には知る由もないことだが、あの頃は、共学なんてものはなかったし、恋愛なんて許されていなかった、と聞いたことがある。そういわれれば、あの時は、学校に女の子は一人もいなかった。両親もお見合いであるし、小学校から一緒の一の親もお見合いだと言っていた。男女が二人で歩いていたらおまわりさんに捕まるのだ、と面白おかしく脅されたこともあった。でも、戦争が終わって十年が過ぎたという今でも、根強くその考えは残っている気がする。とっくに共学になったし、恋愛も認められている。ちょっと前までは、敗戦国民としてやらなくてはいけないことが沢山あった。だが朝鮮戦争が始まってからは、景気が良くなったのか、割と落ち着いてきている。

 この前、先輩が、自分の意思で将来を約束する人ができた——それをアメリカの言葉でガールフレンドと呼ぶのだと後で一に聴かされた——、と言ったときは僕らの間では話題になった。しかし、その続きは悲しいもので、お互いの両親の猛反対——特に先輩の母は泣きながらやめてほしいと懇願したそうだ——で結局、先輩もガールフレンドもお見合い相手と結婚したそう。戦争が終わっても、まだ僕らは誰かを好きになってはいけない。親は口を揃えて結婚のことは両親に任せなさいと言う。ガールフレンドなんか作ってはいけないと言う。僕らが誰かを好きになるってそんなにいけないことなのか。親を泣かせるほど罪なことなのか。僕らに好きな人に、好きだと言える日が来るのだろうか。果たして、こないだろう。夜露に会うまではそう思っていた。こんな僕でも人を好きになれるんだ。夜露のおかげでそう思えるようになった。だから、僕にだって、好きだ、って伝えることができることを夜露に分かってほしかった。でも、もう好きな人に好きだと言える機会はない気がする。夕日と化して淡い橙色で傾く哀しい顔をした太陽を見ていると、そう思われてしまう。

 全身の痛みに耐えながらしばらく歩いていると向こうにユニホーム姿の一が見えた。

「これ、しゅうの靴。来る途中で拾った」

「一……。なんでこんなところに」

「なんでじゃねーよ。学校途中で飛び出しておいて。三谷原コーチもかんかんだぞ。どこいってたんだよ」

 ものすごい剣幕で一に怒鳴られた。

「ごめん。でも俺……」

「ああ、事情はなんとなく知っている。福島先生に訊いたよ。夜露って子と友達だったんだろう?」

「うん」

「それはさ、友達が遠くに行っちゃうのは悲しいかもしれないけどよ、学校飛び出すことはないだろ」

 一、違うんだ。そうではないんだ。

「……僕さ、夜露に何も伝えられなかった」

「え、どうゆうこと」

「急にごめん。僕は夜露が好きなんだよ。僕は、僕が好きだと思った人を好きになりたいんだ。」

「…………、話せよ」

「ありがとう。一は分かってくれると思っていた」

 学校に戻る帰り道、僕は僕が思っていることや想っていることを一にすべて話した。一はいつも、僕の話なんて右から左の耳に流してちっとも聞いてなんてくれないが、今は真剣なまなざしで聴いてくれている。ありがとう。

 一通り僕の話を聞き終えた一は、ふー、と深いため息を吐いて橙色の空を仰いだ。

「えらいな、しゅう」

 一に褒められることも、そんな凛とした瞳で話しかけられるのも初めてで、なんと返せばいいか迷っていると、一はクスっと、小さな似合わない笑みを浮かべた。

「や、だってさ、俺らっていつも親や先生の言うことが正しいと思って生きているでしょう。戦争に負けてからは、親の言う通りにしないと生きていけないって、いろんな人から言われて、確かにあんな状況だったら、自分の意見なんて言ってられないだろう?それがさ、当たり前だったし、当たり前だと思って今まで生きてきたから、俺は今更、自分が好きになった人と結婚したいなんて考えてもみなかったよ。もう、あの頃とは違うのにね。俺はさ、正直そんなこと考えている人のこと、馬鹿だと思っていたよ。伊藤先輩みたいに、結局、何にもうまくいかないのに、なんでそんなことするんだろうって。だから、しゅうはえらいよ。自分の気持ちに正直になれて。俺はそういう気持ち、抱かないようにしていたから。夜露って子にはさ、しゅうの想いは届かなかったかもしれないけど、誰かを好きになって、それを伝えようと学校を抜け出して、こんなに遠いところまで走ったことは……、やっぱりしゅうらしくてえらいよ」

 こうやって正直に人のこと、褒めたことなんてないことがすぐわかるくらい、たどたどしい日本語で一は僕のことを褒めてくれた。

「ありがとう。こんな話したら、馬鹿にされるか、怒られるかと思った。」

「確かになー、こんな状況じゃなかったら、なんか変なこと言っている、くらいにしか思わなかったかも」

「おい、せっかく感動していたんだから、そこは、そんなことないよ、くらいは言えよ」

 そうは言ったものの、一にはほんとに感謝している。僕の思いは明らかに少数派——少数派というよりもほとんどいない、の方が正しいかもしれない——だし、自己中で迷惑だ。それを少なくとも肯定はしてくれた。それだけで僕の気持ちは少し、ほんの少しだけど晴れた気がする。

 それからは、なんの話をするわけでもなく、お互い幼かったあの時のことや、自分たちが思っていること、これから自分たちがどう生きていきたいのか、思いに耽った。

 学校に到着するころには、影を映さないほどには暗くなっていた。

「一、今日はありがとう。それとごめん。朝はあんなに強く当たって」

「いや、俺の方こそどうかしている、とか言ってすまん。それと明日は三谷原コーチのとこに謝りに行かないと。凄い顔していたから」

「だいぶ怒られそう」

「だなあ」

 その後、一言、二言交わした僕らは、夏の終わりを感じる、ひんやりとした夜に姿を隠した。



 *

 一時限目開始のチャイムが鳴り、会話を楽しんでいた僕らは席に着いた。一時限目は福島先生の最後の授業だった。授業と言ってもほとんど雑談で終わったこの時間を、僕らは十分に楽しんだ。授業の終わりには、用意していた寄せ書きの手紙と花束を手渡し、福島先生を泣かせてみせた。

 その日の放課後、三谷原コーチのきつい練習を汗だくになりながら乗り切り、もちろん、僕と一はとんでもないくらいの説教を喰らい、これでもかという程、練習メニューを増やされたのだけど、まあ、そんなことは何ともない、と自分に言い聞かせながらクタクタになった体を何とか動かして学校を後にしようとしたとき、「修平君」と声を掛けられ、振り向くと福島先生が立っていた。

「あ、こんにちは、フックさん」

「こんにちは。今日はどうもありがとう。こんなに素敵な花束とお手紙。この学校に来てよかったわ。」

「その花束は僕が選んだんだ。もちろん素敵に決まっていますよ」

「やっぱり、そうだと思ったわ。こんなに綺麗なお花を選べるのは、修平君ぐらいだものね」

「そんなお言葉をもらえて光栄です。福島先生」

「ふふ、相変わらずね」

 福島先生はまだ、目頭が真っ赤になったままだ。あの後も、みんなで歌を歌ったり、手紙の読み上げをしたり、福島先生を号泣させるには十分すぎるほどの行事があった。

「それで、僕と一に何かお説教でもあるんですか?」

「んー、それもいくつかあるかもしれないんだけど、今回は修平君に謝らなければいけないことがあって」

「……夜露のことですか?」

「そう、修平君ごめんね、夜露と仲良くしてくれていたのに、何にも伝えられなくて。もし今、夜露に伝えたいことがあるなら私が伝えておくわ」

 やっぱり、大人ってなにもわかっていない。福島先生も僕が夜露のことが好きだなんて、考えてはくれていないのだろう。僕と夜露は友達。その概念は大人の中では揺るがないのだろう。本当は、誰にも伝えるつもりなんてなかった。たぶん、大人は誰も理解しようとしてくれない。そう思っているから。でも、もしこの世でたった一人、理解しようと努めてくれる人がいるとするなら、なんだかそれは福島先生のように思える。

「しゅう。なんでだまっているんだよ。言いたいことがあるなら伝えろよ」

 一も同じ考えみたいだ。福島先生ならきっと、という思い。

「……フックさん、僕、夜露のこと好きだったんです。そういう風に思っていたんです」

「…………ッ、ありがとう」

 僕は、伊藤先輩の二の舞を踏んでしまったのか、福島先生は泣き出してしまった。でも、言葉では僕にお礼を言っている。

「僕は誰かを好きになってもいいと思っているんです。それが否定されるのは、おかしいと思うのです」

「うん、そうね。ごめんね。急に泣き出したりして。とても嬉しかったの、夜露のことを好きになってくれる子がいることが。もうそんな時代じゃないものね。親が決めた人を好きになりなさいなんて」

「「え………」」

「あ、ありがとうございます。僕の言いたいこと、理解してくれる人がいるとは思わなかったです。僕はてっきり夜露のことを好きな人がいるのが嫌で泣いているのかと……」

「そんなわけないわ。人を好きになるって素敵なことよ。実は、私も今の夫のことを心から愛しているし、私も愛されていると思うの。お見合いなんてしていないのよ。夜露を一人では育てていけないというのもあったのだけれど、私たちが結ばれた理由は、お互いが、好きだったからなのよ。勿論、両親には反対されたわ。猛反対。何度も何度も私にお見合いの相手を探してきたわ。それでも私はこの人と幸せになりたいってお見合い相手を紹介してくるたびに断ったわ。でもね、何回も夫が私の実家に訪れたものだから、最後は両親もすっかり夫のことを気に入ってくれたの。今では今の夫でよかったな、なんて言ってくるのよ。私も親になってからは両親の気持ちも少しは分かるようになったの。自分が一生懸命育てた子供を、自分が全然知らない人に託すのは勇気がいることだって。修平君ももし、好きな人が出来てその人との結婚を親御さんに許されたのなら、感謝しなくてはいけないよ。そして、大事なのは、誰かを好きになる気持ちと、誰に何と言われようと、自分の気持ちは信じること。私なんかが言えることはそれくらいだわ」

 そうだったのだ。福島先生も僕と同じように思ってくれているし、少なくとも福島先生の夫も僕と同じ意見のようだ。よかった。少しでもわかってくれる人がいて。僕らの未来はまだ真っ暗ではないみたいだ。

「フックさんからそんな風に言ってくれるなんて思ってもいなかったです。だから、ありがとうございます。夜露は、僕のこと、なんて思っているのかなんてわからないし、多分この先もずっと分からないままなのだけど、僕が夜露を想っていたことはこの先も変わらないことだから、………だから、夜露や先生に会えて本当に良かったです」

 今、言いたいことをすべて上手く言葉で言うことができたのかは分からない。でも、僕の気持ちは十二分に伝わったと思う。なんだか、心の中でモヤモヤしていたものがほどけ、さっきまでクタクタに疲れていたのも忘れてしまった。

 そのあと先生は僕に再度のお詫びと二、三個の説教をして「さようなら」と言い、我が光透高校を去っていった。



 *

 キキー、と二丁目の花屋の前にまた、錆びかけた僕の自転車の音がこだました。

「おや、またきたのかえ、本当によくまあ飽きないものね」

 僕の自転車の音を聞き、花屋のおばちゃんは葉っぱまみれになりながら、奥の暖簾をくぐって出てきた。

 福島先生が田柄を去ってから二日が立ったこの日は、気持ちのいい涼しさと、そよ風が吹く、すっかり秋らしい日になった。

「今日は何が入荷しましたか」

「え~と、どれどれ、今日は、コスモス、キンモクセイ、それにダリアかねぇ」

「では、ダリアを二千円ほどください」

「はいよ、まかせとき」

 いつも元気なおばちゃんだけど、今日はいつも以上に張りのある声だ。花屋に並ぶ甘美な花々もまた、ガラっと色を変えすっかり秋らしくなっている。まだ晴れないでいる僕の心を少しだけ和らげてくれる。

 朝鮮戦争のおかげか、好景気なせいで、あちらこちらからビルの建設音が聞こえてくる。もう、セミの音はほとんど聞こえなくなった。今、僕は日本とともに大きく変わろうとしている。ちょっと大げさだけどそう思える程、何か湧き上がるものを感じる。

「はい、できたよ」

「ありがとうございます」

「あーいよ」

 今日はこの新しく買ったダリアを自分の部屋の空いているスペースを探して——この作業がとても時間がかかる。何しろ、すでに花でいっぱいだから——瓶に移さなくてはいけないので、花を受け取ってから、矢継ぎ早に部屋を出ようとした。ガラガラ、と重い扉を開けた時、あ、と言う大きな声が背中の方から聞こえた。

「修ちゃん!忘れとった。そういえば、夜露ちゃんの友達から手紙預かってんだー。夜露ちゃんから修ちゃんにって。夜露ちゃん、急な引っ越しで修ちゃんに何にもお礼できなかったから、住所がわかる友達の家に手紙が届いてそれが私んとこまで周って来とんのよ。ちょっと待っとくれ」

「手紙!?もう少し早く言ってくださいよ」

 いきなりのことについ、おばちゃんにツッコミを入れてしまったが、どうやら聞こえていなかったらしい。セーフ。おばちゃん割とこういうこと多いんだから。おばちゃんは暖簾をくぐって奥へ入っていき何やらゴソゴソとあさる音が聞こえ、すぐに戻ってきた。が、すぐには僕の方には来ないで、お店の前の花台に行き、何やらいくつか花を取り、僕の方へ戻ってくる。

「ほれこれじゃよ」

 そういっておばちゃんに渡されたのは、真っ白い封筒と、赤と白のツツジだった。

「なんのツツジですか」

「いいから、読んでみなさい」

 言われるがままに僕は、封筒に付いているピンク色のシールを剥がし、中から手紙を取り出し、目を通す。

『修平君へ いきなりでごめんね。私引っ越すことになったの。新しいお父さんが出来てね、今日お父さんの家に行くことになったの。お母さんもそのうち学校の先生はやめてお父さんの家に来るって言っている。だから勉強のことで聴きたいことがあったら、今のうちだね。この前は綺麗な赤い菊を有難う。玄関に飾っていたのだけど、引っ越すことになったから庭の隅に植えておいたよ。うまく根を生やしてくれるといいな。そのツツジは菊のお返しです。

 今までありがとう。  福島夜露

 追伸  私が遠くに行ってしまったら、お父さんのお墓参りに行くこともできなくなってしまうの。もしよければ、一度でいいので綺麗な花をいけてあげてください。

 住所○○ー△△△』

 やっぱり、もう少し早く渡してほしかったよおばちゃん。やっと乗り越えられたと思った感情の壁が、また一段と高くなり僕の前にそびえたち、しずくをこらえる。ツツジもいける場所を探さなくては。六畳とない狭い僕の部屋で一番日当たりがいいところを。きっと丈夫な根を生やしているであろう赤い菊をもう僕は見ることはない。こんなんで、福島先生が言うように僕は誰かに恋することができるのだろうか。僕の方こそ、今までありがとう。

「なんて書いてあったんじゃ」

「んー、内緒です」

「なんでじゃ、預かっとったんじゃからちょっとくらい見せてくれてもいいじゃろ」

 引きずられるようにおばちゃんとの会話を始めた時、お店の音とともに一人のお客さんが来店してきた。お客さんは一だった。

「やっぱりここにいると思った。部活終わってから一人でそそくさと帰っちゃうもんだから多分花屋だろうなと思ってきちゃった」

「おや、修ちゃんとこの学校の子かい」

「はい、そうです。部活が一緒で」

「こんにちは。いつもしゅうがお世話になっています」

「おい、なんだよそれ、親じゃないんだし」

「わっはっは、いいのう、若いもんは。いつも楽しそうで。どっこいしょ、私はやることが沢山あるんでな。あんたら若いもんと違って」

 いつも自分の話ばかりしたがるおばちゃんが、珍しくおとなしく暖簾の奥に姿を消した。僕らもおばちゃんの邪魔をしてはいけないと思い、「さようなら」と小声で言い花屋を出る。

「いい人、っぽいね。あのおばちゃん」

「っぽいじゃなくていい人だよ。おばちゃんじゃなかったらこんなに通わないもん」

「ふっ、なんかしゅうっぽい。花にも女にも一途なとこ」

「ふざけんなよ、なんだよそれ」

「ごめんて。冗談」

 なんか最近一が僕の扱いに慣れてきてる気がして、なんか照れ臭くなった。

「あ、しゅう。そういえばさ、ど?この後」

「………行ってやってもいいけど」

「しゃあ、決まり」

 僕は少し立ち止まってから、自転車の向きを変え、一の方に歩み始めた。 

 今日もギラギラと僕らのことを照らす太陽は、僕や一の背中をめいっぱい押してくれた。



 *

 ………。

 とても懐かしい思い出。俺は、立ち上がり窓を開け、カーテンと窓を閉めてまた、狭い部屋へと戻る。そして一人で憂鬱な朝の、朝食の準備を始める。 

 あれから田柄は目まぐるしく変化していき、今ではたくさんの工場が立ち並ぶ工業地帯になってしまった。住民はほとんど町を出てしまい、おばあちゃん、おじいちゃん、そして独り身の俺だけが取り残された。いい奥さんと恋愛結婚をして去年この街をでた一が羨ましい。花屋のおばちゃんも工場の煙にやられ5年ほど前に亡くなってしまっている。花屋もその時に閉店し、今は大きな工場が立つ。その時くらいから花への興味も薄れ、この前、部屋にあった最後の花瓶もゴミに出してしまった。狭いくせにとても簡素な部屋を見て、野菜を切る手を速める。

 あ、そう言えば、と思い卵を割ろうとする手を止めた。この辺りで唯一、まだ残っているものがある。隣町の墓地だ。多分夜露の父が眠る。まだ一度も行っていないなあ。今日は寝坊する予定だったから特にやることはない。俺は朝食を作るのをやめ、箪笥の奥でほこりをかぶっている木箱を取りだす。確かこのあたりだと思ったんだけど、果たしてあった。真っ白ではなくなってしまってはいるが、これは確かに夜露からの手紙だ。今にも破けてしまいそうな手紙を開けてみると、字がくすんでしまってよく見えなくなってしまっている。かろうじてお墓の住所を読み取った僕は、グラノーラと牛乳を取り出し、簡単な朝食を済ませ上着を羽織り、家を出る。玄関の鍵を掛け庭に周り、可憐に咲いている白と赤のツツジを全て摘んで、最寄りの駅へと歩みを進める。

 ガラガラの電車に十分程度揺られ、隣町の駅で降りる。少し、歩くとすぐに墓地が見えてきた。簡素な墓地でお墓に花は一輪も添えられておらず、コケやキノコが生えているものまである。しばらく歩くと、福島と書かれたとても小さく、しかし、綺麗なお墓が見えた。近づいて分かったのだが、とてもよく手入れされている。俺は採ってきた赤と白のツツジを包みから出し、活ける。特に意味もなく手を合わせようとした時、後ろで声がして振り向いた。

「修平君」

 白いユリを抱えるポニーテールの彼女の笑顔は美しかった。







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