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桃槃楼  作者: 鳴子ビクニ
3/8

水揚げ・蒔蓮2


 連なる灯篭の灯りがゆらめく川面と、森を切り取った大きな窓。臥床と箪笥はかろうじてあるが、客を迎える妓女の部屋にしては殺風景だった。

 むしろ壁にかかった一幅の画幅だけが妙に浮いている。描かれているのは艶めかしい女性の後ろ姿だ。

 一見の客が妙に落ち着かない気持ちになりかけたところで、扉を叩いて先ほどの新造が入って来た。手には酒と杯の乗った盆を抱えている。

「お待たせして申し訳……、あっ」

 新造はがちゃがちゃと卓に盆を置くと、慌てて客の服を脱がせにかかった。

「大変!申し訳ありません!先にお洋服を脱いでいただかなければなりませんでした!冷たかったでしょう!すみません!」

 客より頭ひとつ分は小さい新造にぴょんと飛び掛かられ、客は思わずよろめいて後ろの臥榻に倒れこんだ。

 はずみでのしかかってきた新造の身体を抱きとめ、その重みと柔らかさに一見の客はどきりとする。鼻のすぐ下にある頭からは、妓楼の中で通りすがったどの女たちからも匂わなかった小さな白い花の香りがした。

「ご、ごめんなさい……!」

 胸のまるみで弾むように新造が離れる。臥床を下りるときに力んだ新造の膝があらぬところにあたって、瞬時に血がのぼった。

 客は座りなおすふりをしながらぎこちなく笑った。

「さっきから謝ってばかりだね」

「……すみません……」

 もともと小柄な新造はますます小さくなりながら消えそうな声でうつむいた。

「責めてないよ。脱いでもいいかな……?」

「あ、はい!」

 新造は顔を上げると客の上着を受け取り籠に入れる。そして座ったままベルトを外している客の前に跪いた。

 驚いた客は手を止める。

「え。なに?」

 ごく当然な顔をして新造は答えた。

「お手伝いします」

 そして手を伸ばしてきた。

「いやいやいやいやいや」

 客は慌てて身体をひねると新造に背を向け立ち上がった。

「着替えを貸してもらえるかな?」

「はい!」

 新造は箪笥の中から白いガウンを出すと、後ろから客の肩に掛けた。

 客は袖を通してからベルトごとスラックスを脱ぎ落した。すばやく新造は客の足元に跪くと靴を脱がせスラックスを抜き取り、また靴を履かせる。そして上着を入れた籠に同じく畳んで入れると、扉の外に置いた。

 客は小舟の灯りが行き交う窓の外を見たまま悩んでいた。こんな高級な店でなくとも実は妓楼は初めてで、正直新造とは言え女性と何を話していいのかわからない。さっきまでは連れてきてくれたこの店の常連が間を取り持ってくれていたが、初会で一対一になるなど想定していなかった。職場の女性と同じように接すればいいのだろうかとも思ったが、なんかテンションが違う。さすが妓楼、しっとりしている。店に入った瞬間から空気が淫猥とはしていたが、飲みの席に着いた妓女たちからはさらにねっとりとした視線を感じて落ち着かなかった。

 さて、服が乾くまでの間とはいえどうしたものかと思案していると、肩をちょんちょんとつつかれひどく驚いた。

「すみません……!お酒を召し上がられないかと思って……」

 振り返ると淫猥な空気とは程遠い新造が焦っていた。

 思えばこの新造は最初から雰囲気が他の妓女たち、ひいてはこの妓楼自体とずいぶん違っていた。

 年のころは14~15であろうか。丸顔に丸い大きなくりくりとした目。あまりにも素朴で幼い顔つきが、いずれ客を取る新造とは信じがたい。だがふくよかな身体を、この店では妓女が好んで着るような漢服を模したドレスで包んでいる。まだ妓女でない新造なので、ドレスの胸元をあまり寛げてはいないが。

「……かわいいね」

 うっかり口から出てしまって「あ!いやいや!変な意味じゃなくて!」と慌てる客に新造は頬を染めた。

「ありがとうございます」

 新造は椅子を引いて勧めながら客にニコリとほほ笑んだ。

「お客様はこういったお店はよく来られるんですか?」

「恥ずかしながら初めてなんだ。こういうところに来たことないって言ったら大佐が連れてきてくれて」

 『ツテ』のことである。今はもう軍人ではないのだが、その泰然とした風格にあだ名として呼ばれている。

「昇進したんだったらそのうちこういう店での付き合いもあるだろうから勉強しとけって。こういう店があるようなとこには行きませんって言ったんだけど」

 客は頭を掻いて笑った。

「軍人さんですの?」

「いやいや。団体っていうのかな。まだまだ資源が枯渇している地域でね、資源のもとを探して育てる団体なんだけど、その資源を輸送する仕事をしてて」

「資源にかかわるお仕事だなんて、優秀でいらっしゃるんですね」

 新造はとくとくと酒を注いだ。

「優秀なことはないよ。ただ地道に真面目にやってたら、今度ちょっと大きなプロジェクトをやるから関わってみないかって」

「大きなプロジェクトだなんてすごい!」

 客は杯をあおるといやいやと手を顔の前で振った。

「赴任地が遠いんだよ。まだ僕は独り身だからね。動きやすいだろうって判断さ」

「謙遜なさらないでください。優秀でない人に仕事は任せないと大佐もおっしゃってました」

 うふふと新造が酒を注ぐ。

 同じところで働いたこともない、大きな会社を背負っているあの大佐が「そんなことを言ってたんだ」と客はひとりごちながら飲んだ。

「そんなに遠いところに行かれるんですか?」

 酒を注ぎながら新造は尋ねる。

「そうだね。船で上るのに1日、積み替えて2日はかかるかな」

「まあ、船!私、海を見たことがないんです。果てがないほど広いと聞きました。でもまだ黒い雲の影響で海も黒いと」

「そうだね。でも海はまだ危ないから民間の船はなかなか航行許可が出ないんだよ。僕たちが使うのはあくまでも河。内陸に行って車や鉄道を使うんだ」

「川の船って聞くとそこでおじさんたちが漕いでる渡し舟しか思いつきません」

 新造が眉を八の字に下げると客は笑って酒を飲んだ。新造はすかさず酒を注ぐ。

「渡し舟よりぜーんぜん大きいよ。3000トンあるからね。そうだな…。下の渡し舟が30艘ぐらいずらーっと並んだ感じかな」

 客は酔いが回ってきたのか、ぶんと勢いよく両腕を広げてみせた。

 新造はさっとその腕をよけると目を見開いた。

「すごーい。人がたくさん乗ってるんだ」

 客はゆっくり頭を横に振った。

「いや。生きてる人間は50人にも満たないよ。荷物の方が全然多い」

「へー」

 言いながら新造は酒で満たした杯を客に持たせる。持たされた客はああ、ありがとうと言いながらあおった。

「見てみたいなー、そんな大きな船。停泊してるのはこの川の近く?」

「いや。この川の先にある運河だよ。2日後埠頭に着いて積み込みが始まるんだ。見にくるかい?」

「…いえ…」

 さっきまで笑顔だった新造はふと目を伏せ、首を横に振りながら酒を注いだ。

「私はこの街から出られないので、運河までは行けません…」

 そして寂しそうに笑った。

 無邪気に話す新造に客はその立場を忘れていたが、彼女は紛うことなき妓女見習いであった。気軽に遠くへ行ける身分ではない。

 目の前で注器を伏し目がちに弄ぶ新造はどこから見てもただの少女だった。とてもじゃないが、妓楼で働く艶やかな娘には見えない。

 少しふくよかで柔らかそうな身体つきは、甘い物を売ってる店の前で太るの痩せるの言いながら食べ歩きしている巷の娘たちとなんら変わらない。

 でもこの娘は女将の許可無しに妓楼の敷地内から一歩外に出られず、出たとしてもこの街の壁の外へは絶対に出られないのだ。

 そして時期が来れば一人前の妓女として店に出るのだろう。

 なんだかやりきれなくなって、客は勢いをつけて酒をあおった。

「きみはなんでこんなとこ…ここで働いてるの?」

「よくある話です」

 新造はうふふと笑って酒を注ぐ。

「親に売られました」

 本当によくある話だった。黒い雲、黒い海の影響はまだ世界中に残っている。今もどこかで家の明かりどころか食べるものにさえ困っている人々はいるのだ。

「でも恨んではいないんですよ、親のこと、全然。私を売ったお金で家族が生き延びてくれたらそれで…」

 嘘だと分かった。新造の伏せたまつげが揺れている。客はやるせなくて勢いよく酒をあおった。

「それに運が良かったんです、私。ここに来れた。桃槃楼は女将さんもお姐さんたちも優しくて働きやすいです」

 妓楼の部屋には不似合いな、ひまわりのような笑顔で新造は注器を差し出した。

「…怖くないの?いずれお客さんを…」

 どう言っていいのかわからなくて客は酒を飲む。妓楼では当たり前のことだろうが、なんだかこの新造の前では口にするのも憚られる気がした。

「そうですね。ちょっとは怖いけど」

 新造は酒を注ぐ。

「お姐さんたちを見てたら、たくさん恋をするのも悪くないかなーって」

「恋?」

 客は驚いた。

「お姐さんたちが教えてくれたんです。ここで売ってるのは身体じゃなくって恋だよって。いっときの恋なんだよって」

 詭弁だと客は鼻白んだ。閨を盛り上げるために睦言のいくつも吐き出そうが、しょせんは性欲処理の商売ではないか。年端もいかない娘の嫌悪感を薄めるために、なんといういい加減な嘘をついていることか。

 怒りであおる客を知ってか、新造はおっとりと注ぎながら消えそうな声で言った。

「それに、お客様みたいな優しい方もいらっしゃるし…」

 え、と客は固まった。

「大佐みたいな遊びなれたお客様だと緊張して、お酒こぼしたりしていつも失敗ばかりしてるんですけど、お客様お優しいから、お話も弾んじゃって、手も震えないし、ほら、さっきからちゃんとお酒注げてます」

 うふふと笑う新造としっかりと目が合った。

 新造ははっと真顔になると、慌てて言い訳しだした。

「あ、いえ、決してお客様を軽んじているわけではなくって…!」

「僕じゃ駄目かい?」

 客は杯を放り出して新造の手を握った。

「え?」

 新造は驚きながらも辛うじて注器を落とさずにいた。

「きみの水揚げの客、僕じゃ駄目かな?」

 客は両手で新造の手を握り締めるとまくし立てた。

「僕と恋しよう!僕だけのきみでいて欲しい!そうすればほかの客に身体は売らなくていいはずだ!」

「お客様…それは身請けと言いまして…」

 新造は大きくのけぞって椅子を倒した。

「よしわかった身請けしよう!きみみたいな娘は身体なんか売っちゃいけない!」

「お客様…、お気持ちはありがたいのですが身請けには相当のお金がかかりまして…」

 迫りくる客に圧倒されながらも新造は説明する。

「お金はなんとかする。そして僕と一緒に新しい土地に行こう。あそこに行けば搾取もされず幸せになれる!」

「お客様、落ち着いて」

 床に座り込んだ新造は客の手を優しく握り返す。

「お客様のお気持ち、とても嬉しいです…。ありがとうございます。でも」

 新造はそっと客から目を逸らせた。

「あの大佐でも阿仰姐さんを身請けできないんです…」

 客は絶望した。阿仰はこの妓楼の看板とはいえ、大佐は企業のトップ。その大佐さえ手を出せないとは。

「そんな…」

「お客様のお気持ちだけ、ありがたく頂いておきます」

 新造の澄んだほほ笑みに、客の目から涙がこぼれ落ちた。

「じゃあせめて…」

 滔々とあふれる涙とともに客の口から言葉が流れ落ちた。

「せめてきみの初めての客になりたい…」

 客は両手で包んだ新造の手をさらに強く握り締めた。

「きみを水揚げしたい…!」

 新造は息を呑んだ。

 客は膝を進めて詰め寄りながら、さらに新造を引き寄せた。

「四日後僕は新しい仕事に行く。仕事が落ち着くまで1年は帰ってこられないかもしれない。でも!待ってて欲しい!絶対戻ってくるから!戻ってきたら、きみ以外の娘とは恋をしない!きみの年季が明けるまできみを支え続ける!きみを指名し続ける!そしてきみの年季が明けたら、絶対きみと結婚する!だから…!」

「お客様…」

 新造はゆっくりと客の胸を押し返し、寂し気に笑った。

「とてもうれしいです。初めてお会いして、しかも粗相までして、無理にお引止めした私にそこまでおっしゃっていただけるなんて…。でも…」

 新造は目を閉じ、こぼれ落ちそうな涙をこらえた。

「私の水揚げはもう決まっていることなのです…。女将さんは1年も待ってはくれません…」

 客は焦って言いつのった。

「じゃあ…!じゃあ、ひと月後…、いや、2週間後には帰って来るよ!仕事をいったん切り上げて帰って来る!」

 新造はうつむいたままゆっくりとかぶりを振る。

 客は小刻みに震える肩を見て心を決めた。

「今から床入りしよう」

「…は?」

 新造は驚いて顔を上げた。

「契ってしまえば女将も何も言えないはずだ」

 そうと決まればと客は新造の二の腕を掴んで立ち上がらせた。

「既成事実さえ作ってしまえば初めての旦那は僕だ。しばらくの間は初めての旦那に操立てしているということにしてほかの客を断ればいい」

「いえ、そんなルールは…」

 ありませんと言う前に新造は足を掬われ臥榻に放り込まれた。

「本当は今すぐにでもここから出して連れて帰りたいんだ。きみの幸せは僕が、僕らが約束する…!」

 両脇を腕で挟まれ、上から迫りくる客に恐れおののきながら新造は早口で言いつのった。

「落ち着いてくださいお客様。水揚げというのは一種の行事でございまして、お客様をお迎えするお部屋の支度からお衣装の誂えからお食事の準備からその他もろもろ宴会を盛り上げる芸人の呼び出しなどもございまして…」

「そんなのはいらない。きみさえいてくれればいい」

「妓楼内外への新しい太夫のお披露目ですからそれはそれは賑やかで華やかで」

「お披露目なんかしなくていい。誰にも見せたくない」

「揚げ代の方もそれはそれはかかりまして…」

「僕は今の仕事で甘んじるつもりはない。もっともっと上へ行って稼いで毎日でもきみのもとへ通う!」

「お客様!」

 四つ足で迫り来る客の足の間からしゅっと勢いよく滑り抜けると、新造は窓際へ逃げた。

「せっかくの初めての妓楼で私なんかがお相手してしまったものだから勘違いされたのですね。どうぞ私のような気の利かない新造ごときに情けをかけず、もっと綺麗なお姐さんたちを」

「きみがいいんだ!」

 客はとうとう窓枠に手をつき、新造を追い詰めた。

「淀んだ澱の中に放り込まれてもあたたかな陽射しのような優しさを失わないきみの笑顔を守りたいんだ!」

 抱きしめたはずの新造はそこにはいなかった。

 あれ?と思う間もなく、客は自分を抱きしめながら下の川へと落ちて行った。

 勢いよく水面が跳ね返る。

 客が抱き着いてきた瞬間しゃがみ込み、その足をさっと持ち上げた新造は水音が静まったのを確認して窓の下を見た。

 波紋がなくなってしまったなと思った瞬間、客が勢いよく浮かび上がってきた。言葉にならない何かを叫んでいる。

 向こう岸に船を着けていた船頭たちが呑気にそれを眺めていた。

 新造はそっちへ向かって適当に叫んだ。

「おじさーん!水揚げしてあげてー!」

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