水揚げ・蒔蓮
桃槃楼は大きな河沿いにある妓楼である。
天女の歌舞を楽しみながら酒や食事ができる敷居の低い『四大州』、
上客が敵娼と戯れる『地居天』、
めったに顔を拝めない観音様が住まう『空居天』からなる。
一見さんはせいぜい四大州止まりだが、ツテさえあれば初めてでも地居天まで昇ってくることもできなくはない。『ツテ』の懐次第ではあるが。
さて。空居天に住まう『阿仰』の相方が連れて来た本日の一見の客。
大きなマティーニグラスの中でちゃぷんちゃぷんと派手な水しぶきを上げる肌色多めの天女を、上から四大州の舞台が眺められる一等良い席で唖然と見ていた。
「華やかなのはあまり好みではないのかな?」
「いえ。桃槃楼は落ち着いた客層だと聞いていたので、こんなに賑やかなショーがあるのかと驚いただけです」
「大きな仕事を任されたと聞いたからお祝いのつもりだったのだけど、余計だったね」
「とんでもない!初めての桃槃楼で緊張しています」
キャメルのスーツを着た一見の客は少し丸まりかけていた背中を伸ばした。
阿仰の相方より若いがはつらつとした雰囲気はない。落ち着いているというより真面目というか暗いというかさえないというか。
相方の隣に座っていた阿仰はちらりと視線で酒を注ぐよう新造を促した。
新造が首の長い酒器から酒を注ごうとすると、一見の客の服にこぼしてしまった。
「あっ…!ごめんなさ、申し訳ございません!」
慌てて拭こうとする新造の後ろで、女将が眉を八の字に下げていた。
「まあああ、申し訳ございません、お客様。うちの新造がとんだ粗相を」
立ち上がってシミを確認していた客は片手を上げて大丈夫と示したが、今まで一言も言葉を発しなかった阿仰が初めてゆっくりと口を開いた。
「おかあさん。シミになったら大変よ。服、洗わせていただいたら?」
「そうね、でもその間どこでお待ちいただくか」
「『空木』は?どうせこの子の部屋になるんでしょう?」
「なるって言ったってあなた…」
渋る女将をそのままに、阿仰は店の若い衆に部屋の用意をするように指示した。
仕方ないわねえと下げた眉を寄せたまま、女将はおろおろしている新造を立たせた。
「蒔蓮。お客様をお部屋へご案内して。お召し物が乾くまでしっかりお相手してさしあげて」
そして当の本人の承諾も得ずに、どうやら泊りの方へ話が進んでいるらしい展開に唖然と立ちすくしている一見の客の手を取って、女将は精一杯申し訳なさそうに言った。
「せっかくショーを楽しんでいただいていたのに申し訳ございません。お召し物はこちらで責任をもってお預かりいたしますので、どうぞこちらへ」
言うなり阿仰の相方へ振り返って確認する。
「よろしいわね?」
阿仰の相方は眉を、隣の阿仰は口角を上げている。
予期せぬ展開に焦った一見の客は阿仰の相方に助けを求める視線を送るも、杯を掲げて送り出され女将に引きずられて行くしかなかった。
部屋に着くまでの間、女将はしゃべり続けた。
「一見のお客様をお部屋へご案内するなんて、まあ、まず無いことなんですけれどもね」
急に立ち止まって振り返り人差し指を立てる。
「内緒ですよ」
一見の客は女将にぶつかりそうになりながらも、うんうんとうなづく。
再び歩き出し、突き当りの部屋まで進む。
「それと、妓楼の約束事はご存じだとは思いますが、初日にお手を付けられるのはご法度でございますので」
一見の客もびくりと立ち止まる。が、すぐに引っ張られる。
「特にこの娘はまだ水揚げ前でして、よいお相手を選んでいる最中ですの。まあ、お客様がね、相方になってくださるというのであればね、それはそれで良いお話ではあるのですけれども、いかんせん水揚げはこの娘たちにとって一生に一度の一大行事でございますからね、それはそれは華やかに送り出してやらないといけないものですから準備がね、ありますのよ。というわけでね」
女将は立ち止まった突き当りの部屋の扉を開け、一見の客をいざなった。
「どうぞごゆっくり」