世界のなかに身をよこたえるひとつの要素としての感覚
万物は流転する。
大変、大きな密度の世界がある。
絶え間なく、流動的に動いている。
人の営みも、それを成すものの連なりがあって、そこに人の営みとして成り立っているだけ。
もちろん、そこに生きていれば、その流れと連なりの形態に身を委ねる他ない。出来事の連なりと、人の思惑の連なりと、心の連なり。奇跡と呼ぶ出来事のように、複合的に様々な要因が作用しあって、ひとつの形態を一時的に成り立たせている。
絶対普遍のものではなく、ひとつ崩れれば、そちらに流されていくような、儚さをもった積まれた砂山のような脆さをもった、連なりなのである。
人の営みは、人のなかにあって、人であるからこそ、意味があるように思われるのであって、砂山の一粒の砂であるには変わりない。
人からみれば、どこへ向かっているかもわからず、そうするものと空虚さの上に横たえた確信めいたものに従って、人間らしくあろうとする限りなのである。
とめどなく、うねり、形を変え続ける世界の中に身を横たえて、儚いひとときの形を認識しながら、身を横たえて感じ続けているはずのそもそもの世界というものに目を向けることはできず、ごくごく一部のほんのわずかな断片を以て、世界を見たと豪語するが人間のせいぜいなのである。
心張り裂けんばかりに悲しい物事も、確かに世界の一部のうねりの形であって、それはそうとしか言えないけれども、そこに確かに自分というものがあって、それは、人の言う意味とは違うところにあるものだということ。
人の迷いは尽きず、間違いは起こり続けるけれども、それもまた世の中というものを確かに作り上げているひとつの形態なのであって、見方によっては、それ以上の意味を持たない局地にあるのである。間違いと呼ぶのは人の行いであって、人の尺度で目指すところにすると、どこか違いがあるように思われるだけのことで、あるものはあるとすると、そもそも間違いというものは存在しないのである。
存在している前提があって、そこに目指す方向を決めて、ある形を作り上げようとすると、歪みが気になるというものである。世界とは無形の形をなすものであって、変化と呼ぶのは、その無形を断片的に知覚しようとするために生まれてきた概念である。
たゆまざる変化ありきの土台のうえで、確たる目的を持ったところで、その到達点においては、かつての目的をもったころとは、あらゆるものが変化しているのであり、確たるはずのものが、変化する土台のうえにあることを、まざまざと思いしるのである。
定かと思うものは、定かと思えることを許す限りにおいて、定かなのであり、その器のなかで過ごすことをよしとするから、そのままでいられる。その境界は確かにあるものの、見るのは難しく、慣例や習慣という形で、人のいるところに引かれている。その境界があるからこそ、守られるものもあるが、最近はそれを壊すことをよしとしている風潮が強いように思われる。繰り返すが、それがそれとして成立するには、その環境が必要なのであり、なるべくしてなったものを、外の世界に放り出せば、たちまち別のなにかに変わらざるをえないのである。
そうやって、成ったり、崩したりをしながら、どこへ向かうか知れないまま、変わり続けることを求めているのが、どうも人間らしいように、思われる。