かわいそう
夢は苛む。蝕み続ける。
直樹は立ち尽くす。傍らには女が倒れている。それを凝視する。いや、しようとする。それなのに、視線はいつのまにか上へのぼる。立ち去る背中。直樹の傍らに倒れている女に目もくれず、遠ざかる背中。
それが誰だが、直樹にははっきりわかっているのだ。
「山内さん」
突然背中を叩かれ直樹は弾かれたように上半身を起こした。
・・・寝ていたのだ。
一瞬、ここがどこなのか分からなかった。しかし自分を起こした女が、さも悪そうに苦笑いをしているのを見て、直樹は会社にいたことを思い出した。
「起こしてすみません。コーヒーいれたんですけど、飲みません?」
「ああ、ありがとう…」
まだ夢心地だった。悪夢を見たはずなのに、いつもより落ち着いた寝起きだった。汗もかいていないのは、エアコンがすでに止められていたからだろうか。
昼間は人で溢れ、電話の音や話し声、キーボードの音がひっきりなしに響くオフィスなのに、今や閑散としていた。直樹のデスクが並ぶ一列以外、電気がついていないせいもあるだろう。オフィスの端は、暗がりで見ることすらできない。
暖かなコーヒーを飲んで一息ついて、直樹はなぜこの女がここにいるのだろうと、ふと思った。
「谷口さん、どうしているの?」
契約社員であり、直樹と同い年らしい女は、さも当然のように直樹の隣の席に座ってコーヒーを飲んでいる。
「ちょっと忘れ物しちゃって。そしたら山内さん寝てるからびっくりしちゃいましたよ」
女は笑う。そして偶然買っていたというおにぎりやらサンドイッチやらをコンビニの袋から取り出して直樹に勧めた。
「あと、これ…」
おずおずとコンビニの袋から彼女が渡してきたのは、コンビニでは決して買えないようなお洒落に包装された箱だった。
「もらってもらえますか?」
自分の中の誰かが、くだらないとつぶやく。
忘れ物はこれを渡す口実か。直樹が出張の準備のために今日残業することは部署の全員が知っている。そういえば先週バレンタインデーがあったことを思い出した。あの悪夢を見た日だ。
「あれ?先週もらったよね?」
部署の女子社員全員からというチョコを、バレンタインデー当日に男性社員全員がもらっていた。どこかのデパートで大量に買ったであろう有名なチョコレートブランドのものだったが、それを思い出し、直樹はすっとぼけて尋ねた。
「コンビニで売れ残ってたんでついでに…」
ニコニコしながら渡そうとするチョコは、この前もらったチョコよりもワンランクもツーランクも上に見えた。
所詮かけひきなのだ、と直樹は思う。彼女はかけひきをしている。要は自分が彼女に気があるか試しているに過ぎないのだ。ついでだといいながら本命チョコにしか見えないチョコを渡す。受け取ってもらえなくても義理だから自分は傷つかない。受け取ってもらえれば脈ありというような。 確かに、中高生の時のように好きだから告白するような年ではもう無い。体裁もあり、矜持もある。それが大人の付き合いなのかもしれない。
しかしそれに付き合う気もない。
「ごめんね、甘いもの苦手なんだ。谷口さん食べてくれる?」
ここで彼女に何を言う気もなかったが、特に害もなくこれからも毎日顔を合わせなければならない人間に冷たくあたるわけにもいかず、直樹はただ、飯どうも。とそっけなく言って仕事に取りかかる振りをした。
彼女の表情が、かけひきが成立しなかったことを表していた。
かわいそう…。
不意に亜美の声が聞こえた気がした。彼女にも聞こえたのではと思い、帰っていく女の背中を見つめたが振り返る様子はなかった。
「かわいそう…」
亜美がポツリと言った。ただ、かわいそうと。それは他を差して言ったに違いないのに、彼女が自分を指して言っているように聞こえた。
バレンタインデーの日だった。僕に亜美という彼女がいることはすでに周知の事実だったにもかかわらず、朝学校に来たら下駄箱の中にも机の中にもチョコがいくつか入っていた。
「すげーな直樹」
大輔がはやしたてる。勘弁してくれ。
その日、僕の頭を占めていた思考は亜美からチョコをもらうことだけだった。初めて、生まれてはじめて、好きな人からチョコがもらえるのだ。これを嬉しがらない男がいるだろうか?
しかし、どこの誰からもらったのか知れないチョコをいっぱいもっている僕を見て亜美は朝から機嫌が悪い。
亜美という「彼女」の存在で、直接チョコを渡しにくる女がいなかったことは幸いだった。これ以上亜美を怒らせるのはごめんだ。
その日、学校が終わるまで僕と亜美は大して口を聞かなかった。それでも、亜美の機嫌が悪いのは嫉妬なのだろうかと思うと、心地よかった。
ホームルームが終わり、僕は亜美に駆け寄って帰ろうと言った。自分の机でぼーっと座っていた亜美。声に気づいて僕を見上げた亜美は、僕の「特別な亜美」だった。
僕は急にうれしくなって、彼女にまとわりついた。しかし、下駄箱を開けると漫画みたいにチョコが溢れ出てきて、僕はまずい、と思った。朝からあれだけ機嫌が悪かったんだ。チョコもらえなかったらどうしよう。
そう思った途端、後ろからケラケラと笑い声が聞こえた。振り返ると、彼女が僕の靴箱を見て笑い転げている。
その顔を見て、ほっとした。
「おまえ、笑ってないで手伝えよ。どーしよこれ」
「すっごいね。モテモテですこと」
「ってか普通ゲタ箱いれるか?くさいっつの」
僕は靴だけとって帰ろうと思った。もう今日一日でうんざりだ。知るか。
靴箱に入れられたチョコを食べたいと思うだろうか。普通に考えて食べたくないだろ。しかも誰がくれたのかも知れないチョコを。
「もって帰らないの?」
「もってかえんねー」
「ダメだよ。もって帰らなきゃ」
「えー?」
「いいから、バックに入れて。このままだったらかわいそうでしょ?」
僕のバックをひったくって、彼女が大量のチョコをつめこむ。
「ってかパンパンじゃん」
パンパンの自分のバックを見て言って、仕方なく僕も下駄箱の周りに落ちているチョコを拾う。このチョコの処理は姉にまかせようと思いながら。
そのとき、ため息と共に聞こえた。
彼女の、かわいそう…。が。
どういう意味での「かわいそう」だったのか、今でもわからない。
彼女はその頃、少し前からおかしかった。思いつめているような顔をしていたり、突然泣きそうになったり、僕の顔をじっと見つめていたり。情緒不安定だったといってもいい。
彼女の様子がおかしくなるたびに、僕は必死になった。笑わせようとしてバカなことをしたり、慰めたり、どうにか彼女をその正体不明な危惧から引き離そうとした。
不安だった。誰かが、何かが、僕から亜美を奪うのではないかと。彼女はいつも離れないように僕にしがみついた。何かに怯えていた。
僕の不安は的中し、バレンタインデーの一ヵ月後に亜美は永遠に奪われた。