診察
「君がここへくるようになってどのくらい経つかな?」
大きなガラス張りの明るい診察室の中で、白衣を着た男が言った。
直樹はなだらかな曲線を描くすわり心地のいいカウチに座らされていた。すぐ横に大きな観葉植物が置かれている。直樹は男に話かけられるまで植物の葉にくっついている小さなてんとう虫を見ていた。
「…6年くらいでしょうか」
直樹は少し考えてから言った。
「時が経つのは早いね。赤ちゃんが小学生になっちゃったね」
直樹の担当の心療内科医が笑顔でカルテを見ながら言った。
直樹も思わず笑みがこぼれる。
「先生。これは?本物?」
直樹が葉についているてんとう虫を目で指していった。
直樹の目線に気づいて、医師は顔をほころばせた。
「プラスティックの偽物。かわいいでしょう。もらったんです」
医師はまるで自分の子供の写真を見せて自慢するような口調で言った。中年男性にも関わらず、「かわいい」という単語をさらりと使ってしまうのが先生らしいなと直樹は思った。
「いいですね」
直樹は再びてんとう虫に目をやった。そして、言おうと思っていたことをようやく口にした。
「先生、またあの夢を見るんです」
直樹の一言に、笑みを絶やさなかった医師が一瞬、口元を下げる。それを見て、直樹は不意にうつむいた。
「あの、夢?2年前から見始めた?」
医師の言葉に直樹は頷く。
「そっかぁ」
視線を下げていた直樹は、ふと医師を見上げた。
「久しぶりに来たのはそれだね?」
柔和な笑顔の男を見て、直樹は再び頷いた。
実際ここに来るのは久しぶりだった。もう、来ないだろうとすら思っていた。
亜美が死んで、直樹は目に見えて崩れていった。身体的にも、精神的にも病んでいた。みるみる痩せていった直樹を無理やり母親が病院に連れて行き、内科医に紹介されたのがこの病院だった。
もちろん最初は話す気なんて無かった。何一つとして。
それでもただ柔和な笑顔で彼はそこにいた。
信頼している。というよりも、ただ単に好きなのだ。この男が。この男の笑顔が。
徐々に慣れていった彼に、直樹は少しずつ話していった。
直樹の話した数々は、たわいも無い亜美との思い出話。
もちろん医師である彼にそれを話して救われた部分もある。もう誰とも亜美の思い出を語ることなんてできなかったから。
亜美を堂々と思い出すことができたのはこの場所だけだった。夢のことを話せるのもここだけだった。
言葉にすることによって、それは形を成すこともある。言葉にして初めて、頭で納得する。
亜美との眩しいほどの思い出は、話したことでやっと直樹の中で具現化された出来事に成り得た。一つずつ、頭のどこかにある引き出しに、年月ごとに整理して置けることができたような。
だがそうしたことで、そこからいつでもふとした瞬間に引き出されるようになったことも否めない。
しかし少なからず、話すことによって直樹は平静を取り戻せたのだから彼に感謝する念は大きい。
そして、直樹は少しずつ回復した。少なくとも十七歳の時は。
「去年は、命日が終わったら一旦治まったんだよね」
「はい」
直樹は目の前の男を見やる。六年前、初めて会ったときに比べれば少し老けただろうが、あまり変わってはいない。それもまた少し安心する。変化を嫌う患者もいるだろう、髪型も少しも変わらないのはそのためなのだろうか。
「じゃあ来年もまたあるかもね。困ったねえ」
おどけたように見やる男に、直樹は少し笑った。冗談のように受け流してくれるのは、直樹に合わせてだろうか。
真摯に受け止められると、直樹は萎縮した。
悪いと思ってしまうのだ。
真実を話していないから。
そんな罪悪感に襲われても話す気などないのだが。
「十三回忌には終わるといいねえ」
カルテを見ながら男は言った。直樹もそうですねえと言った。
もう来る気はなかったこの場所にきたのはきっと、ただ夢を見た報告と彼の笑顔を見たかっただけだろう。
心に思いつめたことは、人に話すことによって楽になることがある。自分を許すために。
自分の心の重荷をはずすために。それを告白する。
だから、彼はわかっていたと思う。話さないことが、どういうことなのか。
直樹は救われたくなかったことを。
話して救われる気なんてない。
自分を許す気なんてないのだ。