真意
ふとそのとき、脳裏に彼女の言葉が浮かんだ。
「私が消えても…また見つけ出してくれる?」
彼女の、あの言葉。
亜美の死の前日に、彼女が鎌倉に行きたいと言った。春の遠足で行くだろうと言っても、彼女は行きたいと頑だった。
…行けないと知っていたから。
三月とはいえ、まだ春の海は寒かった。
僕は紅茶を買って、ぼーっと海を眺めていた彼女を後ろから抱きしめた。
「ありがと」
そう言って、彼女は缶紅茶を開けた。あたたかい熱気が入り口から溢れていた。
「あったかい…」
ほっとしたような、あきらめたような。そんな声だった。僕はなんとか彼女を笑わせたいと思って、とにかく思いついた事を手当り次第に話し始めた。
「犬欲しいなぁ」
「犬?なんで?」
僕の一言に、彼女が食いついた。
「散歩したい。犬連れて」
「何犬?」
「お前何犬?て。なんか洋風な犬がいい」
「えー柴犬とかかわいいじゃん」
「かわいいけど。なんかこう…アンドレっぽいのがいい」
「意味わかんない。何アンドレって!ベルばら?」
彼女の爆笑に、嬉しい反面、僕はちょっとむっとする。
「なんかとにかくでかいのがいいの!ラッシーみたいな。ゴールデンレトリバーとか」
「じゃあ名前はアンドレね」
「決定かよ」
「それで散歩は浜辺でしょ?」
「じゃあ家はこのへんに買おう」
「一軒家?」
「だってアンドレがいるからマンションは大変じゃん」
僕のその言葉にまた彼女が笑う。
「アンドレにあわせて、なんか洋館っぽい家がいい」
彼女も僕の話に合わせて、想像を巡らせている。
「洋館?」
「かわいいじゃん。そんで庭に秘密の花園を作るの」
「…何それ。てかどんな金持ちだよ。どんだけ庭広いんだよ」
「がんばって稼いでね」
「わかりました可愛い奥様のために馬車馬のように働きます!」
二人で夢見がちにクスクス笑った。
「じゃあ、今度の遠足で下見でもするか」
僕が言うと、彼女は寂しそうに微笑んだ。
そして、笑いながら彼女は泣いていた。
「亜美?」
あのときの彼女の気持ちを思うと、胸が潰れそうになる。
どんな気持ちだったのか。
彼女はおそらく亜美の死を知っていた。だから怯えていた。三月十四日が来る事を。
彼女は知っていた。自分と亜美が、僕の前から消える事を。彼女はずっと、優しい嘘を僕につき続けていた。亜美として生きていた。けれど初めて、今思うとこのとき初めて、おそらく「恵美」が僕に言った。
「…あたしが消えても…してくれる?」
「え?」
あまりに小さなつぶやきだったので、波の音で聞こえなかった。でも、聞かなければいけない一言だった気がして、僕はもう一度聞いた。
「なに?」
もう一度言ってくれ。もう一度…。
すると彼女は顔を隠すように涙声で言った。
「私が消えても…また見つけ出してくれる?」
「亜美?」
僕が尋ねると、彼女は顔を見られないように僕の腕に顔をうずめた。
「どうしたの?」
彼女はいくら聞いても首を横にふり続けた。何でもないというように。
「お前はずぶといから消えたりしないよ」
僕はそう言って、彼女の背中をぽんぽんと叩いた。とにかく安心させたかった。すると彼女は冗談だよという風に言った。
「言ってみただけ」
冗談なんかじゃない。
思い出した途端、雷に打たれたような衝撃を受けた。
あの言葉は、「恵美」のことを、探して欲しいと言ったのではないか。
それに気づけたのは、間違いなく自分だけだったのに。
今頃、彼女の真意に気づいて愕然とする。
亜美の思い出の中に閉じ込めていた、「恵美」との思い出が一気に溢れ出す。
次の僕の誕生日にプレゼントを渡せないと知っていた彼女。放り込まれたバレンタインデーのチョコを自分と重ねていた彼女。
二年前、亜美の命日に出会った時の彼女の驚愕の表情。キスを拒んだ彼女。そして、亜美の墓で泣き崩れていた彼女。
そのあと、僕の手を片時も離さなかった彼女。僕の顔をじっとみて、頬に触って感触を確かめていた。寝ている僕にキスをした。あの行動の意味。
—もう二度と会えないと思ったからか。
自分からは決して会わないと、彼女は決意したのだ。亜美の幽霊でいようと。だから突然いなくなった。おそらく、僕と亜美のために。
でも彼女は、僕を。
探し出してみせる。
彼女を見つけ出す。
こんなに簡単な答えを出す事に、自分を許すことに二年かかった。
そしてこの場所で、亜美の眠るこの場所で、そんな感情に突き動かされた事に驚きを覚えずにいられなかった。
亜美への贖罪は続くだろう、けれど、彼女のことは見つけ出してみせる。
本名も、生年月日も、実家も知っている。
けれど、彼女の事は何も知らない。それなのに、誰よりも彼女の事を知っているとも思う。
直樹はもう一度亜美の眠る墓に向かって手を合わせた。
そしてそのまま、脳裏に浮かんだ希望を消さないように、来た道に向かって歩き出した。




