愛してるよ
三月一五日。朝起きると、亜美はいなかった。
亜美がいないことに気づいて、僕はすぐに家中を、近所中を探しまわった。
亜美の乾いた服はなく、亜美が着ていた僕の服はきれいに折り畳んであり、コップも何もかも洗って元の位置に置いてあった。
まるで、誰も来ていなかったかのように。
僕は亜美を探してあの交差点に行き、バーガーショップへ行き、亜美の墓へ行った。
昨日置いてきたはずの黄色いガーベラの花束はなくなっていた。
亜美の痕跡がすべて消えていた。
冷や汗が背中をつたうような感覚に襲われていた。
亜美の温もりや香りは、まだ体に残っているのに。
これからずっと続くと思っていた幸せが、起きた瞬間、跡形も無くなくなっていた。
眠ってしまった自分を責めた。どうして亜美をずっと見張っておかなかった。どこにも消えないように。いなくならないように。ずっと見つめているべきだった。
自分の不甲斐なさに、涙が止まらなかった。街中を探して探して、探しまわって、僕は気づいたら多摩川の河川敷にいた。
何度も亜美を送った多摩川の河川敷を一人で泣きながら歩いた。
昨日と打って変わって、今日は真っ赤な夕日が沈んでいる。そしてそのとき、もう夕方になっていたことに気づいた。
まるで僕を慰めるようなその夕日は、高校のとき亜美と一緒に歩いた帰り道と同じ美しい夕日だった。
「ねえ。ほら夕日。キレイだね」
亜美の声が聞こえた気がして、思わず振り返った。しかし、周りには誰もいなく、遠くの方で犬の散歩をしている老人や、ウォーキングをしている人がいるだけだった。
また、幽霊の亜美が現れる気がして、その場に座り込んだ。夕日がだんだんと沈むのを見ながら、あの日の事を思い出していた。
「君のほうがキレイだよ」
夕日をきれいだと言う亜美に向かって、僕はそう言った。亜美が驚いてこっちを見たので、冗談で紛らわした。十分本気だったのだけれど。
「一度言ってみたかった」
当時海外ドラマを見て、さらりと言ってのけるアメリカ人の真似をしてみたかったのだ。
満足そうな僕を見て、亜美は逆襲に出てきた。
「一度しか言わないわけ?」
僕はぎょっとして、慌てていった。
「ああ。うん。ううん。そんなことはないと思う」
亜美の挑戦的な顔を見ていたら、勝てないなあと思った。
「そのうちね」
僕はそう言って、ごまかすように夕日の方に目をやった。けれどあまりにもきれいな夕日に、そのまま見とれてしまった。
そんなとき、聞こえた。
「愛してるよ」
僕は言葉の主の方を思いっきり見た。今の言葉を確かめるために。
「え?」
「愛してるよって言ったの」
亜美と目と目が合った瞬間、僕の頭は沸騰しそうだった。
「え。何、どうした」
しどろもどろの僕を見て、亜美は満面の笑みで言った。
「一度言ってみたかったの」
勝てないなあと、また思った。やっぱり、亜美には一生勝てない。
「あ、そう」
僕がそう言うと、亜美はつないでいた手を引いて、僕を川の土手の芝生に座らせた。
正面に夕日を見据えながら、亜美は僕の肩に頭を置いて僕の腕をぎゅっとつかんだ。
「寒くない?」
僕が亜美に聞くと、亜美は少しだけ頭を縦に振った。
隣に亜美の体温を感じながら、僕たちは夕日を見つめていた。そんなとき、亜美が呟いた。
「愛してるよ」
確かめるように呟いたその声を聞いて、僕が亜美の方を向いても、亜美は夕日を見つめ続けていた。
亜美の告白は、あまりにも小さく、か細く、だけど僕の心を温かくした。
これ以上無いぐらいに。
そして僕も告白をした。
「…愛してるよ」
僕の振り絞った声を聞いて、亜美は顔を上げた。でも僕は、あまりの恥ずかしさに、そっぽむいてしまった。その瞬間、亜美が僕の腕にきつくしがみついてきた。僕は恥ずかしまぎれに呟いた。
「一度言ってみたかった…」
間髪入れずに亜美が言う。
「一度しか言わないわけ?」
僕はちょっと考えて、言った。
「そのうちね」
涙が止まらなかった。
通り過ぎる人が怪訝に思うくらい、僕は泣いていた。
亜美との思い出は、あまりにも鮮明に記憶の引き出しにしまわれていた。
そしてそれは残酷なほど美しくて悲しかった。
夕日の美しさが憎くて、すぐにその場から逃げ出した。それでも夕日はずっと追ってきて、走っても走っても僕の影を色濃くしていた。




