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幽霊

 その日は朝から雨が降っていた。

 

 大学三年の三月十四日。僕は亜美が死んだ交差点にいた。


 命日には必ず墓参りをしていたが、その前に必ず亜美が死んだ交差点に来た。

 辛い場所には間違いは無かったが、ここにくると否が応でも亜美を思い出せた。


 その日、交差点に近づくと、いつもとは違う雰囲気に気がついた。

 周りの視線が一斉に何かを見ている。

 蔑むようなその視線は、交差点の横断歩道の前に立っている人に向かっていた。

 視線の先にいたその人は部屋着のような格好で、雨の中傘もささずに立っていた。

 一瞬ホームレスかと思ったが、長い髪と華奢な体で、女の子だと気づいた。

 横断歩道は青なのに、渡る気配もない。異様な雰囲気に気づかずに歩いてきた人が、彼女にぶつかり、邪魔そうに舌打ちをうった。

 そのとき、彼女の体が揺れ、顔が少しだけこっちを向いた。


 雨の中、佇んでいたのは亜美だった。


 息が止まった。そして、目をこらしてもう一度彼女を見た。

 幻覚か、幽霊かと思ったのだ。 

 信号が赤信号に変わり、車が動きだした。車が流れるような速度になった途端、亜美がふらりと動き出した。

 まるで、その流れに飛び込むかのように

 

 僕は咄嗟に亜美の手をとった。


 間違いなく触れるその手を握った僕を、亜美は面倒くさそうに見上げた。

 亜美はびしょ濡れだった。頭からつま先まで、まるでプールに飛び込んだんじゃないかと思うくらい全身が濡れていた。着ていたグレーのスウェットは、水に濡れてダークグレーになっていた。

 濡れた前髪からのぞいた亜美の目は、僕を見た瞬間大きく見開かれていた。

 そしてそれを見て、僕は間違いなく彼女を亜美だと確信した。


 僕の、「特別な亜美」だ。


「亜美」

 

 幽霊を見ているかのように驚愕している表情の亜美を、思わず抱きしめた。

 亜美が帰ってきたのだ。

 亜美の誕生日に、亜美が帰ってきたのだ。僕の亜美だ。

「亜美、亜美」

 何回亜美と言ったか覚えてないくらい名前を呼んだ。この腕から消えてしまわないように思いっきり抱きしめた。あの頃と同じように、亜美はすっぽりと僕の腕の中におさまった。

 いつの間にか亜美の腕も僕の背中にまわっていた。亜美の顔を見ると、亜美の顔は濡れていた。もちろん雨でびしょびしょだったのもあるが、亜美は泣いていた。

「亜美?」 

 どうして泣いているの?と聞こうと思ったが言葉をのんだ。亜美は声を出さずに泣いていた。

 そして、僕に何かを伝えようとしていた。だけど声が出ていないのだ。

 亜美は声を発しようとのどを手で押さえながら懸命に話していた。それでも、声は出なかった。亜美の目からぽろぽろ涙がこぼれるのを見て、僕は思わず亜美を抱きしめた。

「大丈夫。大丈夫だ」

 何が大丈夫かよくわかんないけど僕は何度も亜美にそう言った。

 亜美が戻ってきたのだ。声がでなくたってかまわない。本気でそう思った。

 抱きしめながら亜美の頭をなでたとき、亜美の髪があまりにびしょ濡れなのを思い出した。

 このままでは風邪をひいてしまう。

 幽霊が風邪をひくのかは知らないけれども、いや幽霊なのかも定かではないけれども。

 そしてふと気づいたら僕らは結構な雑踏の中にいて、周囲から奇異な目で見られていた。

 亜美だと気づいた瞬間から人の目など気にもしてなかったけど、遠巻きに人々が僕らをぽかんと見ていた。

「行こう」

 僕は急に頭に血が上って、落としていた傘を拾って亜美の手を引っ張って人ごみをすり抜けた。

 亜美が雨に濡れないように、肩を組んでぴったりとくっつきながら歩く。亜美が腕をすり抜けて消えてしまわないか心配になった。

 どこか暖かいところにいかないと…と思った僕が思いついたのは自分の家だった。

 大学に入ってから一人暮らしを始めた僕の家は、渋谷から電車ですぐだったのだ。

「亜美、えっと、ウチ、くる?」

 歩きながら亜美に訪ねると、亜美はきょとんとした顔をした。僕はあわてて付け足す。

「ほら、すげー濡れてるし。このままだと風邪引いちゃうし。あ!俺一人暮らししてるんだ!今」

 亜美は呆然としているようにも見えたのだけど、コクンと頷いた。

 その瞬間僕は一刻も早く家に帰らなければという使命感に燃えだし、思わずタクシーをとめた。

 タクシーに亜美を押し込むと、あまりにびしょ濡れな僕らをみて運転手はぎょっとしていた。けれど何も言わず走らせてくれた。そして僕は慌てて財布の中を確認する。

 大学に入ったと同時に一人暮らしを始めたが、誰も家に入れた事はなかった。大学は電車で一本で行けるが、微妙に時間がかかるので友人達を招かずに済んだし、自分の家を荒らされるのが嫌で誰も招待しなかった。家を知られたら突然押し掛ける奴らだっている。実際大学の近くに住んでるやつらはその餌食だった。

 そして何より、亜美の写真を誰にも見せたくなかった。

 つまり今まで親と引越しを手伝ってくれた大輔以外、香奈さえも入れた事のない家に、はじめて来るのが亜美だった。

 タクシーでもうすぐ家に着きそうな頃、僕は突然その事に気づき、有頂天になった。

 二度と、絶対に、起こらないと思っていたことだったから。

 タクシー代を払う時に、亜美は突然きょろきょろしながらポケットを探した。お金を払おうと、財布を捜しているようだったが、亜美は何も持っていなかった。

 そして、すまなそうに僕が支払うのを見てお辞儀をした。その瞬間抱きしめたくなったのだが、我慢我慢。もうすぐ家だ。いやいや。家だからってそんなことは考えていないよなどと僕の思考はハイテンションのあまりおかしな事になっていた。

「ここの1階」

 僕の家を見て、亜美はぽかんとしていた。そんな亜美を引っ張ってドアの鍵を開けた。

 あまりに殺風景な部屋を見て呆れているのだろうか?亜美はまたぽかんと僕の部屋に立ち尽くしていた。

「亜美、シャワーあびな」

 僕はタオルを手渡して、風呂場を指差した。一応バス・トイレは別だ。クローゼットから亜美が着れそうなトレーナーとジャージを引っ張りだしてそれも渡す。亜美の服はあまりにもびしょびしょで着れそうもなかった。亜美はこくんと頷いてバスルームに消えていった。

 亜美ほどではないがびしょびしょになった自分の服を着替えると、シャワーの音が聞こえてきた。

 僕はバスルームのほうへ行き、シャワーの音を確認する。そしてまた部屋に戻る。またシャワーの音を確認する。亜美の存在を確認するようにうろうろしていた。

 このまま亜美が消えてしまったらどうしよう。そう思うと気が気じゃなかった。今すぐにでも風呂場に突入したいくらいだったが、さすがにそれは紳士のすることではない。と、自分を制して相変わらずうろうろし続けた。

 シャワーの音が消えて五分はまともに息が吸えないくらいだった。おそらく亜美は着替えているんだろうが、とにかく生きた心地がしなかった。今すぐにでも…と思いながらうろうろし続けた。

 そうこうするうちに、着替えてほかほかになった亜美が姿を現した。亜美の体には僕の服は大きくて、ぶかぶかだった。僕が可愛さに我慢できずに抱きしめると、亜美はシャンプーのいい匂いがした。自分のシャンプーなのに、嗅いだ事もないようないい匂いだった。僕があまりに強く抱きしめたせいか、亜美が僕の背中をぽんぽんと叩いて我に返った。そして亜美が僕を見て笑った。

 なんだなんだ、なんなんだ。この愛しい生き物は。

 この四年間。亜美がいなかった四年間の絶望が思い出せないくらい僕は幸せになった。

 僕は泣きそうだったのか、亜美が心配そうに僕の頭をなでていた。やばい!泣く!と思って、咄嗟にキッチンの方をむいた。

「なんか飲む?お茶か、紅茶か」

 僕はそう言って亜美の声が出ない事を思い出した。あわてて目をこすって亜美の方を向くと、亜美は『こうちゃ』と口を動かした。

 お湯を沸かしている間、ティーパックを探していると亜美が窓の方をじっと見ている事に気がついた。

 何を見ているのかと思って覗くと、ベッドのサイドテーブルに飾っていた亜美と僕の写真だった。

「それ、覚えてる?」

 僕の声にびっくりしたのか、ぱっと亜美が振り返った。

「修学旅行の時の写真」

 亜美がまた写真に目を戻してコクンと頷く。そして、僕の方を見て、微笑みながら口を開いて言った。


 あみとなおき


 亜美だ。間違いなく、目の前にいるのは亜美なんだ。僕の目頭が熱くなる。

 亜美は僕の涙を見て驚いたのか、ハッと口をつぐんだ。

 あのとき、あの場所で、二人だけで話していたあのかけ声を知っているのは世界で亜美だけだ。

 夢でも幻でも幽霊でも幻覚でも、なんだっていい。

 もうどこにも行かせない。

 どこにも行かないでくれ。

 気づいたら亜美が僕を抱きしめてくれていた。崩れ落ちて亜美にしがみついて泣いていた僕に、亜美は子供を宥めるようにポンポンと背中をさすってくれていた。

 涙をふいて亜美の顔を見ると、亜美も泣きそうな顔をしていた。その顔は、悲しげで、思い悩んでいるような、複雑な顔をしていた。どうしてそんな顔をしているのか、僕にはまったくわからなかった。


 でも、その理由はすぐ後に知る事になる。


 僕が悪夢を見ることになったその理由を。


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