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別れ

 香奈から連絡が来たのは、三月に入ってすぐだった。

 バレンタインデーのチョコをもらって以来、お互い連絡をする事はなかったし、正直に言うと思い出しもしていなかった。

 携帯に着信があったので、会社帰りにかけ直すとすぐに香奈が出た。

「今忙しい?」

 直樹から電話をかけたにも関わらす、香奈が気にして聞く。今思うと、香奈は出会った頃からずっとこうだった。常に直樹の顔色をうかがうように、邪魔にならないように。

 そうさせてきたのは自分だったと、今頃気づく。

「いや。大丈夫。どうした?」

「うん。…今日、来ない?」

 香奈から誘われたのは久しぶりだった。久しぶりで、前がいつだったかも覚えていないくらい。勇気を振り絞って誘っている事が声からもわかった。

「わかった。今から行けばいい?」

「うん」

 香奈が嬉しそうに答えた。それでも、言わなければいけない。

「俺も話があったんだ」

 直樹が言うと、香奈が沈黙した。その沈黙が重苦しい。何秒か経って香奈が、そう、と小さく言ったのが聞こえた。

 電話を切った後も、重苦しさは続いた。香奈は気づいただろうか。決していい話ではないことを。いや、彼女にとってはいい話なのだ。そう直樹は思った。

 こんな男、とっとと切り捨てろ。



 香奈に別れを告げたのは、大学三年のホワイトデーの後だった。

 はっきりと付き合っていたわけじゃなかった。でも、はっきりと別れを告げた。

 僕の言葉を聞いて、香奈は悲しそうに頷いた。

 僕は心底ほっとした。香奈がすんなり受け入れてくれた事を。香奈がどう出ようと別れようと思っていたからだ。…どんな酷い手を使っても。

 香奈は泣くでもなく、笑うでもなく、放心したようにその場にいた。そして、何かを考え込んでいるかのようにも見えた。

 こうなることは、わかっていたかのように。

 亜美の事を、香奈に話した事は一度もなかった。だから、香奈は亜美のことを知らない。でも間違いなく、香奈は僕の過去に何かあったことはわかっていたと思う。

 いつも気づかぬように、傷つけないように、僕の事を真綿に包むような優しさをくれた。

 そんな優しさに苛ついた事もあった。

 香奈と別れて、心は落ち着いていた。持っていた重石が、ひとつなくなったような感覚。それは香奈にとってどんなに残酷なことだっただろう。

 何かを逡巡しているような顔の香奈を見ながら、最悪にも僕は亜美の事を考えていた。


 

 あれはバレンタインデーの少し前だった。帰りに寄ったカフェで、彼女は突然僕の目の前で仁王立ちをしていた。

「どうして教えてくれなかったの?」

「え?何が?」

「誕生日。十一月だったんでしょ?」

「あー。だってほら。なぁ」

 怒った顔の彼女は、僕に詰め寄った。

「何が欲しい?」

 突然の提案に、僕はうれしくなった。

「なんかくれんの?」

「買える範囲ならね」

 彼女は僕の向かい側に座って、飲み物がのっているトレーをテーブルに置いた。

「そうだな」

 僕はおあずけをくらっていたカフェオレを飲んだ。

 欲しいものか…と考えるものの、何も思い浮かばなかった。

「やっぱいいや」

「なんでぇ?」

「だってもう3ヶ月も過ぎてるし。今欲しいもの思いつかん」

「なんかあるでしょ?ほら財布とか、ゲームとか、…チャリンコとか!」

 チャリンコといわれて、思わずカフェオレを吹き出しそうになった。

「チャリンコォ?なんで?」

「いやなんとなく」

「…別にないよ。チャリンコもってるし。じゃあさ、次の誕生日に奮発してよ」

 僕が言うと、彼女の顔が突然苦痛に歪んだ。

「だめ。だめ。…今年は今年」

 どうしてなのかわからなかったが、彼女は頑に首をふった。僕が首をかしげると、彼女は尚も詰め寄ってきた。

「いいから」

 そう言った瞬間、彼女は急に何かに気づいたように、考え込んだ。

「亜美?」

 僕の声に、彼女は顔を上げた。

 また、何か。正体不明な何かが彼女を捕らえている気がした。

「どしたの?」

 彼女に僕の心配を悟らせないように、こっちの世界に引き戻す。 

「やっぱ思いつかないんだけど」

 僕がそう言うと、彼女は悲しそうな顔をしてつぶやいた。

「…じゃあ、いい」  

 そして、今までの事が夢だったかのように、ニコっと笑った。

「わかった。今年の誕生日は、奮発してあげるね」

 彼女の笑顔に、ほっとした。

「よろしく」

 そして、僕は次の誕生日に何をもらおうか考えはじめるふりをした。

 

 あの時の彼女は何を思っていたのか。

 なぜか香奈の顔を見ながら考えていた。香奈の表情が、あのときの考え込む亜美の表情に似ている気がしたから。

 あの正体不明の危惧が一体なんだったのか。

 彼女は何を逡巡していたのか。

 その理由は、すでにはっきりと分かっていた。

 けれど思考は考えるのを止めた。


 二年前、一度香奈に別れを告げた。そしてもう一度、同じ事をしようとしている。

 香奈はあの時のように、すんなり受け入れてくれるだろうか。それとも、泣くだろうか。



 香奈の家に着き、インターホンを押すと、すぐに香奈がドアを開けた。

 入るとすぐに香奈の部屋の匂いが香る。大学に入ったばかりの頃は、この匂いが心を落ち着けてくれたこともあった。亜美がいなくなり、人肌恋しくて香奈を抱いたとき。少しだけ慰められたことも認めざるをえない。

 けれどもう二度とそんな気持ちにはならない。

 いや、なれない。

「コーヒーでいい?」

 香奈がキッチンで客用のマグカップの用意をする。この部屋に直樹の持ち物は何一つない。何も持ち込んだ事がないから。 

「香奈」

 直樹に呼ばれて、香奈は一瞬びくっと肩を震わせた。

「ん?」

 それを悟らせないように、明るく振りむく。

 一刀両断に断ち切る。そう直樹は決めていた。言うべきことは一言。別れる時の最大の文句を。

「好きなひとがいる」

 そう直樹が言うと、香奈は俯いて言った。

「…知ってる」

「え?」

 思ってもみなかった答えに、直樹は驚いた。知ってる?俺だって知らないのに?

 そう思って黙っていると、苦渋の顔をした香奈が呟いた。

「高校の時の彼女でしょ?」

 香奈の言葉に、直樹の顔色が変わった。

「彼女の事、話してくれるの、ずっと待ってた」

 香奈は今にも泣きそうな顔をしていた。きっと付き合っていた当時から、重くのしかかっていたのだろう。直樹の「元カノ」のことが。

 しかし、直樹はそんな香奈の様子はまったく意にも止めず聞いた。

「なんで知ってる」

 今まで見た事も無いような直樹の鋭い表情に、香奈はハッとした。

「誰に聞いた」

「…友達の友達が、直樹と同じ高校だった」

 それを聞いて、直樹は香奈から顔を背けた。何かを反芻しているかのように、考え込んでいるように見えた。

「…そう」

「言って…欲しかったの」

 香奈の精一杯の言葉だった。わがままの言った事の無い香奈の、初めての願いだった。しかし、直樹はそれを打ち砕いた。 

「言わないよ」

 香奈の傷ついた顔を見ても、何も感じなかった。

 どうでもいいとさえ思った。今すぐここから出たいと思った。突然湧き出た怒りを、香奈にぶつける前に。

「もう会わない。番号も、消して」

 直樹はそのまま帰ろうとドアの方へ向かった。

「直樹、ごめん、帰らないで」

 帰ろうとする直樹に、香奈はしがみついた。

「好きなの。好きなの。お願い。もう二度と言わないから」

 背中に香奈の熱を感じて、直樹は我に返った。このまま断ち切るのは、あまりにも自分勝手すぎる。香奈の四年を無駄にした自分が。

 そして、直樹は香奈の方を向き直り、言った。

「香奈、今まで振り回してごめん。俺はダメだから。俺の事はもう忘れて。お願いだから。」

 悲しそうな直樹の顔を見て、香奈の目から涙は流れるのを止めた。

「好きだった?」

 香奈がぽつりと言った。私のこと、好きだった?と。

 直樹の苦しそうな顔を見て、ああ、この人は私ではダメなんだと、完全に悟った。

 そのまま直樹は香奈の家を出た。玄関で悄然と立ち尽くす香奈のことを振り返る事は無かった。



 一瞬だけど、香奈との未来を見た事があった。

 だけどあの日、二年前のあの雨のホワイトデーから、そんなことを考えるのは止めた。

 自分にはそんな資格が無い事がわかったから。

 香奈ではないということがはっきりわかったから。

 

 その日から、直樹は眠るのを止めた。


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