幸せな四ヶ月
洪水のような雨の中、倒れる亜美に触れる事もできず、立ち尽くす。
流れる雨はどこまでも地面を濡らし、弾くように足元に襲い掛かる。うるさいほどの雨の音とクラクションが響き渡る中、はっきりと目に映る鮮烈な後ろ姿。記憶にはほとんど残っていないはずなのに、その人は鮮明に直樹の目に焼き付いている。
「山内、具合でも悪いのか?」
菊池に声をかけられて、ふと我に返った。持っていたはずの箸が指から転げ落ちていた。
「食いながら寝てんなよ」
笑いながら定食の乗ったトレーを持った菊池が直樹の正面に腰をかけた。社員食堂で昼食を食べながらうたた寝していたようだ。
「なんだよ、寝不足か?」
大きなハンバーグをまるごと頬張りながら、菊池が直樹の顔を覗き込む。
「最近ちょっと、調子が悪くて」
直樹が苦笑いしながら箸を持ち直す。食べていたうどんはすっかりのびていた。
「そっか。じゃあ合コンやろうぜ。合コン。今週の金曜ひま?」
「今、俺、具合悪いって言いましたよね」
菊池の能天気さに、思わず笑みがもれた。
「山内は何もしなくていいから。ほら、パンダだから。パンダ。あ、でも食った分金は払えよ」
開けっぴろげな菊池の性格が好きだ。思った事を口にしてしまう正直さは、危うい時もあるが、幸運な事に上司にも取引先にも可愛がられている。そして菊池の下にいる直樹もその恩恵を受けている。
「がーっと酒飲んで、ばーっと寝ちまえばすぐよくなるって。な?金曜。あさって」
あっというまにハンバーグ定食を食べ終わっていた菊池にばんばんと肩を叩かれた。
「相手は誰なんですか?」
「総務のミヨちゃん」
「ほんっと、顔広いですよね」
「いいだろ?あさって7時から」
満面の笑顔の菊池に、直樹は失笑する。
「いいっすよ」
「よっしゃ。いや、実は絶対お前連れてこいって頼まれてたからさ〜。助かったわ〜」
菊池の一言に直樹は目を細めた。彼の中では損得勘定などない、素の一言なのだ。
自分は本当に恵まれていると思う。人間関係に。
容姿のせいで、何度か嫌な目に合った事がある。男からの嫉妬だ。
嫌味を言われた事は一度や二度ではない。それでも、周りには大輔や菊池など信頼できる仲間がいてくれたから、孤立することなくやってこれた。
それにどれだけ、助けられたか。
取引先の会社を出て駅へ向かおうとすると、目の前に東京タワーが見えた。
ライトアップで輝く東京タワーを見ていたら、高校二年生の時の大晦日を思い出した。
あの日は亜美と、大輔とイノッチと一緒に年越しをした。
前に大輔とイノッチが歩き、後ろに僕と亜美が並んで歩いていた。能天気な僕は彼女と一緒に過ごす年越しがうれしくて、子供のようにうきうきしていた。
「なんか腹へらねー?」
「さっき食べたじゃん」
僕が言うと前を歩いていた大輔が茶々を入れた。
「あ、東京タワーだ」
イノッチの指差す方を見ると、東京タワーが赤い光を放って輝いていた。
「あたし東京タワー上ったことないんだよね」
彼女が嬉しそうに僕の腕にぎゅっと腕を絡めた。
「東京に住んでる人って逆にのぼんないよね」
「ってかさー。のぼれんの?」
イノッチの話の後に、大輔がぼそっと呟いた。確かに。
「だよなあ。もうしまってんじゃねー?」
「ええ?うそ!」
僕が言うと、女子二人が叫んだ。
「のぼりたいのぼりたい~」
だだをこねる二人を無視して、僕と大輔は進行方向に見えるたこ焼き屋に気をとられていた。
「直樹ー。たこ焼き食お、たこ焼き」
「食う食う」
結局、東京タワーには上る事ができなかった。
東京タワーの真下の特設イベントでニューイヤーズイベントがあるらしく、時間まで僕たちは芝増上寺で年末詣でをすることにした。
「やーい、俺大吉―」
引いたおみくじの結果が嬉しくて、僕はみんなにみせびらかした。
「げっ、あたし小吉…亜美は?」
「あたし凶…」
イノッチの問いかけに、彼女はこれ以上無いくらいショックな顔をしていた。
「あ、俺も大吉だ」
能天気な大輔の一言に、更にショックを受ける。
「なになに?健康悪し?待ち人来ず。来ずだって!」
僕が亜美の結果を覗き込んで読み出すと、キッと睨まれた。
「大丈夫だよ、悪いほうがいいって言うじゃん」
「そうだよ、失せ物は出なくても無くしたこともすぐ忘れるからいいじゃないか」
「そうだよ」
イノッチの慰めのあとに、大輔が余計な一言をはさみ、更に僕が留めをさす。
「もういいです。来年はきっと良くなる一方よ」
自分で自分に言い聞かせている彼女が、健気で可愛い。
僕はこっそり耳打ちをした。
「うそうそ、待ち人はもう来てるからいいじゃないか」
それを聞いて、彼女はニコニコと僕の腕を組んできた。
カウントダウンの時間が近づき、僕たちは東京タワーの方へ戻った。イベントのやっているステージには凄い人が集まっていて、近づけそうになかった。聞こえてくるカウントダウンの声だけを聞きながら時間が来るのを待つ。
「あと30秒」
大輔が携帯の時報を聞きながら言った。
彼女はぼんやり東京タワーを眺めている。
「あと10秒」
僕が言って、握っていた手を強く握ると、目が合った。
「来年もよろしく」
僕が言うと、彼女が微笑んだ。
「5、4、3、2、1、・・・あけましておめでとう!」
周りで響くカウントダウンと同時にものすごい量の風船が巻き上がった。真っ暗な空に大量の風船が舞い上がり、歓声が上がった。
僕が上空を仰ぎ見ようとしたら、突然顔を下に向けられキスをされた。
「今年もよろしく」
彼女が言う。僕は笑った。
その三ヶ月後に亜美が死ぬなんて想像もしていなかった。
ずっと一緒にいられると思ってた。
亜美と付き合っていたのはたった四ヶ月。
四ヶ月だったなんて信じられないくらい、僕にとって一生で一番長く、短い四ヶ月だった。
僕にとって、最も幸せな四ヶ月だった。




