ホワイトデー
本当にいつからこんな人間になったのだろう。意地汚い。人を見下す。人の気持ちを踏みにじる人間。到底自分はそんな権利を持っていると思わないのに。
すべて、あの瞬間から始まったのだ。自分が最低な人間だと気づいたあの瞬間に。
今じゃ思い出すこともままならない。自分で闇に葬ったあの記憶。
一人取り残された広いオフィスで、直樹はふとパソコンに目をやった。随分放りっぱなしだったせいで、スリープ状態の暗い画面が流れていた。パソコンをクリックするとパスワード入力の画面が現れた。パソコンの画面上の時間は十時になろうとしていた。
直樹はため息をついて頬杖をついた。もう残りは明日にしようか。
初めて一人で行く出張で勇んで準備を始めたものの、急いでやるほどの量の仕事でもないのだ。ただ、家に帰りたくなかっただけで。
しんとするオフィスに一人座っている自分を自覚しただけで、孤独を感じた。ずっと感じ続けている事なのに。自覚すればするほど孤独は深まる。
パソコンのシステムを終了させ、直樹は立ち上がった。その瞬間に、携帯が鳴った。
香奈だった。
「もしもし」
「直樹?今大丈夫?」
香奈は電話をかけてくると、いつも大丈夫?と聞く。その気遣いが、今は心地よかった。
「どうした?」
「この前ウチに来た時マフラー忘れたでしょ?あたしも今気づいたんだけど」
そういわれてみると確かに。ここ数日、首元が寒かったはずだ。自分でも気づいていなかった。
「どうする?」
「今から取りに行くわ。行って平気?」
「うん。わかった。待ってる」
それだけ言って、電話を切った。気を紛らわせるためならどこへでも行ける気分だった。
会社を出て、地下鉄の入り口に向かった。なるほど、確かにマフラーがないと首元が寒い。気づきもしなかった自分に呆れてしまう。
香奈の家は会社の最寄り駅から地下鉄で一本で行ける。終電に向けて少し混み始めている車内に乗り込むと、中吊り広告が目についた。
『ホワイトデー!冬のデート服特集』
この時期によくある、女性誌の広告の見出しだった。バレンタインデーが終わった瞬間、世間はホワイトデーに向けて走り出す。
香奈とつきあっていた大学時代。ホワイトデーのお返しをした事は一度もない。香奈は毎年、バレンタインデーには手作りの凝ったチョコをくれていたにもかかわらず。
香奈も何かを感じていたのか、お返しを求めてきた事はなかった。
一度も一緒にホワイトデーを過ごした事がないからかもしれない。
ホワイトデーは、「亜美の命日」になったから。
それは直樹の生涯で、もう変わる事はないだろう。




