7.名付けを放棄する
生徒会副会長であるイシスは、クレハラッド公爵家嫡男で、優秀で次期宰相候補と言われるくらい将来に期待もされている。性格は生真面目だが紳士的で優しいし、気も利くし、彼は結婚相手を大切にするのだろう。
そう、天使のロゼリアの夫として、何ひとつ不足はない。
不足はないのだ。
(⋯⋯不足はないのだが⋯⋯なんだろうか⋯⋯)
何故こんなに胸がモヤモヤとするのか。
(ロゼリアには誰とも結婚しない天使でいて欲しかった⋯⋯? いや、少し違うな。結婚してもしなくてもロゼリアは天使に違いない。だとしたら⋯⋯)
ぐるぐると考えても答えが出ない。
自分は何がこんなにひっかかるのか。
おめでたいはずなのに、祝福の気持ちが一つも出てこないのは何故だろうか。
「殿下? どうかされましたか?」
纏まらない思考の代わりに一つため息を漏らすと、イシスが心配そうに声をかけてきた。
「⋯⋯婚約話が出たらしいな」
「⋯⋯? 俺の話ですか? 先週、シュタッフェル侯爵家のロゼリア嬢との話が上がりました。大人しめの方ですが優しくて素敵な方です」
「⋯⋯知っている」
「え?」
ロゼリアが大人しくて優しくて素敵なのはよく知っている。
何故だか、自分の方が彼女をよく知っているのだと主張したくなる。
「ええと⋯⋯。もしかして、婚約話を報告しなかったのを怒っているのですか? まだ話だけなので確定したら報告しようと思っていたのですが」
「⋯⋯」
違う。そうじゃない。
「イシスに怒っているわけではない。⋯⋯ただ、お前を見るとなんかイライラする」
「そんな理不尽な」
再びため息を吐き、とりあえず仕事に集中しようと視線を落とした。
◇
ルペリオ暦629年1月7日
ロゼリアの婚約話を聞いてからしばらく、コリンナが学園に来なくなった日があった。
イシスがやたらと彼女を気にかけていたが、今はすっかり元気で、いつも通り仕事をこなしてくれている。
あの日の落ち込みっぷりは何だったのかと思うくらいで、女心はよく分からないと思う。
一方ディートハルトの方はと言うと、未だに自分の気持ちが整理出来ないでいた。
ただ、ロゼリアを見ているうちは胸のモヤモヤも忘れられて以前と同じ幸せな気持ちになれるので、ディートハルトは今日もロゼリアを観察する。
ロゼリアは雪が好きなようだ。
しんしんと降る雪を輝く瞳で見つめて、誰も足跡を付けていない雪原を見つけると、嬉しそうに走り出した。
一歩一歩、まるでダンスでも踊るように雪を踏みしめる。雪の白色と彼女のシルバーの髪が溶け合ってキラキラと輝く。
(雪の上で踊る天使がいる。美しい⋯⋯。⋯⋯しかしあんな薄着で風邪を引かないだろうか)
ふと、自分の上着を握る。
(そうだ、女性は体を冷やしてはいけないと言うし、侯爵家のご令嬢が風邪を引くと皆心配するだろう。だからこれは人助けであって、決してロゼリアと話したいとか、自分の上着を着てくれたら嬉しいだとか⋯⋯やましい気持ちがあるわけではない。そう、人命救助の一環だ)
心の中で充分に言い訳を重ねてから一歩踏み出した時だ。
「ロゼリア嬢」
「⋯⋯イシス様?」
別方向からやって来たイシスに、ディートハルトは慌てて物陰に身を潜めた。
会話ははっきりとは聞こえなかったが、イシスが何やらロゼリアに言い、自分の上着をかけていた。
それに答えるロゼリアは慌てた様子だったが、イシスが何かを言うと嬉しそうな表情になった。イシスもまたそんなロゼリアと柔らかい表情で笑い合う。
笑顔のロゼリア。幸せそうな光景。
だと言うのに、ディートハルトの心は鉛のように重くなった。いつもの心がふわふわとするような幸福感じゃない。
まるで拷問でも受けているように、その光景を見ているのが辛くて、足早にその場を離れた。
(ロゼリアは、コリンナ以外にも笑いかけるのだな)
新しいロゼリア情報だと言うのに、ちっとも嬉しくないし、心踊らなかった。
上着は変わらず羽織っているのに、ディートハルトの体は先程よりも冷えていく気がした。
◇
ルペリオ暦629年2月6日
学園は休みだが、ディートハルトには王太子としての政務があり、王宮の執務室で仕事をする時もある。
仕事に一区切りついて休憩を提案すると、補佐を務めていたイシスが少し緊張したような表情で近づいてきた。
「報告があります」
「⋯⋯なんだ?」
普段遠慮なく物事を言うイシスが言葉を探す様子に、嫌な予感が胸を過ぎった。咄嗟に耳を塞ぎたい衝動に駆られたが、イシスが言葉を紡ぐ方が早かった。
「昨日、正式に求婚を行い婚約が決まりました」
「⋯⋯っ」
息を呑んだ。目の前が真っ暗になっていくような感覚がする。
ぐらりと視界が揺れる。イシスが何か次の言葉を紡ごうとしたのを察し、「そうか」と話を切ると「政務に戻る」と休憩を切り上げた。
「全然休憩していませんが?」という声が聞こえたが、今は仕事に打ち込んで、他は何も考えたくなかった。
(側近であり友人でもあるイシスの婚約⋯⋯。おめでたいはずなのに、祝いの言葉が出てこない⋯⋯)
むしろその婚約をやめて欲しいと思うなんて王太子失格だろうか、と思うディートハルトは、唇を噛んで言葉を飲み込んだ。
◇
ルペリオ暦629年2月7日
生徒会の仕事終わり、コリンナに呼び止められた。
「殿下にはいろいろとご心配をおかけしたかと思いまして⋯⋯。⋯⋯実は、婚約が決まりました」
「⋯⋯知っている。すまないが今日は予定が入っているのでな」
イシスとロゼリアの婚約の話は聞きたくないと思い、早々に会話を切り上げると足早に生徒会室を出た。
「そうですか」と苦笑したコリンナが「勘違いをされていないかしら⋯⋯」と呟いたのをディートハルトは知らなかった。
ディートハルトは校舎裏にやって来ていた。奥から三番目のロゼリアを初めて見つけた聖なる木の前だ。
今日はそこにロゼリアはいない。
木の幹に手を這わす。
ここにロゼリアがもたれかかっていた。
挨拶の練習で話しかけてもいた。
そういえば、根っこにつまずいて転びかけていたこともあった。
「ロゼリア⋯⋯」
ディートハルトはもう、ロゼリアの観察をしていない。
ロゼリアを見ていると胸が痛む。
いつもの一人で本を読んだりぼんやりしたりしている様子を見ているはずなのに、イシスと笑い合っていた姿ばかりが頭に浮かぶ。
以前のように幸せな気持ちになれない。ただただ、苦しい。
ロゼリアと話したかった。イシスのように仲良くなりたかった。笑い合いたかった。
けれど、それはディートハルトだけの望みで、彼女は自分を『この国の王太子殿下』くらいでしか認識していないのだろう。
当然だ。今まで何もしてこなかったのだから。
(今更、気づいて後悔しても遅いのに⋯⋯)
心の奥底にずっとあった感情に、名前を付けることはしなかった。