見てはいけない者
気を付けろ!油断したら理不尽は訪れる。
注意せよ。
深夜のホームに、虫の声が響いたら──
見てはいけないものが、あなたを試している。
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月に一度の出勤日。
久々に顔を合わせるデザイン部門の面々とのチームミーティングも午前中で終わり、
残りの時間はマスク越しの笑顔と、控えめな距離感の会話。
それでも心が少し軽くなる。
皆んな、当然のように着飾っている。
自宅で一人ファッションショーをしても虚しいだけ。
やっぱり視線があって初めて成立する悦びというものがある。
話は尽きない。時間も尽きない。
気がつけば終電近い時間。
華やかな小鳥たちは、それぞれ暗い鳥籠に帰っていく。
私もその一羽だ。
博多駅を経由し、鹿児島本線に乗り、香椎駅で支線に乗り換える。
湿気とマスクのせいで息苦しい。
思い出したように、あの「しろ屋の練乳パン」を買ってしまう。
頑張る女子のご褒美。
でも行列。
でも我慢できない。
3個入りを2セット。袋は<カサカサ>と軽やかに鳴る。
香椎駅での待ち時間は40分。
夜更けのホームに、私ひとり。
街灯は間引かれて、影ばかりが濃い。
遠いベンチにたどり着いて、やっとヒールを脱ぐ。
足は豆だらけ。湿った空気がまとわりつく。
<チカチカ、チカ>
蛍光灯が小さな音を吐き、視界の端で痙攣する。
スマホを覗くと、まだ5分しか経っていない。
眠気が忍び寄る。
その時だった。
<コロコロ コロ>
<コロコロ コロ>
虫の音?
いや、まだ梅雨は明けてない。おかしい。
<コロコロ コロチチチ>
鳥の声まで混じっている。
背筋にじっとりと冷たい汗が這う。
横を振り向いた。
――いた。
白目を半分むき出しにして、口を尖らせ、痙攣する中年男。
ベンチのすぐ隣に。
<コロコロ コロ>
<コロコロ コロチュ>
<コロコロ コロチチチ>
虫の声を、鳥の声を、
わざわざ口で再現している。
「ほ、ほらぁー! おっさん!!」
思わず声が裏返る。
夜のホームに、私の叫びとおっさんの<コロチチチ>が響いた。
もー、なにその顔! 白目ヒクヒクはやめて!
擬音に命かけないで!
怖いのかふざけてるのか、もう意味不明!!
【後日談】
翌朝。
足の豆はまだ痛い。
昨夜の“おっさんコンサート”は夢だったのかと思うほど現実感が薄い。
でもビニール袋の中には、確かに練乳パンが2セット残っていた。
誰にも触れられていない、はず。
ひとつ頬張る。甘い。けれど、妙に苦い後味。
――いや、気のせい。
ふと視線を上げると、部屋の壁に何かが貼りついている。
暗がりで見えにくい。
目を凝らすと、それは小さな紙切れだった。
「コロコロ コロチチチ」
マジックで殴り書きされた擬音。
まるで夜のホームの残響が、壁に染み出したかのように。
息が止まる。
どうしてここに?
スマホを手に取ろうとした瞬間――
<カサカサ…カサカサ…>
練乳パンの袋が勝手に鳴った。
中を覗くと、3個並んだパンの真ん中が、妙にへこんでいる。
そして、パンの隙間から聞こえてきた。
<コロコロ コロ…>
昨日の声。あのおっさんの擬音。
パンの影に潜むように、低く、小さく。
私は思わず袋を放り投げた。
<カサカサ カサカサ コロチチチ>
袋は床を転がり、壁にぶつかり、静かに止まった。
沈黙。
……けれど。
その夜から、私の部屋ではずっと聞こえる。
暗闇のどこかで、湿った声が。
<コロコロ コロ>
<コロコロ コロチュ>
<コロコロ コロチチチ>
もう、どこにも“帰る鳥籠”なんてないのかもしれない。
油断したら理不尽は訪れる。