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知らない世界の歩き方  作者: ハンスシュミット
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第09話 愛(ラブ)の場合

 ガラス窓の向こう、大きなわた雲がゆったりと空を泳いでいるのを私はぼんやりと眺めていた。


 私は思わず、「食べたいなぁ」と呟く。


 こんもりと膨らんだ形状はとても柔らかそうだったし、わたがしみたいで美味しそうだと思った。何より、あれだけ大きければママに隠れて食べても見つからなくていい。


 でも保育士さんが言ってったっけ。雲は水滴の塊だから食べても味はしないよって。だから食べたくなったら蛇口を捻って水道水を飲めば雲の味がするよって。


 水道水は……、飲み飽きたからいいや。


 雲に思いを馳せることを諦めた私は、青く澄み渡る空から視線を落とし部屋の中を見渡した。


 アパートの一室、床には大きな雲に勝るとも劣らないこんもりと膨れた白い、ゴミ袋が至る所に散乱していた。


 そのどれもがファストフード店の包装やコンビニのプラスティック容器ではちきれんばかりに満腹になっていた。私のすきっ腹とは大違いである。


「ママ、いつ帰ってくるんだろ」


 食べられないとは分かっていても、やはり私は空を見ずにはいられなかった。


 さきほど見ていたわた雲は、いつの間にか窓枠の外へと流されてしまっていた。ママと同じように、私を置き去りにして。



□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■



 私は『ネグレクト』を受けている。雲は水の味だと教えてくれた保育士さんが、そう言っていた。


 それが具体的にどういうことなのか、幼い私にはピンと来なかった。


 保育士さんがそのことで『ジドウソウダンジョ』という場所に通報したこと、スーツを着た知らないおじさんたちに色々質問されたこと、そしてママが終始イライラしていたことから、とても良くないことなんだってことは勘付いていた。


 一時はママから離れて『ジドウホゴシセツ』という場所に預けるという話も出たが、それを聞いたママは癇癪を起して保育園で暴れた。


 それからというもの保育園には行ってない。それどころか私はおうちから一歩も外へ出ていない。


『ラブちゃんはいい子だから、ママの言いつけを守ってお外に出ちゃ駄目よ』


 ママはいつもそう言い残し、私を置いてどこかへ出掛ける。数日帰ってこないこともしょっちゅうだ。多少の食べ物は置いていってくれるが、それが底をつく前に帰ってくることはほとんどない。


 一度、あまりの空腹に耐えかねて無断で家を飛び出したことがある。


 路上を彷徨っていたところをお巡りさんに補導された。お腹が減っていると説明すると間食用の羊羹をご馳走してもらえた。嬉しかった。でも、その後が最悪だった。


 連絡を聞きつけてやってきたママにお巡りさんは説教をした。『カントクフユキトドキ』だとかなんとか言ってたのを覚えている。帰り道、ママは無言だった。家についても一言も言葉を発さなかった。


 それからママは私の手を強引に引っ張り、私をベランダに追い出した。


 カチャリ、という音を立ててガラス戸が内側から鍵を掛けられる。


『ママ!?』


 私は叫んだ。ここから出してって。


 ママは一言だけ言った。『ホント、メンドくさい子』


 それから数日、私は狭いベランダで過ごすことになった。食べ物はもちろん飲み水さえないまともにない環境で、私は耐えることを余儀なくされた。


 喉の渇きを凌ぐため朝露に濡れる手すりを舐めもした。塗装が剥げて赤錆にまみれた手すりに舌を這わすのは、勇気が必要だった。


 飢えを凌ぐため横の部屋の家庭菜園の葉っぱを毟って食べもした。野菜を育ててくれてれば良かったのに、お隣さんが育ててたのはチューリップだったから美味しくなかった。

 

 飢えと渇きが限界に達しようとした時、ようやくママが地獄から解放してくれた。それから、私はママの言いつけを破ることができなくなった。


 だからこうしてお腹と背中が引っ付きそうになるくらい空腹でも、私はただ床に寝転んでいるしかない。私に出来ることと言えば、本当にお腹と背中がくっ付く前にママが帰ってくることを祈るぐらいだ。


 空腹で朦朧とした意識の中、私は昔のことを思い出していた。


『ラブちゃんの名前はね、漢字で『愛』って書くんだよ』


 保育士さんが綺麗な字で私の名前を紙に書いてくれた。画数が多くて、かっこいい、自分の名前だということがとても誇らしく思えた。


『これでラブって読むの?』


 無邪気にそう訊ねる私に、保育士さんは困った顔をした。


『う~ん、ラブとは読まないんだよ』


『じゃあなんて呼ぶの?』


『アイって読むの』


『アイ……』初めてその言葉を聞いた私は、『アイって名前の方がかっこいいね』と言った。


 私の意見に保育士さんは神妙な顔をする。


 そして、私の頭を優しく撫でながら、諭すように言った。


『ラブちゃんの名前は巷ではキラキラネームって言われてて、あんまりいい名前じゃないんだ。


 もちろん由来があって、あえてその名前を付ける親御さんだっているけど、一人の人間として生まれた我が子にペットみたいな名前を付けるのは、私は良くないと思う』


 その頃の保育士さんは、既に私がネグレクトを受けていることにを薄々気付いていた。ママに対して否定的な感情を持っているからこそ、こう言ったんだと思う。


 愛という名前をママから貰ったのに、そこに愛はない。


 だから私はこう言った。『私のこと、これからはアイって呼んで』


 保育士さんは驚いた顔をしていた。


 それからというもの、保育士さんは私のことをアイと呼んでくれるようになった。色々なことも教えてくれた。


 ママから貰えなかったものを、私は保育士さんからいっぱい受け取った。


 意識はまた別の光景を映し出す。保育園から去る日の記憶だ。


 ママが私の手を無理やり引いて保育園から出ていく時、私は保育士さんの顔を見た。悲しみと、苦しみと、居た堪れなさ。


 保育士さんと私は赤の他人のはずなのに、保育士さんはいつも私のことを気にかけてくれた。


 保育士さんだけが私に色々なことを教えてくれた。私を褒めてくれた。優しく、抱きしめてくれた。本当はママがしないとけないことを保育士さんがしてくれた。ママは一度もそんなことをしてくれなかった。


『アイちゃん!』


 連れ去られる私に向かって、保育士さんが私の名前を叫んだ。


 そのとき、私は保育士さんの呼びかけに答えることもできた。ママの手を振り払い保育士さんの所に駆け寄ることだって。


 だけど私は出来なかった。私の心は、ママへの恐怖で支配されていた。面倒事を起こせばママに嫌われる、そうしたら次は何をされるか分かったものじゃない。


 結局、私は大人しくママに連れられて保育園を去った。


『子供の名前も間違って覚えるなんて、ホントーにメンドーな保育士』


 そう吐き捨てるママに対しても、私は何も言い返せなかった。



□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■



 ゴトンッ!


 という音を聞き、私は今の今まで気を失っていたことを知る。


 音の出所は玄関の方。ママが帰ってきたのかもしれない。


 気が付けば辺りはすっかり暗くなっていた。照明を付けなければ数歩先も見通せないほど暗い。だけどここ数日はスイッチをONにしても明かりが点かなくなってしまった。


 しょうがなく、私は壁をまさぐりながらおっかなびっくり玄関へと向かった。


 ようやく玄関に辿り着いたが、そこにママはいなかった。


 代わりに変な小包があった。子供の私でも持ち運べるくらいの小さな小包。


 もしかしたら、ママが私の為に食べ物を届けてくれたのかも。私はその小包を拾い上げ、月明かりで照らされたガラス窓の前まで持っていく。


 空腹に耐えかねていた私は包装紙を乱暴に破り、中身を取り出した。そこにあったのはガラス瓶に入った銀色の薬? のようなものと手紙だった。


 手紙にはこう書かれていた。


"これを…めば、あなたは……が…むあなたに…まれ…わることができる。……のない……を…めますか?"


 漢字が多くて読めない。


 手紙を読んだ後、私は自分の失態に気付く。


 ママが私宛の送り物に読めない漢字を使うわけがない。だとしたらこの小包はママ宛のものだ。どうしよう、勝手に開けたらママに怒られちゃう。


 私はママにバレた時のことを想像し、恐怖に怯える。その際、手に持っていた薬の瓶が床に落ちる。コロコロ音を立てながら、その瓶は私に懐くように転がってくる。


 瓶の中の液体が、とても美味しそうに揺れていた。


 飲んでも腹の足しになるとは思えなかった。だけど、月の光に踊る銀色の溶液は、飲まずにはいられない魅力を持っていた。


 ほとんど無意識のうちに、私は瓶を手に取り蓋を開けていた。まるで見えない何者かに促されるように、私は瓶に唇を付けていた。銀色の液体が、待ちわびたかのように私に流れ込んでくる。

 

『アイちゃん!』


 それは幻聴だと思う。私の脳内が、保育園を去る時の保育士さんの声を再生した。それがどういう意味か私にはよく分からなかったけど、おかげで私は正気に戻った。


「はッ!?」


 慌てて瓶から口を離す。銀色の液体は、獲物を取り逃がした獣のように、口惜しく瓶底へと舞い戻っていくのが見える。


 私は何をしていたのだろうか。なぜ銀の薬を飲もうとしたのか。


 私は口を拭って落ち着きを取り戻す。ふと、手の甲が月明かりに照らされキラキラ光っているのが視界の端に見えた。視線を向けると、そこには銀色の何かが付着していた。


 急速に自分の体から力が抜けるのを感じる。冷たい感触が全身を支配し、私と言う存在を塗り潰していくかのような感覚。恐怖する暇もなく、私の意識は遠い遠いどこかへと連れていかれた。



□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■



 次に目が覚めたとき、私はアパートにはいなかった。


 仰向けの姿勢から目を開けると、見えたのは木造の天井。仕上げ材が所々ボロボロになったアパートの天井とは似ても似つかない。


 このとき、私は自分が知らない場所にいることに恐怖するより、ママに無断でアパートを出てしまったことに対する恐怖の方が大きかった。


 慌ててアパートに帰ろうと身を起こそうとしたが、うまく起き上がれない。


 自分の身に何が起きたのか、まるで分からなかった。すぐにそれを知ることになるが、その時の驚きは相当なものだった。


「パパが帰ってきたぞぉ。ラブー!」


 視界の外から、誰かが私の名前を呼んだ。男性の声だったが、私はその声の主に覚えはない。


 いきなり私の視界が、体ごと宙に舞った。いや、そうではない。誰かが私の体を持ち上げたのだ。


 そして私の視界に、私を持ち上げた人物の顔が入る。


「びぇぇぇぇぇぇ!?」


 私は思わず泣いた。まるで赤子のように。ううん、それも表現としておかしい。だって私は――、


「ありゃりゃ、どうしたんだラブ。パパの高い高いはお気に召さなかったかな?」


 本当に赤ちゃんになっていたのだ。


 仰天する変化はそれだけではない。


 自分をパパと名乗るこの男、耳は二つ、腕も二つ、足も二つだし鼻と口は一つずつ、人間と同じ出で立ちをしているが、一か所だけ決定的に違うところがあった。


 目だ。その男は目が一つしかない。


 化物然とした見た目に赤子の私は驚いて、思わず泣き声をあげてしまった。


 あぁでもちょっと待って。一つ目の化け物と赤ちゃんになっている私ってだけでも変化に戸惑っているのに、まだおかしなところがあった。


 不思議な感覚だが、私は自分の視界に映っていないものまで視えていた。視界に映っていないはずの人物、母親らしき人物、その人も一つ目の化け物、が私の泣き声を聞きつけこちらにやってくるのが何故か視えてしまっていた。


 私の額に、何か違和感があるのを感じた。私には、両の眼の他に額にも眼がついている。その眼が、見えないものまで視通している。


 私の眼が捉えたとおり、両目の視覚外から母親が現れる。


「普段は大人しいんですけどね。今日のラブは機嫌が悪いみたい」


 この人も私をラブと呼ぶ。


 二人で二つの瞳が、代る代る私を映す。大きな瞳に映し出された私は、間違いなく赤ん坊で、間違いなく三つ目をしていた。


 このときの私は、自分が異世界転生したこと、そして魔族の子供として生まれてしまったことをまだ理解はしていない。


 最も不幸なことは、そのことをこの二人から教わることがなかったことだ。私の人生は、いつも身勝手な大人に振り回される運命だったのだ。



□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■



 私が泣き止んだのを見届けると、一つ目の男女はどこかへと出掛けて行った。


 たとえ視覚外にいようとも、第三の瞳は彼らを捉えていた。どうやら野良仕事を奥さんに手伝ってもらっているらしい。家からそれほど離れていない場所で、二人で作業しているのが視えた。


 この二人が幼い子供を置き去りにするような親でないことに少し安心を覚えた。それが当たり前のことだという認識は、私には欠如していたからだ。


 自分の身に起きたことが整理できず、私はとにかく考える時間が欲しかった。


 どうせこの小さな体ではどこにも逃げられない。いっそ眠ってしまえばこの悪夢じみた出来事も消え去るのではないか、と期待しつつ私は目を閉じた。


 が、第三の瞳が別の何かを捉えた。


 二人の男女がこちらに近づいているのが分かった。年配の夫婦のようだ。


 なんとなく動向を観察していると夫婦は私たちの家に無断で入ってきた。一つ目夫婦はそのことに気付いていない。二人の男女はさらに無遠慮に近づいている。


 私は思わず目を開けた。すると、肉眼に老父が映った。


 老父は鬼気迫る顔をしていた。何かに焦り、逼迫したような表情だ。


 明らかにおかしい。私はそう思い、あらん限りの大声で泣いた。しかし無駄な抵抗だった。


 老父が強引に私の口を塞いだ。


「アナタ、外にあの魔族の夫婦がいますよ」


 老婦がそう注意を促す。


「分かっている。急いでここから逃げるぞ」


「あぁ可愛い赤ちゃん。あんな化け物たちに育てられるより、人間の私たちに育てられる方がいいわよねぇ」


「当たり前だろうが。ほれ、赤ん坊もそれを分かっているから、こんなに嬉しそうに泣いているじゃないか」


 違う。私は怖いから泣いているのよ!


 狂気を孕んだ表情で、老夫婦はありもしない現実の話をする。この二人は私を誘拐しようとしている。


 ねぇ一つ目の人たち。助けて。私はここにいる。


 私は懸命に叫んだ。だが一つ目の夫婦は作業に没頭しており、我が子の危機に気付いていない。第三の瞳は彼らがまるで気付いていないことを私に視せる。それは絶望を視せ付けられているのと同じだった。


 こうして、抵抗空しく私は『人間の』老夫婦に誘拐された。



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「行ってきます。パパ、ママ」


「行ってらっしゃい『アイ』。勉強頑張っておいで」


「くれぐれも帽子は人前で取るんじゃないよ」


 祖父母ほど離れた老人たちと出掛け前の抱擁を交わす。誘拐犯の老夫婦を、私はずっとパパとママと呼び続けていた。


 私は偶然老夫婦に拾われた魔族の遺児。魔族であることが人間にバレれば殺されてしまうから人間のフリをして生きている。


 そう老夫婦に教えられて今日まで生きてきた。


 無論、それが嘘であることを私は知っている。転生による影響か、私の自意識は赤子の頃から確立しており、当時の記憶も鮮明に覚えている。


 だけど私はこの茶番に付き合わなければいけない。それも"(ひとえ)"に私が魔族であるからだ。


 ハームド山脈という物理的障害のせいで私は魔界に帰ることができない。身寄りのない私が生きていくには老夫婦に頼らざるを得ないのだ。


 何より老夫婦に盾突き、私のこの第三の瞳を密告されでもしたら命すら危ない。人間の魔族に対する憎悪を嫌と言うほど見てきたからこそ、それが過剰な空想でないことも承知していた。


 だから私は何も知らないふりをして今まで生きてきた。


 一つ注釈するなら、私は誘拐されたことをそれほど悲観してはいない。一番の理由は名前だ。


 誘拐された当時、老夫婦は私に新たな名前を付けようとした。候補に挙がったのは何故かラブ。前世でいい加減につけられた名前が、まるで呪いのようにいつまでも付きまとってくることに私は吐き気を覚えた。


 なんとか思いとどまらせようと必死に舌足らずな口で「あーい、あーい」と連呼していたのが功を奏した。


 晴れて私は、アイとなった。


 そしてラブと呼ばれなくなる時間が増えれば増えるほど、生みの親への執着もなくなっていった。


 ただ一つ、私の額の眼は違った。


 どれだけ月日が経とうと、否応なく私が魔族であることを思い出させられる。次第に私は魔族に対してある種の憧憬を抱くようになる。


 私が人間界に連れてこられて、16年の歳月が経った。



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 この世界にも学校に似た教育施設がある。残念なことに私は小学校に進学する前に命を落としてしまったから、向こうの世界の学校のことはあまり良く知らない。


 私はこの世界のことについて多くのことを学んだ。同い年の子たちは勉強好きな私を珍しく思っているが、見識を広げる喜びを教えてくれた保育士さんのおかげかもしれない。


 学校からの帰り道、年の近い友人たちと談笑しながら帰るのが私の毎日の日課だった。


「アイちゃん、王都に行くの?」


 友人の一人がそう訊ねてきた。


 先生、便宜上そう呼ぶけど、が私を、王都にある研究機関へ就職できるよう推薦してくれる話が上がっている。この子はそれをどこかから聞きつけたのだろう。


「うん、行こうかと思ってる」


 もっと多くのことを学びたい。それが私の望みだった。幸いなことに、パパとママも自慢の娘の躍進を大いに喜んでくれている。


「へー、じゃあアイは将来偉い学者さんになるんだな!」


 別の友人が囃すように言う。


「偉いかどうかはともかく、学者にはなりたいな」


「どういう研究するんだよ?」


「人類史を専攻しようと思う。人間と魔族の戦争の歴史を勉強したい」


「魔族かぁ。モンスターよりもおっかない化け物なんでしょ?」


 友人が、自らの頭の中に生み出した怪物を見て身震いしている。


 私が魔族だと知ったら彼らはどういう顔をするのだろうか。その想像は、私の心に暗い影を落とす。


「魔族の研究なんかよりさ、お空に浮かんでいる雲を食べれる魔術を開発してくれよ」


 友人の一人が空に浮かぶ雲を指さして言った。「最近父ちゃんが言ってたけど、世界全体で『キキン』ってのが起きてて食べ物が不足してるらしいんだって。だから雲を食べれるようにすれば食糧問題は解決できるんじゃねぇかな。イワン賞獲得間違いなしだって!」


 この子は特に勉強が苦手で、将来は物事を考えない職業に就きたいといつも言っている。


「ふふ、雲は水滴の塊だから食べても美味しくないよ。もし食べたいなら井戸水を飲めばいいよ。同じ味だから」


 私は得意げに知識を披露する。こうやって誰かに教え諭すのは、私の憧れである保育士さんになったみたいで気分が良かった。


「うへぇ、美味しくないのか。じゃあいいや」


「それとね、サンタクロースはホントは実在しないんだよ」


 知識の披露に気を良くした私は、つい調子に乗って余計なことを言う。


 当然だが、周りの友人が訝しむように私を見つめる。


「サンタクロースってなんだ? 炎の精霊のことか?」


「あっ」私は慌てて訂正する。「い、今のは気にしないで」


「変なアイちゃん~」


 さして気にされなかったのは幸いだった。それ以上友人たちはサンタクロースに言及することなく、次の話題へと移っていった。


 彼らの話に相槌を打ちながら歩いていると、向こうから誰かがやってきた。


 魔術師のようなローブに身を包んでいる、私と同じ年頃の少年だった。この辺りでは見かけない顔だ。気になったのは彼の表情。軽薄そうな笑みを湛えたその顔に、私は漠然とした不安感を覚えた。


 私たちと少年がすれちがう。その際、少年が、気さくに声を掛けてきた。


 とても親し気に、とても事も無げに。


「こんにちは、『ラブ』ちゃん♪」


 一瞬、私は鼓動が停止したのではないかと思った。


 蒼褪めた表情で、私は振り返る。さきほど見た軽薄そうな微笑が、今では悪魔の哄笑のように見えた。


「わ、私の名前はアイよ」


 震える唇で、なんとかそれだけ伝える。自分の名前を名乗るだけなのに、それがこんなにも心落ち着かなくなるなんて。


 少年は愉快そうに喉の奥で笑う。細めた目が、まるで私の心の弱い部分を見透かしているようだ。


「それはおかしいな。君の本当の名前はラブちゃんだろ」


「何言ってんだ、コイツはアイだぞ!」


 さきほど雲の話をした友人が私の代わりに返答する。


 いつの間にかグループから逸れ、見ず知らずの少年に絡まれている私を助けに駆けつけてきてくれたようだ。


「君はラブちゃんのお友達?」見ず知らずの少年が、今度は私の友人を標的にする。


「アイだ! だったら何だって言うんだ?」


「君、ラブちゃんのこと好きなんじゃないの?」


「な、なんだとっ!?」


 友人の顔が、傍目でも分かるくらい紅潮する。


「そ、そんなんじゃねぇよ。ラブは大切な友達なだけだ!」


「ふ~ん」鼠を甚振る猫のような、残忍な笑みを浮かべながら少年は言う。「そんなに仲良しなら、ラブちゃんの帽子を取った姿を見たことはあるのかな?」


「はぁ? 帽子?」


 友人の視線が私の帽子に降り注ぐ。彼が記憶の引き出しを探し回ることが私には容易に想像できた。そこに目当てのものがないことも。


 魔族の証である第三の眼を隠すため、私は人前で帽子を取ったことはない。


 私は確信した。この少年は全てを知っている。私が魔族であることも含めて。


「わ、私は貴方のことを知らない……」


 震える声で言った。


「僕も君にこうやって会うのは初めてだよ」


「な、なにが目的なの?」


「そうだねぇ」勿体ぶるように少年は逡巡する。その行為は、ただ私を辱めて楽しんでいるだけのように思えた。しばらく楽しんだ後、「ちょっとデートしないかな。君とは色々積もる話がしたくてね。銀の薬の話とか」


 銀の薬、その言葉を聞き私は心底驚く。


 私がこの世界に生まれ変わった原因の、あの瓶に入った薬のこと。


「済まないけど、君の大切な友人をちょっと借りていくよ」


 呆然とする友人を置き去りにして、私は彼に同行する。



□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■



 少年が連れてきたのは町はずれの雑木林の中だ。周りに人がいないことを確認し、彼はようやく私に向き直る。


「ここなら遠慮なくお話ができるね、ラブちゃん」


「何度も言わせないで、私の名前はアイ。何度も人の名前を間違うわりに、貴方は名乗らないのね」


 私の嫌味に対し、少年はうっかりしてた、みたいな表情をして照れてみせる。仕草のわざとらしさが、よりこちらの苛立ちを煽る。


「自己紹介がまだだったね。僕の名前は"扇動者(アジテーター)"だよ」


「あ、あじてーたー?」


 言動も人を小馬鹿にしているのなら、名前までふざけている。とても本名とは思えない。


「で、その"扇動者(アジテーター)"さんが私に何の用なの?」


 先ほどは不測の事態のせいで脆い部分を見せてしまったが、気持ちを切り替えて私は強気に出る。


 "扇動者(アジテーター)"の目的は不明だが、私が魔族であることをバラすつもりがないのは分かった。そうしたければわざわざこんな回りくどいことはしない。何らかの交渉を持ち掛けようとしているのだとすれば、弱気を見せるわけにはいかない。


 それに――。


 私は周囲の藪を、"扇動者(アジテーター)"に気取られないように視ていた。彼は周囲に人がいないと嘯いていたが、そこに二人ほど隠れているのを私の眼は視抜いていた。


 少女の私相手に護衛役を潜ませているとは思えないが、なんらかの意図があって待機させているのは明白だった。


 "扇動者(アジテーター)"に私の第三の瞳『"百万里眼(ミリオンズ・アイ)"』の能力まで知られるわけにはいかない。もちろん、第三者が潜んでいることを私が知っているということも含めて。


 だけど私はこの男に漠然とした恐怖を感じていた。この男は、まるで私の全てを見通しているように思えた。私の眼でも見通せない、人の心の弱い部分が視えているのではないか、そう思えてしょうがない。


「『Haec Incarnatus』というサークルを知ってるかい?」


「え?」


 聞き覚えのない単語に、私は当惑する。


「前世の話さ。『Haec Incarnatus』というチャットサークルがあったんだが知ってるかい? 君がメンバーでないことは分かっているけど」


「し、知らない」


 私は正直に言う。嘘をつくメリットもないし、また正直に言うデメリットも見当たらなかった。


「じゃあ銀の薬をどこで手に入れたんだい? あれは『Haec Incarnatus』のメンバーにしか配ってないはずだよ」


「一人でお留守番してたときに、郵便受けから投函されてた。多分、ママ宛ての荷物だったと思う」


「子持ちのメンバーはエリカさんだけだね。君は彼女の娘さんかな?」


「エリカ……、ママの名前!?」


 その名前を聞くことに、どこか懐かしさと苦しさを覚える。


「なるほど、彼女に宛てた銀の薬を勝手に飲んじゃったわけか」


 神妙そうに思案に耽る"扇動者(アジテーター)"。


「ママもこの世界に来ているの!?」


 構わず私は質問する。さしもの"扇動者(アジテーター)"もこれには苛立ちを覚えたようだ。


「さぁて知らないよ」と、ぶっきらぼうに答える。


「答えてよ! 貴方とママの関係を。どうしてママにあの薬を渡したのよ」


「やれやれ、質問をしたいのは僕の方なんだけどなぁ」煩わしそうに頭を掻いて"扇動者(アジテーター)"は言う。しまいには「話が長くなりそうだし、先に要件を済ませようか」などと言うのだ。


 "扇動者(アジテーター)"の不誠実さに、いつしか恐怖心は引っ込んだ。語気を強め、私は詰問を続ける。


「ふざけないで。話をしようと持ち掛けたのは貴方のほうでしょ」


「君も既に知っての通り、ここには僕ら以外の者もいる。僕は彼らと君を対面させるためにこの場をセッティングしたんだ。これ以上彼らを待たせておくのも酷なことだと思ってね。なんせ君に会うために16年も待ち続けた人たちだからさ」


 "扇動者(アジテーター)"は私の後方、正確に言えば茂みに隠れている二人の人物に向けて言った。


 この人、やっぱり私の能力まで見破っている。どうして? いや、それよりも16年って――。


「さぁどうぞ。感動の再会だよ」


 "扇動者(アジテーター)"の言葉を合図に、二人が茂みから姿を現す。


 そこに立っていたのは、二人の魔族の夫婦だった。ひどくやつれた風体と加齢による変化も手伝い、記憶の中の彼らとはすっかり様相も変わっていた。しかし、それでも見間違うはずがない。


 顔の中央に鎮座する特徴的な一つ目。間違いない。この世界の、本当の私のパパとママ。


「……パパ? ……ママ?」


 普段から口にしている呼称なのに、どうしてこうも言い慣れないのだろう。それを私はもどかしく思った。


「ラブ!」


 パパとママは駆け寄り、私を思い切り抱きしめた。一つ目からは大粒の涙が溢れており、まるで大滝のように彼らの口へとなだれ込んでいた。


 私の心はぐちゃぐちゃに搔き乱される。


 正直なところ、私は生みの親にそれほど未練はなかった。


 彼らには悪いが、幼い時分ほんの少しの間共にしただけの関係でしかなく、深い思い入れはない。だというのにこうして何の前触れもなく再会を果たしてしまった私は一体どんな顔をすればいいのだろうか。


 喜ぶ? 悲しむ? 私は戸惑った。


 そのせいで私は見逃していた。私たちに近づく、二つの影を。


「ぐぁッ!?」


 突如、パパが悲鳴を上げて倒れた。何が起こったのかまるで分からず、私は気が動転していた。


 そんな私の腕を誰かが強く引っ張る。私はその人の胸の中に抱かれる。


「大丈夫か、アイ!?」


 パパだ。一つ目のパパではなく人間の方のパパが、農具を片手に現れた。横にはママ、もちろん人間の方の、もいた。


 人間のパパが一つ目のパパを農具で襲った。倒れているパパの背中は、鋭い農具で引き裂かれた跡が生々しく残っていた。


「お前が怪しい少年に連れ去られたと友達が知らせてくれた。急いで駆けつけて良かったわい。まさか、人間界で悪逆非道の魔族に出くわすとは」


 怪しい少年って酷くない? と"扇動者(アジテーター)"が不平を漏らすが、もはや誰も聞いていなかった。


「あ、悪逆非道だと……!?」


 懸命に力を振り絞り、一つ目のパパが起き上がる。その瞳は、憎悪と憤怒に染まっていた。


「罪もない私たちから娘を奪っておきながら、よくも魔族を扱き下ろせたものだな!」


「ふん、魔族なんぞは生まれてくることが罪そのものよ。貴様ら悪魔の手で育てたら、アイはこんな立派に育ちはしなかった」


「その子はラブだ!」


「いいやアイだ!」


 生みの親と育ての親が真っ向から対立している。


 板挟みの状況の中、私はどうすればいいのだろう。同じ魔族だが思い入れのない生みの親の肩を持つべきか、それとも違う種族である人間だが私をアイと呼んでくれる育ての親に付くべきか。


 人生は時として残酷な選択を迫ることがある。今にして思えば、このとき私はどちらかを選択するべきだったんだ。そうすれば、もっとも残酷な運命を選ばずに済んだのに。


 私が逡巡している間に、事態は急変する。


 一つ目のパパの瞳が、怒りのせいか充血するように紅く染まる。


 それは怒りによる作用ではなく、彼の持つアビリティの予備動作だった。


「死ね、人間!」


 突如視界が赤く発光する。目も眩むような怪光線が、大きな一つ目から発射された。


 光の奔流が止み、ようやく目を開けられるようになったとき、私を抱いていた人間のパパがその場に力なく倒れた。


 倒れこんだパパを見た私は、言葉にない悲鳴を上げる。


「いやぁぁぁぁ! アナタ、アナタァーーーー!!?」


 人間のママが倒れた人間のパパに駆け寄る。半狂乱になり必死に起こそうとするが、人間のパパはまるで反応しない。それもそのはずだ。人間のパパの首から上が焼き切れてなくなっているんだから。


「お前も後を追うがいいわ!」


 今度は一つ目のママが同じように怪光線を発射する。帯状に宙を舞う光線は、人間のママの胴を無遠慮に走り抜ける。


 ズルリッと生々しい音を立て、二分割された人間のママが交互に地面に沈む。


「さぁ悪しき人間は滅ぼしたよ。一緒に魔界に帰ろうラブ」


 一つ目のパパは笑っていた。その瞳は達成感に満ち溢れていた。自らの蛮行を正義と疑わない、絶望的な価値観の差異を私は感じてしまった。


 だからだろう、差し出された手を私は振り払った。そして、一目散に逃げだした。



□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■




「パパ! ママ! パパ! ママ! う、うぅ……!」


 私はとにかく走った。走って走って、がむしゃらに走ってしまえば、残酷な運命に追いつかれないんじゃないかと真剣に思った。


 だけど運命はどこまでも残酷で、どこまでも酷薄で、どこまでも追ってくる。それは時として、人の姿になってまで追ってくる。


 無我夢中で走っていた私は、何かにぶつかってその場に尻もちを突く。反射的にぶつかった何かを睨んだが、それが何なのか分かったとき心底青褪めた。


「また会ったね。ラァブちゃん」


 "扇動者(アジテーター)"だ。いつの間に先回りしたの?


「貴方の目的は何?」


 声が震えていた。私はこの男に心底恐怖を抱いていた。この男は人間じゃない。魔族でもない。この世で最も恐ろしい名状しがたい恐怖そのものだ。


 恐怖は歪に形を変え、私を翻弄しようとする。


「さっきも説明したじゃないか。僕は生き別れた親子の感動的な再会を演出したいだけだよ。そういう話に弱いからね。


 『母をたずねて三千里』は見たことあるかい? アニメは有名だけど僕は原作小説も読んだことがあってね。とても大好きなんだ」


「な、なにを言ってるの?」


「だから説明しているだろう。僕は親子の再会が――」


「自分が何をしたのか分かっているの!?」


 怒りに任せ私は叫喚する。


「誤解しないでほしいな。僕は君の育ての親を殺してはいない。殺したのは魔族だよ。君と同類のね」


「貴方がそう仕向けたんでしょう!」


「蟠りがあるんなら腹を割って話し合えばいいんじゃないかな。そうそう、親子の話し合いと言えば『フィールド・オブ・ドリームス』って映画は見たこと……」


 "扇動者(アジテーター)"の戯言の最中に、誰かが私の腕を引っ張る。振り向くより先に、第三の眼はその人物を捉えていた。


「近づかないで!」


「どうして逃げるんだ、ラブ!」


 一つ目のパパだ。"扇動者(アジテーター)"と悶着している間に追いつかれた。一つ目のママもすぐ後ろにいる。


「どうしてパパとママを殺したの!?」


「奴らはお前のパパでもママでもない。赤子のお前を連れ去った極悪人だ」


「それでも育ての親だった! 殺すことはなかったじゃない!」


「人間は魔族の敵なんだぞ。どうしてそんな聞き分けのないことを言うんだ、ラブ!」


「私はラブじゃない! アイよ!」


「言うことを聞きなさいラブ!」


「いやぁ、離して!」


 それからだ。またしても私の目の前で目まぐるしく、命が散っていった。


 まずは一つ目のパパが、茂みから現れた剣士に背中からなで斬りにされ殺された。


 続いてパパを殺した剣士が、一つ目のママのアビリティによって死んだ。


 最後は一つ目のママが剣士の息子、リューヤと言う私と同じ年頃の少年に、私の目の前で魔術で焼き殺された。


 苦しむ間もなく炭化し爆ぜたママの亡骸の前で、リューヤは吠える。


「ほかには! ほかに魔族はいるかっ」


 横にいた"扇動者(アジテーター)"が私に視線を送りながら言う。


「う~ん、他の魔族ねえ。ラブちゃん、他に魔族っているかなぁ?」


 私は震えあがっていた。躊躇なく人を殺すリューヤの力と無秩序さに、そしてそれを面白半分に眺めている"扇動者(アジテーター)"の冷酷さに。


 "扇動者(アジテーター)"は言外に言っている。魔族である自分を否定すれば生き残れるよ、と。


 人生は時として残酷な選択を迫ることがある。運命は、またもや私に無理難題を課してきた。魔族である自分を肯定し潔く死を選ぶか、さもなくば――。


 私は、絞り出すように言った。


「……いないよ。魔族は、もう……、ここにはいない」


 私は魔族である自分を否定し生に縋った。これが私の最も愚かで最も間違った選択だった。"扇動者(アジテーター)"に弱みを握られたことで、私は図らずも人間界と魔界の戦争に加担することになる。


 当の"扇動者(アジテーター)"は空惚けた態度のままだった。でも私には、彼の心の中の哄笑が聞こえてくるようだった。

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