第08話 貴夫の場合
ピッ、ピッ、ピッ。
シュコー、シュコー、シュコー。
心電図と人工呼吸器が規則的な音を立てていた。ある病院の集中治療室、そこには意識不明の患者が機械に繋がれ生かされていた。患者の名前は『貴夫』と記されていた。
普段、この部屋で動いているものは生命維持装置の機器だけだった。ベッドに横たわっている肥満体の男は、この空間ではベッド傍に置かれたパイプ椅子より身動ぎしない。しかし、今日は他にも動く存在があった。
男が立っていた。年のころは30代だろう、清潔そうなスーツに身を包んだ好青年だった。
男は寝たきりになった貴夫を見下ろしていた。
「銀の薬を飲んでいないから様子を見に来てみたが、まさか飲むことさえできない体になっていたとはね」
男は誰に言うでもなく呟いた。
「君の事は調べさせてもらったよ。グルメ記事を専門に扱うライターらしいね。食べることが何よりも大好きな君にとって趣味と実益を兼ねたいい仕事だ。
しかし暴食がたたり生活習慣病に蝕まれ、今では意識不明の寝たきり。おまけに唯一の楽しみである食事も、これでは味気ないだろう」
そう言って垂れ下がっている点滴用のチューブを指で弾く。
「食事ができないことは君にとってこれ以上ないほどの絶望だ。そんな希望のない君を救うためにやってきたよ」
男はスーツの内ポケットからあるものを取り出す。貴夫に飲んでもらうために送っていた銀の薬だ。ガラス瓶の中で、美味しそうに液面が揺れる。
「これを飲めば、あなたは自分が望むあなたに生まれ変わることができる。希望のない世界を諦めますか?」
男は注射器を取り出し、その中に銀の薬を詰める。そして貴夫を生かすために繋げられた点滴に、それを流し込んだ。
事を終え、静かに男は病室から消えた。
ピッ、ピッ、ピッ、ピピッ、ピピッ、ピー――――。
もはやその病室に動く者は存在しなくなった。
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ソレに明確な知能はなかった。
あるのは食欲。飢えに対する忌避感だけだった。
こことは違う世界で貴夫だったソレは、そのときの記憶も知性も持たぬまま、ただ本能のまま身体に触れるものを取り込み暴食を繰り返していた。自分がどのような姿なのか気にもせず、いや気にするだけの知能すらその時はなかった。
あるとき、野兎が不幸にもソレに触れてしまった。ソレは反射的に野兎を捕らえ、そして食った。野兎は必死に逃れようとしたが、不定形のジェル状の肉体に絡めとられ溶かされるようにして食われた。
野兎を食ったことでソレに僅かばかりだが知能がついた。
とはいえ人としての記憶も知能もまだ回復はしておらず、どのように獲物を狩るかなど野性的な経験則が培われただけだった。とはいえ、以前よりは生物らしい行動を取るようになった。
それからいろいろなものを食った。その中にはモンスターも含まれる。ソレは、捕食することでどんどん知能をつけていき、いつしか捕食したモンスターの特性を得られることも理解し始めていた。
それからしばらくしたある夜、ソレは奇妙な体験をした。
遠くの海沿いの土地になにやら大きな光が灯ったのを見た。その光は不思議なことに自分を引き寄せる何かがあった。
行かねば、と思いその光に向かおうとした。しかし、その光に引き寄せられたのはソレだけではなかった。
たくさんのモンスターがその光に殺到した。押し合いへし合い、モンスターたちが横を通り過ぎるたび、ソレは欲望の限りモンスターたちを捕食した。
食って、食って、食いまくった。そして満腹になったら、もう光などどうでもよくなった。
その光はマサヴェの灯台の光だった。ギルドがモンスター討伐のために灯した光に、ソレも引き寄せられるところだった。ソレがマサヴェにいた殲滅者やケンジと邂逅していたかもしれなかったが、その事実を知る者は誰もいなかった。
そしてそれから数日後、空腹でうろついていたソレの前に人間が現れた。
くたびれた印象の青年だった。無精ひげを生やし革製の鎧に身を包んでいる姿を見る限り、冒険者だろう。
男は何か独り言を呟きながら歩いていた。
「マサヴェの灯台で俺を助けてくれたケンジが、まさか命を落としてしまうなんて。アイツほど英雄に相応しい男もいなかっただろうに。
けど、いつまでもクヨクヨなんてしていられない。アイツに助けてもらったこの命で、アイツに代わってたくさんの人々を救えば、それが手向けになるはずさ。
さぁモンスター共、英雄ケンジに助けられたこの俺が、お前らを一匹残らず倒してや……って、なんだこの気持ち悪りぃモンスターは!」
男の要望に応えたわけではないが、ソレが男の前に姿を現した。
男は、目の前に現れたソレに対して率直な感想を吐いた。野兎の頭、熊の身体、尻尾は蛇になっており、おまけにコウモリの翼まで生えている。ソレが今までに捕食してきた動物やモンスターが合成された姿は、男に恐怖を与えた。
「い、いつもならこんなモンスターに出くわしたら逃げちまうが……」
震えながらも、勇気を振り絞り男は剣を構えた。
「ケンジの雄姿を見ちまったら、俺だって英雄に憧れちまう」
男は力強く踏み込み、剣を振り下ろす。その思い切りの良さが功を奏した。ソレが振り下ろそうとしていた左腕を、機先を制す形で斬り落とせた。
ソレは雄たけびを上げた。
痛みによる恐怖。空腹以外で初めて感じる嫌な感情に、ソレは訳も分からず吼えた。
「や、やったぞ。ケンジ見てるか、俺がお前の代わりにモンスターを倒してやる」
モンスターに与えた一撃は、確かな手応えとともに男に大きな自信を与えた。
モンスターは左腕を落とされて怯んでいる。今がチャンスだ。男はさらに果敢に斬り込む。
しかし、そうはさせじとモンスターも抵抗した。
蛇型の尾が空を薙ぎ、男を弾く。横薙ぎに吹き飛ばされ、男は地面に倒れた。
「くそ、もうちょっとだったのに」
片手をつき、地面から立ち上がろうとする。その時、地面についた手が奇妙な感触を返してきた。
ぶにっとした生々しい感触に、思わずギョッとして視線を向ける。すると、そこにはさきほど斬り飛ばしたモンスターの左腕があった。
驚かせやがって。男は心の中で吐き捨てる。
本来ならそこで左腕の事など捨て置き、さっさとモンスター本体に意識を戻すはずだった。その左腕が、身体から切り離されたというのにモゾモゾと動き出さなければ。
「な、なんだこ―」
言い終わる前に、男の喉に何かが食らいついた。斬り落としたはずのモンスターの左腕だ。まるで別の生き物のように蠢き、男に飛び掛かった。
飛び掛かった腕はそのまま粘土のように伸縮し、男の首に巻き付く。
そして。
「ぐ、ぷぇ!」
巻き付いた腕が男の肉を食い始めた。喉を食い破られる痛みに男は叫ぼうとしたが、うまく声が出ない。命乞いをすることも泣き叫ぶこともできず、浸食されるように内側から食い破られていく。
悶え苦しんでいる男の元に、モンスターの本体がその巨躯を揺すりながらやってくる。
ソレは、もはや野兎でも熊でも蛇でもコウモリでもない姿をしていた。黒い粘土のように、なんの形も意思も示さぬ物体に変貌していた。
「た、助―」
男は後悔していた。
やはり自分のような特別な才能もない人間が、たったひととき英雄と一緒に過ごしただけで感化され、自らも英雄になれると勘違いするべきではなかった、と。
男は、ソレに頭から一気に食われた。
肉を溶かし、骨をすり潰し、内臓を啜る。男は、この世に初めから存在していなかったかのように綺麗さっぱり平らげられてしまった。
そして人間を食ったことで、ソレはようやく人らしい思考を得ることができた。
それと同時に自分が何者だったかを思い出した。
「オイラ、タカオだったな。そういえば」
急速に得られる知能と復元していく記憶。最初こそ戸惑ったが、気付けば本来の朴訥さでその信じがたい事実を受け入れていた。
さきほど食らった冒険者に変異したタカオは、周りを見回した。
「ここが異世界ってやつか。昔ネットで読んでた『異世界わがままグルメ』って小説の世界に似てるなぁ」
10年以上、何も知らない異世界を何もわからずさ迷い続けていたことに、今更ながら恐怖を覚える。
ただ。それは確かに愕然とした事実だが、それ以上にタカオを驚愕させる事実もあった。
「さっき食った人間、とっても美味しかったなぁ。生前に食べたどんな料理よりも、転生後に食べたどんなモンスターよりも」
思わずほっぺたが落ちてしまいそうなくらい美味しかった。知能が高い生物ほど、美味に感じるのかもしれない。
とはいえ。
「さすがに共食いはまずいよねぇ」
こんなことならば人間としての知能を得なければ良かったとタカオは思った。そうすれば良心の呵責に咎められる事なく思う存分味わえたのに。
ひとまず、タカオは人里に向かうことにした。
この世界が異世界であることは理解したが、どのような世界であるかはよく分かっていない。さきほど捕食した男の記憶を探ることは出来ても、それでも情報としては不十分だった。
それに、せっかくならこの世界の料理も堪能してみたい。グルメライターとしての血も騒いだ。
最寄りのマサヴェの街へと向かう。
マサヴェの街は港町だった。街に面した海で獲れる海産物が有名で、タカオは海の幸に舌鼓を打つことになる。
この時期は『大陸喰い』という海の幸が旬らしいのか、いたる店で『大陸喰い』の肉を使った料理が出されていた。
腹も大分満たした時、タカオの鼻が懐かしい匂いを嗅いだ。
香ばしいバターの甘い匂い。転生前の世界でよく食べていたお菓子の匂いだ。
「いらっしゃいませ、『Haec Incarnatus』印のクッキーいかがですか」
興味深そうに眺めていたタカオに、店員が愛想よく勧めてきた。
やはりクッキーだ。この世界にもあるんだ。いや、それよりも気になるのは。
「『Haec Incarnatus』印ってどういうこと」
タカオは店員に訊ねた。
「由来は分かりません。このお菓子を考案なさった方がお付けになった名前です」
「クッキーを考案した人ってのは誰?」
「"扇動者"と仰る方です」
その名前に聞き覚えはなかった。だけど、『Haec Incarnatus』には聞き覚えがある。生前に入り浸っていたチャットルームの名前だ。この世界でその名前を聞くことになるとは。
もしかして。
「『Haec Incarnatus』のメンバーの誰かが、オイラと同じようにこの世界に転生したのか」
そう考えざるを得ないだろう。そして、その誰かは他の『Haec Incarnatus』のメンバーを探している。でなければわざわざクッキーにそんな名前は付けない。
「ねぇ、その"扇動者"って人にはどこで会えるの?」
「王都にある一号店へ行かれてはどうでしょうか。そこの店長さんならご存じかと」
王都、ね。
捕食した男の記憶から王都に関する情報を引き出す。
高い山の頂上に築かれたお城のある街で、魔行列車なる乗り物でしか行けないようだ。魔行列車というのも、あっちの世界の乗り物を真似てるように見える。とても興味深い。
こうしてソレだったもの、タカオは王都を目指すことにした。