第07話 龍也の場合
「『異世界へ行こう』って小説サイト知ってるか」
先輩検事が喫煙室でそんなことを聞いてきた。そのサイトの存在は知っている。最近ログインしているチャットルームで何度か話題に出ていた。
しかし俺の答えはこうだった。「知りません」
「素人が好き勝手に異世界をテーマに小説書いてるサイトなんだけどさ、文章ヒドイのはまぁ目を瞑る必要があるけど、これが意外に読んでて面白いのよ」
「へぇ」
「なんていうかさ、物事が浅くて単純なんだよ。世界観も設定も、作者や読者にとって都合が良くて、なんでも思い通りに事が運ぶんだ」
「そういうのが面白いんですか。逆のような気がしますが」
「俺もそう思ってたけどさ、そういうしがらみがない方が気が楽なんだよ。この世界ってルールとか面倒ごとが多いじゃん。特に俺たちの職種はさ」
そう言って、先輩は喫煙室に備えられていた六法全書を指で叩く。休憩中でも法の番人である自覚を忘れるな、という検事長のお考えから喫煙室にまで置かれているそれは、実際に読む者などいないほどに活用されていた。
経年劣化と紫煙に蝕まれ、小口は黄色く変色しているにも関わらず、ページをめくると新品のように白い紙が見えるのだ。
「ですが、煩雑な法令は善良な人々を守るためにあります。それを面倒がるなんて不謹慎ですよ」
「善良な人々を守る、ね」
先輩は少し難しい顔をしながら煙を吐く。その筋は空気抵抗やら気流の流れに遮られ、真っすぐではなく曲がりくねって上へと昇る。
「俺は時々、何を守るために検事をしているのか分からなくなるよ。善良な人々を守るためなのか、それともその分厚い拘束具に書かれた眠たい文章を守るためなのか、って」
俺は何も言い返せなかった。先輩の思いには、同意せざるを得ないところがあるからだ。
「すまない、龍也。あの事件の担当であるお前の方が、こういう事は悩んでいるはずなのにな」
「いえ、気にしてませんよ」
そうは言うが、俺の心は裏腹だった。あの事件のことを考えると、ついつい煙草の消費が多くなる。
しかし、俺は投げ出すつもりはなかった。ひとえに善良な人々のため、そして俺自身の正義を貫くためにも。
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日曜の朝になると子供たちが齧り付くようにテレビを見る様は、日本の家庭では見慣れた光景だろう。その時間にやっている特撮ヒーロー番組は子供にとってかけがえのない娯楽だ。
悪い怪人が人々を苦しめる。そこにヒーローが現れる。そして苦戦の末、怪人を見事に撃破する。街には平和が戻る。そんな子供向けの内容だ。
大抵の子供は中学に上がる頃には卒業する。みんな、テレビの中の虚構の正義などよりも優先することが増えるからだ。稀にいい大人になっても観賞している者もいるが、個人の趣味だから咎めるつもりはない。
ただ、世の中にはヒーロー番組を視聴することは卒業しても、あのテレビの中で演じられた勧善懲悪の世界を夢見る人間は存在するのだ。俺だ。
俺はこの年でもまだ、子供の頃に見たあのヒーローたちに憧れていた。
とはいえ、じゃあ変なタイツを着て怪人と戦うのかと問われれば、違うと答える。この世に怪人はいない。そもそも、あんな格好で出歩けば世の人から怪人呼ばわりされるのは自分の方だ。
ならば、ヒーローショーを演じる俳優にでもなるかと問われれば、それも違う。あれはただのフィクションであり、俺は模倣をしたいわけじゃない。あくまで、彼らヒーローが見せた正義の心を継承することが俺の目標なのだ。
そんな俺が検事という職を選ぶのは必然だった。変身ベルトも、不思議なレーザーの出る兵器も、巨大ロボットも使わずに、法令と弁舌で犯人を追い詰め退治する、まさに現代のヒーローと呼ぶべき職種だ。
しかし、それすらも最近は幻想なのではないかと疑い始めている。
法令とは、法令を破る悪人たちから、法令を遵守する善良な人々を守るためにあると思っていた。けど、世の中はそんな単純じゃなかった。
悪辣な奴らはその正義の体現と言うべき法令を盾に悪事を働く、果ては法整備の脆弱性を突いた、いわゆる脱法行為を働いて善良なる人々を傷付け食い物にする。
正義を執行するには、法は武器ではなく拘束具となっている節がある。それを分かっていながら、今日も俺はその拘束具を頼らざるを得ない。それがもどかしい。
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久々にログインしたチャットルーム『Haec Incarnatus』では、もし異世界に転生したらなにをしたい、という議題で盛り上がっていた。
「僕はスーパーパワーに目覚めて、困っている人たちをいっぱい助けたいです」
「俺は文明の未発達な異世界に行って、自分の知識で開拓したいぜ」
「デュフフ、某はキャワイイ女の子侍らせて、剣に魔法に大活躍する勇者になりたいでふ」
みな思い思いの夢を語っていたが、俺はその議題に対して返信することはなかった。呑気なものだな、とアキヒロたちを蔑みさえしていた。
大事な裁判を控えている中、気分転換にとログインしてみたがこのような低俗な話で盛り上がっているとは思ってもみなかった。
ふと、この前喫煙室で先輩と話していた内容を思い出す。『異世界へ行こう』という小説サイト、そこにはきっとこいつらと同じくらい呑気な内容の小説が転がっているのだろうな。
俺は怖いもの見たさと、その拙さを嗤うために『異世界へ行こう』のサイトを閲覧してみた。
そういえばアキヒロは『僕みたいなキモオタが異世界に転生してチート魔術を手に入れて女の子とウハウハしちゃってイイんですかぁ!?』などというタイトルの小説を愛読していると言っていたな。いいじゃないか、この上なく馬鹿馬鹿しくて。嘲笑うには御誂え向きだろう。
俺は『僕みたいなキモオタが異世界に転生してチート魔術を手に入れて女の子とウハウハしちゃってイイんですかぁ!?』なる小説を読んでみることにした。
この小説の主人公はある日交通事故に遭い、この世界とは別のファンタジーな世界で転生することになる。その際に神なる存在からチート能力を授かり、その力を行使して好き勝手に異世界生活を謳歌するというものだ。
読後の感想としては、先輩のレビューがかなりオブラートに包んだものだという事を思い知らされた。想像を絶する稚拙さと浅ましさの塊と言うほかなかった。
特に酷いと思ったのは以下のようなエピソードだ。
「た、助けてくれぇ。貴族としての権利を振りかざし、お前の女を横取りしようとしたのは謝る。だ、だから殺さないでくれぇ!!」
「へ、駄目だね。この世で一番重い罪はなんだと思う。それはな、俺の女を傷付けることだーーーーー!! 俺様裁判により、お前はSSS級犯罪者、よって死刑だーーーーー!!!!」
ドゴーーーーン!!
「ぶひいいいいいいいいいい!!!!」
「私の為に貴族を殺してくれたのですね。うれしい、抱いて!」
横恋慕しただけで死罪となるなど無法としか言いようがない。問題なのは、モラルも倫理観も備えていないこの主人公が物語として肯定されているという点だ。
このような浅ましい物語の何が面白いと言うのだ。これを有難がる輩は、この主人公と同じ所業をしたいという欲求を潜在的に備えているのではないか。
だとすれば、コイツらこそ現代の怪人だ。見た目こそ醜悪でなく特異な能力を持たないが故に社会生活に人間として溶け込んでいるだけで、ひとたびタガが外れれば殺人すら厭わなくなる潜在的な悪だ。
俺は乱暴にスマートフォンをテーブルに置くと、枕に顔を埋めて寝入った。俺は悪を許さない。アキヒロたちのような人間も、そして後日裁判をする被告のようなやつも。
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「検事さん、今日の裁判よろしくお願いします。亡くなった娘の為にもあの男を絞首台に送ってください」
そう言って俺の手を固く握った中年女性は泣き崩れた。俺はやりきれない気持ちと義憤で昂る体を抑えつつ、彼女の無念に応えるように強く握り返した。
「法律は善良な市民の味方です。必ずやご期待に添えるよう尽力します」
こうして本日の審理が始まった。
私の担当する裁判、それは数年前に発生した少女連続強姦殺人事件の犯人に対する刑事裁判だった。調書を見る度にどす黒い怒りが体の裡から湧いてくるくらい凄惨な事件だった。
被害者は計5人、いずれも強姦後に首を絞めるなどの方法で殺害され、死体を遺棄された。彼女らはいずれも成人しておらず、中には小学校を卒業したばかりの少女まで犠牲になっていた。
俺の正義に、いや世間のあらゆる正義に照らし合わせても明らかな悪だと断ずることのできる犯人だが、その公判はついに最高裁にまでもつれ込んだ。その原因については、まだ経験の浅い俺が担当したことも挙げられるのだが、それ以上に相手の弁護士がやり手だった。
被告の国選弁護士は今まででも類型の事件を無罪、またはかなりの減刑に留めるほどの辣腕だった。
そもそも、明らかな悪に対し弁護士を立てる権利が与えられることが、正義に反するのではないか。人の命をなんとも思わない奴にまで、なぜ人権が適用されなければならない。
「~以上の物証から、被告が身勝手な性衝動に駆られ、計画的かつ残虐な犯行に及んだことは明白です。検察側は被告の死刑を求刑いたします」
俺は淀みなくはっきりと被告に、そしてこの法廷にいるすべての人間に宣告した。正義の鉄槌を受けろ、俺は無言の睨みで被告に訴えた。しかし、奴はまるで意に介していなかった。阿呆のように、天井をぼうっと見つめるだけだった。
「では弁護側、反対尋問をどうぞ」
裁判長が滞りなく審理を進めるべく、弁護士の発言を促す。弁護士はこの窮地にまるで臆することなく、静かに舞台へと躍り出る。
「裁判長。弁護側はここで新たな証拠を提出いたします」
場が俄かにどよめく。俺自身、この発言にはかなり面食らった。この期に及んで新しい証拠だと。
「静粛に。弁護側、どのような証拠でしょうか。説明をお願いします」
「はい。これは精神鑑定の結果です。私は、依頼人である被告が犯行時心神喪失状態にあったことを主張します。私は被告の責任能力の欠如を訴えます」
「馬鹿な!」
俺は我慢ならず、両の拳で机を思い切り叩いた。それに端を発するように法廷中が騒がしくなる。
「静粛に! 検察側、許可なき発言を禁じます。弁護側、そのような証拠をなぜ今になって提出しようとするのですか。納得のいく説明を願います」
「彼は心神喪失状態とはいえ自身の犯した過ちを悔いておりました。一時は刑に服することを覚悟しておりましたが、私が止めました。
皆さん、法とはあらゆる人間にとって平等であるべきです。彼の所業は許されざるものですが、彼もまた社会のゆがみが生んだ被害者なのです。どうか、彼にやり直すチャンスを」
弁に熱を込めて弁護士は力説する。詭弁だ! このタイミングまで精神鑑定の結果を提出しなかったのは、全てはこのドラマチックな演出を行う「タメ」に過ぎない。奴には良心の呵責などない、法律の慈悲を請う資格なんてないんだ。
私はそれからも、被告の残虐性を元に心神喪失でないことを訴えた。しかし、その度に裁判長の振るう槌は下ろされ、俺の弁論は感情的だと棄却された。場内の空気が被告に対し同情的な流れになるのをひしひしと感じ、俺はなおさら焦り、それが余計に裁判員の印象を下げてしまった。
「勝訴ー! 勝訴ー!」
死刑反対派の人権団体が、そのように叫びながら法廷を後にする。刑事裁判に勝訴などというものはなく、奴らは見当違いの勝利宣言をしている。だが、俺の心は忸怩たる敗北感に塗れていた。
傍聴席から俺を咎めるような厳しい視線が投げられる。審理前に面会した被害者遺族たちの視線だ。まるで唾棄すべき悪を見るような。正義の味方である俺がなぜそのような視線を浴びなければならないのだ。
この世は間違っている。敬われるべき正義が踏みにじられ、忌避すべき悪が跋扈する。子供の頃に夢みたヒーロー番組が、所詮虚構であることを思い知らされる。
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「くれぐれも感情的にならないように」
刑務官の忠告に何も答えず、俺は取調室へと入室する。今にも感情的で、短絡的な行動を起こしそうな顔をしているのだろうな、今の俺は。
「勝訴おめでとう、とでも言えばいいかな」
具えられた椅子に乱暴に腰掛け、対面の男を睨む。男は心ここにあらずを装うように、なにもない天井をぼぉっと見つめていた。
「貴様が心神喪失だと。ふざけるのも大概にしろ。貴様の犯行は全て計画的かつ残虐だ。心神喪失状態で行えるものではない」
男は無反応だった。演技を続ける気らしい。
「阿呆のふりをするのは疲れるだろう。俺だってお前の本音が聞きたくてここへ来たんだ。監視カメラは止めてある。本当の事を言え」
それでも男は無反応だった。俺の言ったことが信じられないのだろう。
「だったら、こうすれば信じてもらえるかな」
俺は立ち上がり、男の胸倉を掴んでそのまま壁に押し付ける。検事の職務の傍ら、あらゆる格闘技を修練している俺には、大の男を乱暴に扱うくらい造作もない。
キリキリと胸倉を締め付けてやると、空気に喘ぐようにようやく男が本性を表わした。
「ぐへぇ。待った、分かったよ。ホントにカメラを止めてるんだな。じゃなきゃ被疑者、いやぁ今の俺は善良な一般市民になるのかな。こんな風に暴行なんてしないもんな」
「言え。精神鑑定を利用して減刑しようと考えたのは誰だ」
「そんなの、弁護士先生に決まってるじゃないか。俺にそんな知識はないよ」
「奴は国選弁護士だぞ。世論の死刑を望む声を無視し、金を積まれてもいないのになぜそこまでしてお前を助ける」
「あの人に法律を使って誰かを助けようって精神はないよ。ただ法律っていうルールブックを使った面白いゲームにしか捉えていない。さぞかし、俺のゲームはやり応えがあったんだろうよ」
「馬鹿なっ!」
検事と同じくらい法を守る番人の弁護士が。正義の執行者たる弁護士が裁判をゲームと勘違いしているだと。あまつさえ、俺はそのような輩に自身の正義を否定されたというのか。
「今すぐ精神鑑定の結果は間違いだったと自白しろ。お前のような奴は生きていちゃいけないんだ。正義の為に死ね」
「弁護士先生が教えてくれたんだけど一事不再理って制度があるらしいな。判決が決まった裁判は再審ができないって。残念だったな、今更健常だったと伝えても俺の判決は覆らないよ」
「だったら…」
俺の中にはドス黒い感情が湧いていた。何のための法律だ。何のための正義だ。このような邪悪を裁けない法律など、無意味だ。
「俺がお前に罰を与えてやる!」
腰を沈め、渾身の力を込めて男の鳩尾に正拳突きを叩きこむ。男が胃の内容物を吐きながら悶える。これこそがあるべき姿だ。罪を犯した悪は、苦しみながら贖罪するべきなんだ。
俺は屈んで吐いている男の顔に顔面爪先蹴りをお見舞いする。俺が学んできた格闘術は全て悪を倒すためのものだ。この男を滅ぼすための技術なのだ。
気が付けば、男はまるで反応せずに床に突っ伏していた。周りは吐瀉物と血の海。その時になってようやく俺は冷静になった。冷静になって、倒れている男の首筋に指を当てて脈を確かめた。もう手遅れだった。
「なにか物音が聞こえたようだったが」
取調室を無言で後にする俺に対し、刑務官が尋ねてきた。俺は何も答えなかった。背中から、慌てた刑務官の叫び声を聞いた時、俺は駆け出していた。
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サイレンの音が聞こえる。悪を追い立てようとする不快な音だ。まさかあの音が自分に向けられる日が来るとは思わなかった。
俺は追い詰められていた。
何かないかとポケットを弄る。煙草が見つかる。しかしライターがない。
俺は口に咥えた煙草を噛み潰す。そういえば、この前読んだ『僕みたいなキモオタが異世界に転生してチート魔術を手に入れて女の子とウハウハしちゃってイイんですかぁ!?』では主人公が炎の魔法を使えたな。
煙草が吸えるなら、この胸の内を這い回る苛立ちを紫煙と一緒に吐き出せるなら、あんな主人公に生まれ変わるのもいいかもしれないな、と本気で思えてくる。
ふとあの小説のことが気になってスマートフォンを取り出し、チェックしてみた。
『僕みたいなキモオタが異世界に転生してチート魔術を手に入れて女の子とウハウハしちゃってイイんですかぁ!?』最新話更新しました。
そのような通知が目に飛び込む。今日の日付だ。
なぜだろうか。俺はその最新話が気になって読んだ。内容はこんな感じだった。
「君は公爵殿を個人的な理由で殺害したようだね。なにか申し開きはあるかね」
「王様、アイツは悪い奴だったんだ。俺の女を取ろうとした。だから死んで当然だぜ」
「しかし、それだけで何も殺すことは」
「いいのかい。俺みたいに強いやつを牢屋に閉じ込めちゃったら、魔王軍からだれが王様を守ってくれるんだろうなぁ」
「む、むぅ」
「王様。ここは勇者様に貸しを作るという事で、ひとつ公爵陛下殺害の件は不問にしたほうがよろしいかと」
「ううむ、そうだな」
「は、は、は…ははははははっ」
俺は思わず笑っていた。こいつの幼稚な倫理観が肯定されているのに、なぜ俺の純然たる正義がこのような憂き目に遭っているんだ。こんな不平が許されていいのか!
俺の正義は傲慢なのだろうか。いや違う。傲慢なのはこの世界だ。俺の正義を認められない、浅ましき世界の方が間違っているんだ。
ふと思い出したことがある。少し前に『Haec Incarnatus』の管理人に会った時のことを。
彼とはネットを越えてリアルでも懇意にしている友人だった。そんな彼がこの前会った時に奇妙なものを渡してきた。
『この薬はね、なりたい自分になることができる薬さ。もし希望のない世界を諦めたい時は飲むといいよ』
その時はあまり気にも留めていなかった。なにかの願掛けかと思って、適当に謝意を表してポケットに仕舞ったままにしていた。それは、今もポケットの中にあった。
取り出して置く。瓶の中で、銀色の液面が魅惑的な波を作っていた。
「そうだ。この世界に希望なんて…正義なんてない。だったら」
瓶の封を開け、俺はそれを一気に飲み干した。
「こんな世界、諦めてやるっ」
途端に、俺の視界が黒くシャットダウンする。急速に、自分の体から力が抜けるのを感じる。冷たい感触が全身を支配するが、不思議と恐怖はなかった。
こんな世界に身を浸している方が俺には恐ろしい。そんな気持ちを察してなのか、俺の意識は急にどこか遠くへと飛んでいってしまった。
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「我らの家は代々六聖騎士団の部隊長を輩出してきた由緒ある家系だ」
父が、曾祖父の現役時代の姿を描いた肖像画を見つめながら、誇らしそうに言った。この時の俺はまだ10才にも満たなかったと記憶している。
俺は銀の薬を飲んで死んだ。そして、あの希望のない世界とは異なる世界に生まれ変わった。六聖騎士団という、前の世界の軍隊だか警察だかに相当する組織のリーダーを多く輩出した家柄の一人息子として。
「お前の曾祖父はとても勇敢な人だった。しかし、先の大戦で命を落としてしまった。憎き魔族の手によって」
「魔族とは、この世界では悪い存在なのでしょうか」
発言した後、俺はしまったと思った。この世界では、などという言い方は不自然だった。しかし、俺の心配など杞憂だったのか、父は魔族への憎しみに燃え、熱弁を振るっていた。
「そうだ、魔族とは悪だ。悪そのものなのだ。だからこそ、正義の執行者たる我が一族がやつらを根絶やしにするのだ」
わかりやすい勧善懲悪、これこそ俺の求めていたものだった。この世界に分厚い拘束具は存在しない。俺の正義が存分に振るえる世界だ。
「ところでリューヤ。お前の魔術についてだが」
「はい、父上」
「お前が使う魔術の事は家族以外には秘密にしておくのだぞ」
お前の使う魔術、それは呪文詠唱も魔方陣も用いずに魔術を行使することを指していた。俺は小さなころから魔術の手解を一切受けずに魔術を使うことが出来た。それも、呪文や魔方陣を使うことなく。それはこの世界ではとても異質なことらしい。
「広く魔方陣が普及し便利な世の中になってはいるが、未だに魔術を神聖視する人間は多い。六聖騎士団の中にもだ。そやつらから見れば、敬虔な祈りもせずに行使できるお前の魔術は、有体にいえば不遜だ」
「承知しました父上。俺は、人前では魔術を使わないようにします」
「私はな、リューヤ。お前にとても期待しておる。もしかしたらお前なら我が一族の悲願である勇者になれるかもしれないと思っている」
「勇者、ですか」
「ふむ。そうだ、久しぶりに槍術の訓練をしようではないか。魔術以外では、まだまだお前に教えねばならぬことがある」
「よろしくお願いします、父上」
そうやって俺は、厳格で正義を重んじる父の指導の元、より自身の正義感を強固なものにしつつ育っていった。
そして17才の年、俺は家を出ることになった。父の推薦の元、六聖騎士団に入団するために。
俺は父と二人で王都へ向かうため、最寄りの魔行列車の駅を目指していた。馬に乗りながら、これまでの訓練の日々や正義を執行する者としての矜持を語り合っていた。
普段厳しい父も、一人息子の門出を寂しく思っていたのかもしれない。父はとてもよく笑っていた。そんな時だった。
「今の聞こえたか」
「ええ、父上。女の子の悲鳴でした」
俺たちの間に緊張が走る。声の出所はどうやら街道から外れた森の中のようだ。
「ついてこいリューヤ」
父が颯爽と馬から飛び降り、剣を携えて森へと走る。さすが父上、騎士団を除隊した今でも現役さながらの身のこなしだ。俺も後を追った。
「いやあ、離して!」
少女が、なにやら男女二人組の大人に腕をひっぱられている様子だった。そしてそのやり取りを傍観する少年もいた。
ぐずる娘を厳しく躾けている親子の光景にも見えたが、どうも雰囲気が違った。それに先に気付いたのは父の方だった。
「あの男と女、魔族か」
言われて俺も気付いた。見た目こそ人間そのものだったが、大人の二人組の方はどちらも両目がなく、大きな一つ目が顔の中心に据えられていた。
「なぜ魔族が人間界に」
魔族は、高く聳えるハームド山脈の向こう側に住んでいる人種だ。おまけに山脈を覆うように検問が敷かれているため、そう簡単に人間界に入ることはできないはずだった。
「おのれ魔族…祖父の仇…!」
父の顔は、憎悪で歪んでいた。強面の父の怒った顔は見慣れていたが、そのときの表情はとても怖かったと記憶している。
「リューヤよ、私があの魔族どもの注意を引き付ける。お前は襲われている少女と連れの少年を連れて逃げるのだ」
「俺も一緒に戦います、父上」
「ならん。まずは善良なる人々を守ることが大事なのだ。それに、私がたかが二人の魔族に後れを取ると思うのか」
いいえ思いません、俺は即答した。そうだ、これほどまでに強い父がまさか負けようはずがない。子供の出過ぎたお世話だと、俺は恥じた。
「魔族、覚悟ー!」
父が先陣を切って藪から飛び出す。不意打ち様、少女の手を引いていた魔族の男に斬りかかった。
「ぐあっ」
父が魔族の男の胴を袈裟斬りに切り伏せる。致命傷だ。相方を切られて動揺する女の方に、今度は斬りかかる。
「君たち、早く逃げるぞ」
俺は襲われていた少女の腕を取り、立ち上がらせようとした。大きな帽子を目深に被った気弱そうな少女だった。横にいた少年にも声を掛ける。
「君も走れるだろう。急ぐんだ」
少年は笑っていた。魔族に襲われて怖い思いをしていたのではないのか、なぜそんな余裕がある。
「その子を連れて行かないでっ」
魔族の女が叫ぶ。無論、悪のいうことなど聞く耳を持つものか。腰が砕けている少女を無理やり立ち上がらせ、腕を引く。
「その手を、離しなさいっ!」
女が叫ぶ。すると、一つ目の女の瞳がなにやら赤く光り出した。この時の俺は知らなかったことだが、魔族には稀に『アビリティ』という魔術とは異なる特異な能力を持つ者がいるらしい。そしてこの女もその『アビリティ』を持っていた。目から光線を放つ『アビリティ』を。
俺はとっさに魔術で反撃しようとした。しかし、父からの教えでみだりに人前で魔術を行使することを禁じられていた俺は躊躇した。その躊躇が命取りだった。
俺は反撃するでもなく、かといって逃げるでもなく中途半端に棒立ちしていた。
女が目から放った光線は、一直線に俺へと飛んでくる。しかし、それは俺に到達することはなかった。女の瞳と俺の直線状に、別の物体が割り込んだからだ。
「ち、父上ー!」
俺は叫んだ。俺の身代わりに女の光線を受けた父に。父は、俺を安心させようと一瞬微笑み、そして倒れた。
「父上、父上!」
俺は引いていた少女の手を離し、倒れた父に駆け寄る。父の息遣いは微弱だった。もはや後はない、それがはっきりと分かるほどに。
「リューヤよ。正義を…貫くのだ。悪…を…ゆる…」
父は正義のために、少女を救うために戦った。しかしその結果、悪の手にかかり命を落とした。またしても正義が俺の目の前で甲斐なく葬られた。
俺はそれが許せなかった。この世界もまた、悪を咎めず放置する傲慢な世界なのか。世界が悪を裁かないのなら。
「俺が判決を下してやる。貴様は火あぶりの刑だ!」
魔族の女に対し、俺は掌を向ける。その手から、悪しき魂を浄化せしめる炎が迸る。炎に飲み込まれた女は、断末魔を上げる暇もなく灰燼と化した。
「ほかには! ほかに魔族はいるかっ」
俺は激昂し、辺りを見回す。そして飄々と佇んでいる少年と、怯え切った少女にたいして怒鳴りながら聞いた。
「う~ん、他の魔族ねえ。ラブちゃん、他に魔族っているかなぁ?」
少年は呑気な調子で、傍らで蹲っていたラブと呼ばれた少女に尋ねた。ラブは、怯えながら答えた。
「…いないよ。魔族は、もう…ここにはいない」
「だってさ」
やりきれない怒りを発散するため、俺は空へと吼えていた。
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「お前が『Haec Incarnatus』の管理人の」
そして俺の友人の。俺はにこやかに笑っている少年、こちらの世界では"扇動者"と名乗る少年と話をし、彼も自分と同じ異世界転生者であることを知った。
「久しぶり、リューヤ。君もちゃんと薬を飲んだんだね」
「この世界は一体なんなんだ」
「君は『異世界へ行こう』に投稿された小説を読んだことないの。まさにあの小説たちの舞台のような世界じゃないか」
そうだ、この世界はあの『僕みたいなキモオタが異世界に転生してチート魔術を手に入れて女の子とウハウハしちゃってイイんですかぁ!?』の世界に似ていた。あの浅ましい世界と。
こうして、俺は"扇動者"と、そしてラブと呼ばれていた転生者アイと共に行動することになった。全ては俺の正義を貫くため、そして曾祖父や父の命を奪った憎むべき悪を根絶やしにするため。




