第06話 由美子の場合
ふと、私は子供の頃を思い出していた。
まだ元気だった父に連れられ、川に遊びに行った時のことだ。父は私に笹船の作り方を教えてくれた。見よう見まねでなんとか完成させたそれはお世辞にもいい出来とは言えなかったが、私はそれでも満足気だった。
笹船を川に浮かべる。すると、父の作った笹船は川の流れの中をスルスルと本物の船のように進むのに対し、私の作った船は無様に左右に揺れ、やがて沈んだ。
もっと上手に作れる方法を教えてあげるよ、そう言った父の言葉を私はやんわりと断った。
しょうがないよ。
初めて作ったんだし。それに川の流れも急だったし。
子供らしい執着のなさで、子供らしからぬ諦観を込めて私は言った。
父はそれ以上説得はしなかった。記憶では、たしか別の遊びをしたんだと思う。
私はただ逃げただけだ。もし、次に作った笹船も川の流れに耐え切れずに沈んだら、そのときに吐く言い訳の余地が減ってしまうことを恐れた。
私は成功することよりも、また失敗した時の言い訳を考える人間だった。戦って負けるくらいなら潔く逃げたほうがいい。そうすれば私は負けたことにはならないから。
しょうがないよ、世間の荒波にもまれて気が付けばブラック企業に就職してしまっても。
しょうがないよ、人に誇れるような実績を何も積まずにもうすぐ三十路になってしまっても。
しょうがないよ、恋人はおろかまともに恋愛も経験したことない干物女になってしまっても。
私はうず高く積まれた今日分の仕事を見ながら、誰に言うでもなく言い訳を吐いていた。
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「これ、お願いね。期限は明日の朝一だから」
「は」
私は耳を疑った。うず高く積まれた仕事の資料にさらに積まれた書類の量を見て。
「あ、あの。私、明日までに報告をまとめなければいけない書類がまだこれだけ残ってるんです。急ぎの仕事でしたら他の人に回してもらえませんか」
私の上司兼社長の男は、忙しく携帯をいじりながら、こちらに目も合わせず答える。
「他の人も見てよ。君の机が一番低かったから頼んでるの」
言われて見回すと、たしかに他の人の机に乗っている仕事量の方が多そうだった。でも富士山がエベレストより低い山だからって、富士山が登山するのにラクだということにはならない。あなたにとって低かろうが、私はこの書類の山で今にも遭難しそうだというのに。
「でしたら、社長が分担すればいいじゃないですか」
「見て分からないかな。これから打ち合わせなの、僕も手が空いてないんだよ」
そう言ってこれ見よがしにお高めなスーツとめかし込んだ髪を見せつける。どうせ合コンだろうに、年甲斐もなく旺盛な様は見ていて吐き気がする。
「わ、私だって無理ですよ」
「由美子ちゃんってさ、特定の宗教とか信仰してる?」
「え、い、いえ。うちは無宗教っていうか…、でもお葬式をやるからには仏教のなにかの宗派で…」
「ヒンドゥー教知ってるよね。ヒンドゥー教には輪廻転生の考えがあってね。前世の徳や業は来世に引き継がれるって思想があるのよ。
で、今僕が渡した突発の仕事ってのはきっと由美子ちゃんの前世の業が招いた結果だと思うんだよね。由美子ちゃんは前世で怠けてたんだろうね、今世にそのツケが回ってきたんだよ。
だから、君はこの仕事を片づけなければならない。じゃないと、今度は来世の君が同じように苦しむんだよ」
納得できるようなできないような、結局煙に巻かれる形で私は仕事を押し付けられた。
壁にかかっている時計を見る。今日も終電コースだな、と考える。私の作った笹船は、無様に波に煽られ転覆しかかっていたけど、まだ持ちこたえていた。
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街灯に白く切り抜かれた道を、私はふらふらと歩いていた。人も動物も寝静まった時間なのに、私はまだ家路の途中だった。
私は死に物狂いで仕事を終わらせた。社長の言葉を借りるならこれで私の業が洗い流されたわけだが、どうせ明日には別の業が机の上に積み上げられるのだろう。
ふと、自分がなぜこんな辛い思いをしてまで仕事をしているのか分からなくなる。家に着替えと睡眠をとるだけに帰り、それ以外の時間は延々と仕事をしている。
今の仕事にやりがいを感じているわけでもなく、養わなければならない家族もいない。それどころか恋人も友人もいない寂しい人生。楽しみと言えばたまの休日にプレイする乙女ゲームくらいだ。
私は、自分が一番大好きな乙女ゲーム『ノブレス・オブリージュ~身分違いの恋でもいいですか~』のメインキャラクター、センメッツァー王子のことを思い出す。
センメッツァー王子は粗暴で無愛想な、いわゆるオレ様系のツンデレキャラなのだが、ひとたび主人公のピンチには憎まれ口を叩きつつも懸命に助けてくれるイケメンヒーローなのだ。
そんなセンメッツァー王子が現れ、ブラック企業に囚われている私を救ってくれないかなぁと、しばし妄想することがある。
だが、現実は非情だ。私の傍には王子さまはおろか愚痴を吐くための知り合いすらいない。
今の職場で働きだしてから、私は幾度となく自殺を考えた。しかし、それは一種のシミュレートのようなもので、私が死ねば社長は驚くだろうか、とか私の死を悲しむ人はどれくらいいるのだろうか、とか妄想するだけして結局実行はされない。
生きていたくはないが、だからといって死ぬのも嫌だ。死という終わりの先に何が待ち構えているのか分からない状態で死のうとするのはただただ恐ろしかった。結局、私は死ぬことからも逃げ出している。
生きるでもなく死ぬでもなく、過労のせいで体を引き摺る様も合わせると、私の存在はまるでホラー映画のゾンビのようだった。
ガサリッ。
寝静まった深夜の道に、なにやら物音がした。その時の私は疲労困憊な上、すぐにもベッドに飛び込みたい衝動にかられていたのに、なぜか気になって様子を見に行ってしまった。
そこはマンション前のゴミ捨て場だった。ライトアップされるように街灯の光が、大きくて黒いゴミ袋を照らしていた。
なんだ、夜中にゴミ捨てしただけか。ゴミ捨ては当日の朝にするものだが、人目を避けて深夜に捨てに来るマナーの悪い住人もいる。きっと分別を物臭がる一人暮らしの学生が、後ろめたくてこんな時間に捨てたのだろう。
別に気に留めることでもなかったな、と思い私は踵を返そうとした。が、ふと結び目が緩んだゴミ袋の口から垂れたものを見て、その場に釘付けになった。
なにやら白い…腕?
動悸が激しくなる。自分が今想像しているものが、なんの変哲もない住宅街に転がっているわけはないと思いつつ、確かめずにはいられなかった。
子供の腕のように見えたけど、まさか死体なんてことは。きっとドールの腕よ。ああいうのってゴミの分別大変そうだし、きっとそうに違いないわ。
私の足はそのゴミ袋に向かう。逸る心臓の鼓動と反比例して、私の歩む速度はゆったりだった。
袋に手を掛けようとしたとき唐突に、私は後ろから羽交い絞めにされた。
「え、な…!」
叫び声を上げようとしたが、その口はあえなく塞がれてしまう。
私は怖くなって必死に振りほどこうとしたが、駄目だった。重労働による疲労と寝不足のせいでまるで力が入らない。
「どうしてアタシの人生ってこう上手くいかないのよ。このクソガキは死んだ後もアタシの邪魔しかしないのね」
女の声だった。
「見られたからにはアンタも道連れよ。アンタも、アタシと一緒にこの希望のない世界を諦めなさい」
そう言って、女は私を羽交い絞めにした状態から器用にも小瓶を取り出し、封を開けた。容器に半分ほど詰まった銀色の液体が、波打つのが見えた。
希望のない世界。ああ、まさにこの世界はそのとおりだ。ブラック企業で若さを搾取され、恋人もいない枯れた人生、この先生き永らえたとしてどれだけの希望があるというのか。
諦めることには慣れている。私は心の中でいつもと同じフレーズを口にしていた。
しょうがないよ、頭のおかしい女に無理やり変な薬を飲まされたんだから。
しょうがないよ、希望のない世界なんだから。
波打つ銀色の液体が、不格好に波間に揺れる私の笹船を飲み込む。ようやく、私の作った笹船は沈んだのだ。
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「ユミコは将来、なにになりたい」
父、アロンデール子爵が私に尋ねる。私は迷いもせずに答えた。
「普通の殿方と結婚し、普通の主婦として普通に余生を過ごしたいです」
その回答に父は嘆息する。
「貴族議員の娘だというのに、いやユミコほどの年頃の娘ならばもっと素敵な夢を見てもいいではないか。例えば勇者になりたい、とか」
「冗談じゃありません。私は戦いなどまっぴらです。それよりのどかな田舎で土いじりの方がずっと素敵なことです」
私は転生した。ファンタジー小説よろしく、剣やら魔法やらが溢れる中世ヨーロッパ風の世界に。そして下院貴族議員の娘として。この時の私は7歳だった。
「あなた、ユミコはきっと政治に忙しくて構ってもらえない寂しい思いを、将来自分の娘にさせたくないからそう言っているのですよ」
そう言って、母は私の頭を撫でてくれた。母の苦言に対し、父はバツが悪そうに苦笑する。
「許しておくれよ、ユミコ。私はもちろんお前のことを大切に思っているが、政治家として領民の暮らしを支える責務も同じくらい大切なんだ」
父も、私の頭を撫でてくれた。どうやら私の答えを我が儘の裏返しと受け取ってしまったようだ。本心だというのに。
しかし、たしかに年頃の子供が抱く夢というにはあまりにも可愛げがない。私は年相応に甘えた態度を示すことにした。
「ごめんなさいお父様。ユミコ、お父様を困らせてしまいました」
「いいんだよ。その代わり今日は時間の許す限りユミコと遊んであげるよ」
父と母との穏やかな時間。ブラック企業で忙殺されていたころには考えもしなかった幸せな時間を、私は過ごしていた。
あの女が言っていたように、希望のない世界を諦めたおかげなのかしら。
ただ、私には少し気がかりがあった。それは。
「せっかくですから、あなたも自分の夢をお話になってみてはどうでしょうか」
「私の夢か。そうだな、やはりいずれは上院貴族となり公爵の位を授かりたいものだな」
「それはダメです!」
私は反射的に、大きな声で叫んだ。
私は生まれ変わってからずっと、この世界があるゲームの舞台と似ていることが気がかりだった。それは私が生前愛好していた乙女ゲーム、『ノブレス・オブリージュ~身分違いの恋でもいいですか~』だ。
ただ世界観が似ているだけならまだ良かった。問題なのは、私の境遇がそのゲームの悪役キャラである公爵令嬢に似てきていることだ。もし、私の今世があの性悪女の人生を踏襲しているのなら、最後に待つのは戦犯と罵られながら処刑される最悪のエンディングだ。
だから、これ以上あの悪役令嬢と自分の共通点を増やしてほしくない。父が公爵になってしまったら、娘の私は公爵令嬢になってしまうじゃない!
私の声にびっくりした父と母が、不思議そうな表情でこちらを見つめていることに気付いた。私は内心の不安を気取られぬよう、子供らしく振る舞いつつ言った。
「だって、公爵様になったらお父様は今よりユミコに構ってくれないのでしょう。そんなの嫌です」
と、ぷぅと頬を膨らませつつ拗ねてみた。私の演技が上手くいったのか、父も母も笑いながらまた私の頭を撫でてくれた。
「娘という最大の有権者に待ったをかけられたら、私もお手上げだな」
ふふ、と母が笑った。私も笑った。穏やかな川の流れのような時間が、ゆっくりと私を幸せな川下へと運んでくれているようだった。
その時までは。
私が10歳の頃、母が死んだ。制御を失った馬車が崖から落ちた事故のせいだ。一緒に乗っていた父は奇跡的に助かったが、その事故が父を大きく変えた。
それからの父はまるで人が変わったように権力に固執する人間となった。領民はおろか、政敵でさえも利用できるものは全て利用し、のし上った。そのおかげか、すぐさま上院貴族となり、あっという間に公爵の位を王から授かっていた。
あの事故がなぜ父をこうまで変えてしまったのかは未だに分からない。しかし、あるとき父は私にこう言ったのだ。
「私は自分の目的を達成するためならば、どんなものだって利用してやるさ。たとえ唾棄すべきような存在たちでもな」
川の流れはいつの間にか急になる。私の運命は、またしても荒れ狂う激流の中を、ただ流されるしかなかった。