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知らない世界の歩き方  作者: ハンスシュミット
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第04話 健司の場合

スパイクで踏む天然芝の感触が心地いい。体調は万全だ。力強く鼓動する心臓は全身に熱い血液を送り、それを受けた太腿がしなやかに筋肉を収縮させ、そして伸長する。それは力となり大地を蹴る動作へと変換される。


軸足に殊更力を込めて芝を踏みしめる。渾身の力を込めて振る右足が弧を描き、思い切りボールを蹴り上げた。白と黒の斑点模様のボールは、吸い込まれるようにネットへと飛び込む。


『ゴール! 木田健司選手がまたも相手ゴールを奪ったー!』


アナウンサーが興奮気味に捲し立てる。それに付随するように割れんばかりの歓声と拍手が響く。その称賛と栄光の中心で、僕と同じ名前を持ったサッカー選手が笑顔で応えていた。


こことは違う、はるか遠い異国で活躍する同名のサッカー選手の試合中継を見ながら、僕はひと時でもあの人と同じ感覚を共有している気分だった。ピッチの芝を踏みしめる感触を僕も味わった気がする。だけど、現実の僕の足が感じるのは清潔なシーツの無機質な肌ざわりだけだ。


僕はずっと長い間病院のベッドの上にいる。とても名前の難しい重病を患ったせいで、中学校にも行けないどころか歩くことさえままならない。そんな僕が海外リーグのグラウンドを踏むことができるのは夢の中だけだ。それどころか、病院の窓から見える荒れた空き地の感触すら、想像力の助けを借りなければ踏むことができない。


日々やつれていく体を見ると無性に腹が立つ。ベッドに備え付けられた手摺りより細くなった手足では、ボールを蹴ることも、ましてや立つことも叶わない。なぜ僕は木田健司選手のようになれなかったのか。なぜ僕がこんな苦しい思いをしなければならないのか。


僕をイライラさせる要因はもう一つある。僕の周りの大人たちだ。


いつも回診に来る担当のお医者さんと看護師さんは、いつも僕に笑顔を向ける。すぐに元気になるよ、サッカーできるようになるよ。そうやって励ましながら僕に注射をする。僕はそれが嘘だという事に気付いている。


あの笑顔の裏側でどうしようもないほどの憐憫を抱えていることを僕は知っている。お父さんやお母さんに気の毒そうに僕の話をしたお医者さんを見たことがある。看護師さんは僕の回診が終わると、よくトイレで吐いているのも知っている。


そしてお父さんとお母さんだ。お父さんは、日々着実に死に近づいていく僕を見たくないのか、僕の前に顔を見せることはない。高い入院費を稼ぐために仕事を頑張っているとお母さんは言うが、きっと仕事に逃げているだけだ。


お母さんもそうだ。気丈に振る舞おうと僕の前ではいつも笑顔を絶やさないが、こけた頬が無理をしていることを如実に語っていた。誰もかれも僕を憐れみ、そしてそんな僕の傍にいる自分自身を憐れんでいる。僕は不幸の中心だ。この世にいてはいけない存在になってしまった。


サッカーの試合が終了した。木田健司選手の所属するチームが快勝した。画面は、本日の試合のMVPである木田健司選手をインタビューしているところだった。そのタイミングでお母さんが病室に入ってきた。


「健司ちゃん、言われた通りロビーの自販機でグレープジュースを買ってきたわよ」


お母さんはぎこちない笑顔をしながら僕に缶ジュースを渡す。痩せ細った僕の腕には、それがひどく重量のある物に感じられた。


震える手で缶を握る。そして、僕はありったけの力で、といっても他の人にとっては取るに足らないだろう、力を以て壁に投げつけた。僕の手を離れた缶は壁に当たり跳ね返り、具えてあった花瓶に衝突した。花瓶はリノリウムの床に落ち、大きな音を立てて粉々に砕ける。


こんな弱った体でも陶器ぐらいは破壊できるという事に僕は何ともいえない愉悦を覚えた。花瓶が砕けるときの音が、僕にとっては万雷の拍手のようにも思え、なにかを成し遂げた達成感を与えてくれた。


「僕はグレープフルーツジュースって言ったんだ。間違えるな」


弱った体のどこからそんな大声が出るのか、自分でも不思議だったがお母さんを怖気づかせる程の怒声を発した。お母さんは青ざめながらしきりにゴメンねを繰り返す。ひとしきり謝罪したら、そそくさと病室を出て行った。おそらくジュースを買い直しに行ったのだろう。


病室の窓から、荒れた空き地を見る。すると、ちょうど下校時刻なのか僕と同い年ぐらいの男子学生数人のグループが空き地の横を通りかかるのが見えた。


「見ろよ、サッカーやるのにちょうどいいスペースじゃないか」


「サッカー? 疲れるからやめようよ。それより俺ん家行ってゲームしようぜ」


「そーそー、どうせサッカーやるならゲームでいいっしょ」


笑いながら通り過ぎて行った。世の中の不条理さにただただ腹が立った。なんで彼らじゃなくて僕がこんな目に遭わないといけないのか。


僕は握り拳を作り、発散できない憤怒を抑え込もうとしていた。しかし、その握り拳は力が伴わず、ただ指を纏めたものとしか形容できない形をしていた。


こんな僕には二つほどストレスを発散する方法があった。それは、グループチャットとネット小説だ。


ある日、まるで導かれるように入室したチャットルーム、そこで僕は彼らと運命的な出会いを遂げた。『Haec Incarnatus』と名付けられたチャットルームには、広い世界を感じさせる優秀な人たちが集っていた。某有名国立大学の在学生や一日に何億と稼ぐデイトレーダーなど眩しくなるような経歴の面々である。


かくいう僕も、そのチャットルームの中では相応の肩書を使っている。だって、病室のベッドの上でいつ死ぬとも限らない病弱な少年なんて言えるわけがないもの。だから僕は、ジュニアユースの選手を名乗っている。きっと、この病気さえなければなれたであろう肩書、別に嘘をついているわけじゃない。


このチャットルームでは日々多種多様な話題が取り沙汰されている。政治、経済はもちろん芸能や下世話な噂話まで枚挙に暇がない。世間がワールドカップで盛り上がっている時は、ついつい試合の解説などに僕は熱くなってしまった。今日は、異世界転生について話し合っていた。最近、そのネタを用いた小説が非常に注目されている。流行に敏な俺たちも、話題にせずにはいられなかった。


チャットルームの主が、「異世界転生したらどうなりたい?」と話題を振ったので、みな思い思いに語っていた。


「僕はスーパーパワーに目覚めて、困っている人たちをいっぱい助けたいです」


「俺は文明の未発達な異世界に行って、自分の知識で開拓したいぜ」


「デュフフ、某はキャワイイ女の子侍らせて、剣に魔法に大活躍する勇者になりたいでふ」


異世界転生してなりたい姿、それについて僕は具体的なイメージを持っていた。それは、もう一つハマっているネット小説に関係している。


ネット上に小説を投稿したり閲覧したりできるサイト『異世界へ行こう』という小説サイトに掲載されている小説、タイトルは『スーパーヒーローに憧れる僕が異世界転生してホントのスーパーヒーローになっちゃった!?』という。


その小説の主人公は、まるで僕を生き写ししたかのような境遇と性格だった。そんな主人公がある日病気により夭逝し、異世界に転生するという話。しかも、転生した際に彼は丈夫な体と誰にも負けないスーパーヒーローのようなパワーを手に入れた。そして、得た力を使って彼は異世界の困っている人たちを次々と助けるのだ。


「『村人を困らせる悪いモンスターめ。くらえ、スゴイパンチ!』『ギャフ~ン!』僕の繰り出したスーパーパンチを食らったモンスターはまるで世界の果てまでブットぶくらい飛んでっちゃった。『あなたはなんと勇敢で偉大な方なのでしょうか。ばんざーいばんざーい』」


更新された『スーパーヒーローに憧れる僕が異世界転生してホントのスーパーヒーローになっちゃった!?』の最新話を読む。その小説の中で称賛と羨望を一身に受ける主人公は、まるでピッチの英雄、木田健司選手のようだった。僕だって、こんな病弱な体じゃなければ人助けだってするのに。


そうやって鬱屈した入院生活を繰り返していたある日、誰かが僕の病室のドアをノックした。ドアを眺めるが、開く気配がない。お医者さんの回診かなとも思ったが時間が違う。お母さんがお見舞いに来たのかなとも思ったが、お母さんはわざわざノックしない。


不思議に思い、松葉杖をついて病室のドアまで行く。そして開けるが、そこには誰もいなかった。代わりに、足元に見慣れない小包が置いてあった。


なんだろうと思って小包を見ると、小包の上面にこう書かれていたのが見えた。『Haec Incarnatus』と。


僕はその文字の意味を理解した時、背中に冷たいものが走るのを感じた。急いで小包を拾い、ドアを閉める。そして不自由な体を引きずりながらなんとかベッドの上に戻ってくる。


弱々しい心臓は、この時ばかりは力強く脈打っていた。それは過度な運動のせいではない。焦りから来るものだ。


これは『Haec Incarnatus』のメンバーの誰かが僕に宛てたものなのか。だとしたら、その人には僕の素性がバレてしまっているという事ではないか。それは僕が身近な大人たちに憤怒する醜い日常すら把握されているかもしれないという恐怖へと結びつく。


動揺しつつも、僕はとりあえず荷物の中身を確認した。


中には、ガラス製の小瓶に入った薬品?と手紙が入っていた。先に薬品の方を調べてみる。手のひらに収まるくらいの小さなガラスの小瓶に、銀色の液体が詰まっていた。銀色の液体は冷たく輝いていて、まるで抜き放たれた刀剣を思わせた。その恐ろしさに僕は戦慄く。入院してからいろいろな投薬を経験したが、このような薬品は初めて見た。


次に、手紙を読み上げた。僕は、この荷物の送り主があのチャットルームの誰なのか、なぜこのようなものを送ってきたのかの理由が書いてあると期待していた。しかし、僕の予想に反してその手紙は簡潔に以下の内容しか書かれていなかった。


"これを飲めば、あなたは自分が望むあなたに生まれ変わることができる。希望のない世界を諦めますか?"


この手紙が何を言いたいのか理解できない。これでは送り主の真意がまるで読み取れない。ただ…。


この手紙の言葉が、妙に自分の頭の中で響く。『望むあなたに生まれ変わることができる』、そのフレーズは僕にとってこの上なく魅力的に映った。


僕が望む僕、それは『スーパーヒーローに憧れる僕が異世界転生してホントのスーパーヒーローになっちゃった!?』の主人公のようになること。誰からも称賛される木田健司選手のようになること。


希望のない世界を諦めますか、だって? そんなもの、この病室に縛り付けられた時点でもうとっくに無くなっているさ。だから、僕にとっては何一つためらう理由などなかった。


「希望のない世界を…僕は…」


頭の中にいろいろな情景が思い浮かぶ。童心で夢中にサッカーボールを追いかけた光景、ジュニアクラブの監督にお前は使えないと宣告された光景、そして突如重い病に倒れた時の光景、そんな僕を憐れみ見下す大人たちを眺める光景。


「もう諦めてるんだっ」そう言い、ガラス瓶の中の液体を一気に飲み干した。


途端に、僕の視界はベッドの中に沈んだ。自分がうつ伏せに倒れたということに一瞬気付かなかった。急速に、自分の体から力が抜けるのを感じる。怖い、冷たい、もしかしてこれが死ぬって感覚? 死の恐怖に怯えるのも束の間、僕の意識は遠い遠いどこかへと連れていかれていくようだった。



□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■



あの銀色の薬を飲んで五年が経った。僕はあの時死んだのだろう。そして、今では全く異なる世界にまったく異なる人間として生まれ変わった。『スーパーヒーローに憧れる僕が異世界転生してホントのスーパーヒーローになっちゃった!?』みたいな世界に、ケンジとして。


「ケンジ、ちょっと来てくれないか」


お父さんに呼ばれ、僕は駆け付ける。見ると、そこには昨晩の豪雨で流されてきた大木や土砂が川を塞いでいた。僕は、お父さんがなぜ僕を呼んだのかを瞬時に判断した。


「この土砂をどければいいんだね」


お父さんがにこやかに笑いながら言った。「すまないが、頼めるか」


僕は元気よく返事をする。僕は倒れた大木を掴み、そして思い切り投げた。放り投げられた大木はまるで小枝のようにひらひらと宙を舞い、そして遠くの森に大きな音を立てながら落ちた。


今度は土砂だ。僕は思いっきり空気を吸い込むと、それを土砂目掛けて吹いた。たちまち土砂は僕の吐いた息に巻き込まれ、吹き飛ぶ。堆積した大木と土砂はあっという間になくなり、川の流れは正常に戻った。


生まれ変わり、僕には一つ大きな変化があった。それはこの肉体だ。健康そのものの肉体であることも驚きだが、それ以上に驚くべきはこのパワー。重たいものを軽々と持ち上げ、早く走ろうと思えば音よりも速く走れるこの超人的な身体能力。これが、希望のない世界を諦めた代償なのか。


「よくやったケンジ。お父さんはお前を誇りに思うぞ」


大きなお父さんの手が、僕の頭をくしゃくしゃと撫でる。思い返すと、前世の僕は実の父にそんなことをされた経験がなかった。だからこそ、それがとても素敵なご褒美に思えた。


「ケンジ坊や、そっちが済んだならこっちも手伝ってくれないか。うちの家畜が足を折っちまって困ってるんだ。なんとか畜舎まで運んでくれねぇかな」


隣に住んでいるおじさんが僕に助けを請う。頼られるということに僕は無上の喜びを感じ、すぐさま駆け付け解決する。


「ケンジちゃん、こっちもお願い」


「ケンジ君、私も頼めるかな」


「ケンジー!」


村の人々がみな僕を頼る。僕はスーパーヒーローのような力を使いそれらを瞬く間に解決する。気付けば、村の人たちが僕を囲い、称賛と賛辞を投げかけてくれる。


今の僕は同じなんだ。『スーパーヒーローに憧れる僕が異世界転生してホントのスーパーヒーローになっちゃった!?』の主人公と。そして木田健司選手と。


この時、僕の現世の指針が決まった。この力を使って困っている人たちを助けて称賛されたい。僕の憧れの木田健司選手のように、僕は皆にちやほやされたいんだ。

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